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それはまるで華やかに宙を舞う桜のように。

 先日、飲みの席で「最近やった一番イケメンなこと」が議題に上がったので、「中野のTSUTAYAで一番上の棚のDVDを取ろうとして届かない女性を見かけたので声をかけDVDを手渡しそのまま去った」を披露して、見事優勝した。かれこれ4~5年前のエピソードなのだけれど、自分でも驚くほど自然に一連の所作ができたので、武勇伝を語る場では鉄板のエピソードである。異性と歩く際に歩幅が合わず「相手を労わる気持ちがない」と元交際相手に言われたことのある私だが、高身長はたまにいい仕事をしてくれる。

 モテる男に必要な3Kの内の一つ、「高身長」を有しているのが、私の綻びだらけの身体の中でも唯一誇れる部分だ。調べてみると世間一般の自販機と同じ背丈だったし、身長が同じであるため自己紹介を求められれば「坂口健太郎です」「長谷川博己です」とのたまい顰蹙を買うまでが私の飲み会におけるセットアップだ。一度「松坂桃李です」と言ったら後に席を共にした女性が松坂クンのガチ勢だったと発覚し、この一手は封印している。何はともあれ、一笑いを取るにも高身長は役に立つ。本当にありがたい。

 ところが、人間とは慢心する生き物なのである。先程の歩幅の話しかり、自己と周囲の「世界」との距離感を見誤り、思いもよらぬ失敗をするものだ。太陽めがけて飛び立ったイカロスの寓話のように、高きを目指すものは程々にしないと、手痛いしっぺ返しを食らう。

 その日は会社での会食規制も解除され、取引先のメンバーと久しぶりに食事の席を設けていた。会社対会社とはいえ、何も商談に持ち込んで上手いことやっちゃおうという場ではなく、気心も知れた担当者同士で久しぶりやりましょう!みたいなノリの、非常に明るい場になる……はずだった。

 弊社からは私含め2名、相手先も2名の計4名、今日は仕事も忘れて無礼講、男だらけで鍋でもつつこうや、な会だった。ところが、同行するはずだった社員のお子さんが急に熱を出し、時節柄もあり参加を遠慮する形に。これでは弊社1対取引先2で若干の緊張が走ったところ、なんと先方の課長クラスの方が「ぜひ若手と一緒に飲みたい」と急遽参戦が決まり、1対3の不利なスマブラに挑むことになってしまった。

 若手と交流を深めたいというその課長さん、web会議で何度かお見かけした程度で、実のところお会いするのが今回初めてである。相手はどんな性格か、好きなものや趣味は何なのか、そのような話題を広げるための情報も一切なく、ほとんど丸腰で孤独な闘いを強いられることになってしまった私。カラオケに持ち込めば「銀河旋風ブライガー」で引き込むことは出来るが、個室の水炊き屋ではそれも難しかろう。

 困った。突然の乱入者参戦のため、その日の業務への集中を欠いたまま時間は過ぎ、あっという間に時計は17時を回った。ここで心配性な私は「失礼があってはならぬ!」と少し早く会社を出て、泥酔しないようウコンを事前に飲み、フェイスシートで汗臭さを凌ぎ、会社のトイレで少し眉毛を整えてから、タクシーでいざ会場へ。現地集合の30分前に到着し「株価」「世界情勢」のニュースを片っ端から目を通しながら待つこと10分、待ち合わせの20分前に先方3名も到着した。虫の知らせで早く出発しなかったら、本当に終わっていた。心配性でよかった。

 と、ここまで盛っておいてなんだが、お相手の課長さんはとても人が良かった。元々もてなし好きなのか部下に気を遣わせないためか、鍋をみんなの皿によそったり飲み物の注文も率先して音頭を取るなどの人格者ムーブを見せ、温和な雰囲気を醸しつつちょっぴりブラックなジョークも言ったりする。そのギャグセンスも部下や家族をネタにするようなものではなく、自分の失敗談を面白おかしく話してくださるので、開始前の緊張感が嘘のように盛り上がり、時間はあっと言う間に過ぎていった。人間、偉くなっても驕らず、こうありたいものだと勉強になった。

 そろそろ〆のお時間ということで、ちゃんぽん麺を注文し後はそれを食べてお開きの段階で、急に尿意を催してきた。気づけばビールをジョッキ2杯、水割りとはいえ焼酎を3杯も飲めば、まぁそうなろうと言わんばかりに下腹部がアラートをけたたましく鳴らす。明日の仕事を忘れ飲みすぎてしまったのは、今日この場を心から楽しんだ証拠だろう。本当に課長さんには感謝が絶えない。

 「すみませんちょっと御不浄に」「おう行ってらっしゃい」
 さすが“御不浄”が通じるとは、教養もしっかりお持ちでいらっしゃる。素敵だなぁと思いお座敷から立ち上がった瞬間、頭頂部にコツン♪と可愛らしい音と衝撃が走った。何事!?と咄嗟に身体を伏せ頭上を見上げると、天井からぶら下がった風流な照明があった。今時見かけないような和風照明が、ちょうど私が座った位置の真上にあり、トイレに行こうと立ち上がった際にそれとぶつかってしまったのである。

 「大丈夫ですか?」と酔いの場に一気に緊張感が走る。だが、木目と和紙で成形された照明は、ぶつかったところで大した痛みはない。ちょっとびっくりした程度で私は無傷。「大丈夫です大丈夫です」「いやぁすみません」と周囲に無事をアピールして、何事もなかったように席を立とうとする。

 が、視界の端に“それ”がはっきりと、見えてしまった。

 ふわり、と舞い踊るそれは、出会いと別れの春を象徴する桜のよう。ただ空気の流れに身を任せ、空間を優雅にたゆたうそれは、本当に桜だったらうっとりも出来たし、芭蕉ならここで一句読んだだろう。だが、ここは密室で、季節は4月下旬。桜なんてすでに散ってしまっている。では何が、何が部屋を舞っているのか。

埃だ。

 釣り下がった照明の上に積もった埃が、私の頭部との衝突によってこぼれ落ち、部屋を舞ったのだ。本当に不思議なもので、大の大人4人がそれを同時に見つめ、埃だとわかっていながらも何も手が出せず、ただただその行く先を見つめていた。

 そして、それは紆余曲折の旅を重ねながら、麺の投入を待つ鍋の中へ、着地をキメていったーー。

 無。圧倒的無。

 無言である。あれほどまでに盛り上がっていた場が、一瞬で静寂に包まれた。その微細な埃一つが鍋に投入されただけで、我々は語る言葉を失い、虚無に身を預けることになった。

 この時私は、起こってしまった事故をどう諫めるかで脳をフル回転させるも、膀胱はすでに限界寸前で、全てを解き放たんと主人の心を急かしており、人間でありながら「上は大火事、下は大水」をリアルで体感していた。ダメだ。もう笑いでどうにか出来る問題じゃない。ただ、今出来ることは、被害を広げないことだ。つまり、「漏らさない」こと、である。

 静まり返る会場を背に、トイレに行った。その際、なんと言葉をかけたのか、記憶がない。ただただ「死にたい」と思いながら、用を足して、手を念入りに洗った。背が高いことで、人よりも何かにぶつかりやすい人生だった。それでも、痛みは自分だけのもので、誰かを傷つけたことなんてなかった。なのに今、私は具材の出汁が染みこんだ、麺を投入すれば至高の一品へと早変わりする鍋を、汚してしまった。

How do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない

 頭の中の鬼束ちひろが熱唱する中、死刑を待ちグリーンマイルを歩く囚人が如き面持ちで部屋に戻ると、すでにちゃんぽん麵が鍋に放り込まれ、ぐつぐつと煮えたぎっていた。まるで先程の出来事がなかったかのように、穏やかに笑いあう課長と若手社員。そこに私が戻った途端、ちょっとだけ会話に「間」が生まれたのは、勘違いだったと信じたい。

 泥水にワインを一滴たらしてもそれは泥水のままだが、ワインに泥水を一滴たらせばそれは泥水である。そんなことわざがあったと思うけれど、よもやそれを実践するとは思わなかった。なお、その取引先とは今でも付き合いはあるけれど、誰も埃事件には触れようとはせず、なぁなぁのまま日々を過ごしている。

 お互い、水に流せるにはもう少々時間が必要らしい。

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