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“神”なき闘いを描く、傷だらけのスピンオフ『ファイアーエムブレム無双 風花雪月』

 プレイヤーが士官学校の先生となって生徒たちを指導し、やがては彼らを束ねる将として、そして自身も一人の兵士として、同じ学び舎で過ごした学友たちと剣を交える。あまりに悲痛で残酷な「戦争」の在り方を出来る限りゲームに落とし込んだ『ファイアーエムブレム 風花雪月』という作品は、忘れえない心の傷と輝かしい青春の喜びとが同居する、中々に得難い「経験」を与えてくれた。

 『風花雪月』はあのコーエーテクモが開発に携わったタイトルだが、そのリソースを活かしての3Dアクションゲームとして発売されたのが『ファイアーエムブレム無双 風花雪月』である。一騎当千の爽快感が味わえる無双シリーズとファイアーエムブレム二度目のコラボにして、元より「三国志」的な要素のある『風花雪月』と無双の相性は抜群。戦争シミュレーションにおけるユニットの一単位だった愛しの我が生徒たちが、より活き活きと戦場を駆け回りそれを操作できるというのだから、感無量である。

 アクションゲームとしての手触りの良さ、無双に『風花雪月』を落とし込む諸々のシステムについての納得度の高さなど、ただのファンディスクの域を超えた挑戦的な作りこみについては、一介のファンとしても感謝を捧げたい。その一方で、本作は原作である『風花雪月』を愛すれば愛するほどに、喉に小骨が刺さったような違和感を覚えるタイトルでもあるのだ。その違和感は作り手にとっても想定内のものであろうし、そうなってしまうのも理解できる。理解できてしまうからこそ、苦しいのだ。本作が提示した「もしも」は、三人の級長が辿る運命を大なり小なり悲劇的で救われないものへと向かわせてしまい、本作と原作を隔てるある重大な変化の影響をまざまざと見せつけてくるからだ

 今回は、そんな『無双 風花雪月』の挑戦的な内容に触れつつ、本作が描こうとした景色を、なんとか書き示しておくものである。『風花雪月』及び『無双 風花雪月』の重大なネタバレを含んでしまうので、その点はご留意の上、読み進めてほしい。

※以下、『無双 風花雪月』を本作、『風花雪月』を原作と明記いたします。

 まず筆者は本作を青燐ルートから進めていったのだが、シナリオを読んでいくうちに「原作よりも難解だな」と思うようになっていった。その要因として考えられるのは、本作の話運びが、章突入時のムービー⇒進軍中にいくつかのムービー⇒最終地点攻略時の前後にムービー、という形で展開し、進軍の最終地点に到達するまでの戦闘をいくつかこなしていく中で話の繋がりを見失ってしまいがち、というゲームの構造上の問題が一点。もう一つの要因としては「登場人物が急増した」ことが考えられる。

 原作よりもかなり厚く描写されるようになった、生徒たちの父兄にあたる王国・帝国・諸侯同盟の貴族や、モニカやマイクランといったサブキャラクターたち。彼らの中には、本作で初めてグラフィックが与えられたり、戦場で相まみえたりといった活躍の場が描写される者が多く、原作ではテキストだけの登場だった彼ら一人一人が政治家や兵将としての顔を披露する本作の物語は、「戦争」としてのリアリティをより拡充する作用を果たしている。彼らは自らが治める領地の民と利益を守る必要があるし、それぞれに「家」としての事情と根深い歴史を抱えている。三学級の級長が矢面に立って闘う戦争の背後には、常に頭を悩ませ時に命を落とす「大人たち」がいることを、本作は描いてきた。

 彼らのような「大人たち」の描写の追加は、原作で提示された作品世界や三国の立ち位置の情報を補完するものであり、三人の級長の野望に沿ってゴールが示される原作よりもさらに俯瞰した視点から、フォドラという大陸を見渡すことができる。原作では親帝国派と反帝国派に別れていたと描写されていた諸侯同盟内部の対立はより根深い問題としてクロードを悩ませ、ファーガス神聖王国も決して一枚岩ではないためディミトリは問題解決に奔走することになり、フェルディナントの父親であるエーギル公は無能な長として帝国の民を苦しめている。そういった諸問題が足かせとなり、敵国への進軍を遅らせるといった判断を迫られる級長各位のストレスたるや、二十歳を越えたばかりの彼らからサラリーマンの哀愁すら漂ってくるほどだ。

 プレイアブルキャラクターが一騎当千の活躍を見せるため見落としてしまうが、戦争とは一人の優れた武将が前線に立って勝てるものではない。戦争をするためにはまず何よりも「兵」の数を揃え、それらを統べる「将」が必要不可欠。そしてそれらを確保するためには、周辺各位の貴族の協力を取り付ける必要があり、ガルグ=マクの学生だった三級長がわずか2年でモラトリアムを終えて皇帝や国王といった最重要責任者の任を引き受けなければならないのも、こうした交渉を有利に進められるだけの立場が必要だったからこそ。学生だった頃の生徒たちと触れ合うパートがかなり短く、授業や学内行事の場面もほとんど描かれない本作は、原作の持つ学園モノとしての顔を剥ぎ取り戦記モノへと舵を切った、より血生臭いタイトルへと変貌した、と言ってもいいのかもしれない。

 そしてこの闘いとは、ディミトリは自国に潜む陰謀と闇の正体を突き止め、エーデルガルトはフォドラを統べる神に刃を向け、クロードはさらに遠く「世界」そのものの壁を壊すべく挙兵するといった、スケールの大きすぎる戦である。ハッキリ言えば、若き彼らには荷が重いし、そう易々と一代で乗り越えられる問題ではないような気がしてくる。ところが、それを可能にする存在が、原作にはいた。プレイヤーの分身たる“先生”こと、ベレス/ベレトである

 『風花雪月』とは、身も蓋もない話をすれば「先生が与する国が勝つ」物語であった。三級長が語る理想の是非を問わず、ビデオゲームである以上プレイヤーが肩入れする軍が勝利し、そうでなかった組に属する者たちは先生が率いる陣営にスカウトされて生き延びるか、志半ばで屍になっていただくしかない。戦闘になれば常在常勝、ワケあって感情が希薄という設定にも関わらず先生を任されれば類まれなる教鞭能力で生徒たちから慕われ、中には自国を裏切っても先生の方に就くと意思を固める者が続出する始末。フォドラ全土に蔓延り戦争を引き起こす要因にもなった「紋章至上主義」にも縛られず、傭兵であるからこそ各国の政治事情にも行く道を阻まれない、かつ「炎の紋章」を持ち女神ソティスとも融合し最も神に近い存在にまでなってしまうという、改めて列挙すると選ばれし者すぎる最強主人公ことベレス/ベレト。

 本作は、「もし三級長がベレス/ベレトと出会わなかったら」というifから派生した、もう一つの『風花雪月』の物語。三級長の元よりの従者と同等、あるいはそれ以上の信頼を獲得し、唯一無二の友あるいは恋人にも近いニュアンスまで発展し得る先生の存在は、闘いに勝利する上で欠けてはならないピースであった。従って本作は、自らの野望に寄り添ってくれる「神」を失った三人の級長と学友たちが、「人間」だけで大義を成し遂げようとする物語が描かれ、その覇道が必ずしも望ましいものとは限らない、というどうしようもなさを暴き出してしまうものになってしまった。

 先生不在の煽りを最も強く受けてしまったのは、クロード率いる金鹿の学級を主軸とした「黄瞭の章」であろう。……という話をする前に、他の二人の級長が本作で辿る物語を、やや乱暴だが振り返ってみたい。

 まずはディミトリらをメインとする「青燐の章」について。原作では各ルートで迎える最期が様変わりし、その死がムービーではなくテキストで済まされるといった波乱万丈ぶりを見せる妄執の王ディミトリ。本作では、「もしディミトリが妄執に囚われぬまま王になったら」というifにこの章が相当し、「ダスカーの悲劇」の真相解明に最短距離で突っ走っていく“猪”の姿が拝める。父であるランベール王を謀殺した伯父(=ランベールの兄)の大公リュファスをその手で処刑し国王に即位した後、幼馴染のフェリクスを女房役として据えながら帝国との闘いに向かっていく。原作よりも早期に父を殺害した下手人を裁き、やがては帝国とそこに巣くう闇と闘っていく中で、学友たちとも目標を共有しながら強大な帝国に立ち向かっていく、真の意味で「王道」に相応しい物語。ただし、先生の不在によって復讐そのものからは解放されず、タレスを打ち破ることでやや急ぎ足で終幕する物語には、復讐以上の動機を持たないディミトリが今後も民を統べる者として相応しい器なのか、という疑念を生じさせ、タレスの術により意思を奪われ傀儡であり続けたエーデルガルトの真の救済も果たされないまま、どこか歯切れの悪いエンドマークが打たれている。

 次に、エーデルガルトら帝国の覇道を追う「赤焔の章」について。『風花雪月』の世における開戦を告げるのは常に彼女の役割だが、本作でもそれは同様。「闇に蠢く者」に捕まっていたモニカを救出し、ガルク=マクの書庫を司るトマシュがその一味のソロンに入れ替わっていたことが明らかになった後、帝国内に潜む闇に蠢く者としてアランデル公を排除すべく早々に動き出し、見事これに成功。原作において目の上のたんこぶであったアランデル公=タレスを帝国から追い出したことで、「もしエーデルガルトが闇に蠢く者と手を組む必要がなかったら」という状況が発生し、対立軸をよりシンプルに帝国VS教団へと移行させることが叶ったのが本作。言い換えれば、エーデルガルトは何があろうとも教団を崩壊させるために宣戦布告をし、戦争を引き起こしてしまうということでもある。その過程でなんとクロードら諸侯同盟と手を組むという展開が待っていて、理想が近くとも手段が異なるばかりに刃を交えるしかなかった原作とは異なる闘いを目撃することができる。ディミトリはいつも不憫なルートがあるね。

 そして本題の「黄瞭の章」について。結論から話すと、この章におけるクロード像と原作の彼との間には、かなり大きな乖離が生じている。飄々として掴みどころのない原作とは異なり、常に余裕がなく場当たり的な対応を繰り返すしかない本作のクロードに課せられたのは、「もし生徒たちとの信頼を築けぬまま皆を率いる立場になったら」という、もっとも悲しい分岐である。

 三級長とベレス/ベレトが出会わなかったことによる歴史上の改変にて見逃せないのが、「ガルグ=マクでの生活が数ヶ月で終わったこと」「セイロスの長としてレアが健在であること」が挙げられる。原作の第1部における一年間の学生生活とは、課題を通じて他者の命を奪ったりフォドラ全土を覆う闇との決戦を見据えたりする時間であり、同時に学級を同じくする仲間とのかけがえのない「青春」を過ごす時間でもあった。とくにクロードはパルミラからやって来た“異物”であり、フォドラの風土や歴史、あるいはそこに住む人々の価値観を知り学んでいく、という狙いも士官学校入学の動機になっていたように思える。そこで出会ったのは、貴族と平民が混じり合い、それぞれの「家」の立場も紋章の有無も闘う動機も異なるクラスメートたちで、フォドラに住まいし彼らとの友情を育んだ結果として自ら「5年後に集まろう」と提案する姿は、クロードにとってこの学園生活がどれだけ大切なものになっていたかを痛感する。

 そして、第1部のクライマックスにて、レアは白きものとしてガルグ=マクに侵略戦争を仕掛けた帝国(と闇に蠢く者)と闘い、その表舞台から一時的に去ることになる。これにより中央教会は力を失い、ガルグ=マクは賊は蔓延る荒廃した地へと変わるのだが、本作においてはこのイベントは発生せず、レア=中央教会は未だ大きな権威と屈強な騎士団を抱えている。鎖国的な風土を憎み、開国を推し進めたいクロードにとってこのハードルはとても高く、原作よりも突破しなければならない壁を多く抱えているのが本作のクロードの置かれた立場と言えよう。

 本来なら得られたはずの知識と経験、そして友情と信頼を得られぬまま士官学校が休止し国に戻ることを余儀なくされたクロードは、2年後に再び級友とシェズたちを招集する。なんと今度は、パルミラの大軍勢が諸侯領を攻め込んできており、その旗頭たるシハャドは、クロードにとっての腹違いの兄にあたる人物。クロードは、同盟領を守るためにシハャドと闘い、それを討ち取る。祖国でもない同盟領のために、パルミラの同士を殺したのだ。『風花雪月』におけるイニシエーションとも言うべき「同族殺し」の番が、ついに彼に周ってきた。

 シハャドを倒し同盟領を見事守りきったクロードはいつしか諸侯同盟の代表として前線で指揮をする立場になるものの、彼はあくまで「盟主」であり、皇帝エーデルガルトや国王ディミトリほどの強大な決定権を得られる立場ということもなく、出自が不明な彼が貴族を仕切る立場になることを面白く思わない人物も多い。そして何より、諸侯同盟における大事を決める際は「会議」が付き物であり、そのフットワークの重さと周囲から合意を得なければならないという負荷が、クロードから笑顔を奪い去っていく。

 そんな状況を打破するために、クロードは諸侯同盟を一旦は解散させ、「レスター連邦国」へとその形を変えてしまう。そして自らが初代国王となり、戦乱の世において迅速に動けるだけの決定権を得たはいいが、今度は王としての「器」の有無に悩まされることになる。

 セイロス教団の瓦解を目指し、エーデルガルト率いる帝国と同盟を結ぶクロード。原作と比べてレアの排除が成されていない今、クロードは教団そのものを破壊しなければ野望が達せられないと考え、ゴールが近くとも「犠牲を伴いすぎる」やり方ゆえに手を取り合えなかったエーデルガルトと手を組む分岐が描かれた。連邦国・帝国VS王国・教団の激しい闘いが続く中、クロードはとある会戦において戦況を優位にするため、帝国の将ランドルフを見殺しにするという非情な選択を、誰にも相談せず一人で実行に移してしまう。

 クロードにとってそれは、戦争に勝つためであり、同時に仲間を生かすための策である。しかし、そのために同盟を結んだ国の将を切り捨てるというやり方に、仲間たちは反感を隠せない。本作の主人公シェズも厳しくそれを追求する。シェズはあくまで「傭兵」であり、先生ではなく一介の「生徒」に過ぎない。クロードは自らと同じ目線で状況を見据えられるだけの仲間を得られず、一人ですべてを抱え込んでしまった結果、誰かの命を犠牲にして改革を推し進めるという原作で否定したスタンスを取ってしまうところまで追い込まれてしまったのだ

 その後は仲間からの指摘を受け、級友たちと軍議をし意見を取り込むことに決めたクロード。ようやく原作の彼へと揺り戻しが入ることになったが、戦争はまだ終わらない。王国への侵攻を進める中、諸侯領で暗躍する闇に蠢く者を倒すために出戻りをすることとなり、その後ついにレアと闘い、撃破に成功する。レア、並びに中央教会を撃ち倒したことで教団はその力を失い、フォドラ改革への大きな道標を得たクロードは戦争終結を提案するが、帝国と王国がにらみ合いを続ける中、その提案が受け入れられるかはわからない……というナレーションと共に物語は終わりを迎えてしまう。

 レアを討つことは、クロードにとっては犠牲を最小限に抑えるための策だった。しかし、フォドラ全土の制圧を求めるエーデルガルトは未だ止まらないだろうし、教団の後ろ盾を失ったとはいえ王国をなんとしても守らねばならないディミトリも引くことは出来ないだろう。つまり、宙に浮いた停戦協定は、おそらく破談する。クロードが真に成し遂げられなかった開国や旧来の価値観の打破といった野望は果たせぬまま、戦争が終わらない限り犠牲は増え続け、やがてはエーデルガルトと刃を交えることにもなるだろう。原作が「夜明け」を描いたのに対し、本作ではまだ夜は深く、クロードの闘いはまだ続くしフォドラには安寧は訪れないというバッドエンドに到達し「戦争」という行為の負の側面をプレイヤーに刻みつけることで、この物語は幕を引くのである。

クロードは最後まで“きょうだい”と呼べるだけの人物には出会えなかった。

 繰り返すように、本作は『風花雪月』であり得たかもしれない「もしも」を描く作品だ。というよりは、原作が一本で完結したタイトルであるがゆえに、こうしたifでしか派生作品を作れなかった、ということが大きいだろう。

そもそも、『風花雪月』は続編が作りづらいタイトルだ。あの物語は一作で完結しているし、続きを作るには脱落者が多すぎる。かといって前日譚や空白の5年間を描いてもベレト/ベレスがいない上に結末が見えきっているので、面白みが薄い。

『ファイアーエムブレム無双 風花雪月』ファーストインプレッション

 それは、プレイヤーにとってもかけがえのない経験である“先生”としてフォドラに生き、他者の命を奪いながらも誰かの野望に寄り添って闘った原作の余韻を奪ったり、本作がいわゆる正史となってそれを上書きしないための配慮が成されたため、このような物語が用意されたのだろう、という邪推はできる。

 原作で描かれた関係性の深堀りや、新たに開示されるフォドラの歴史事情にサブキャラクターの意外性のある活躍などファンディスクとして申し分なく、ゲームとしてのボリュームも盛り沢山で飽きさせない本作。『風花雪月』をより深く知りたい、もっとあの世界観に浸っていたいと思うプレイヤーの心を満たしてくれる、そんなタイトルである。同時に、愛すべきキャラクターたちが辿る結末が必ずしも希望に満ちたものではないし、ベレト/ベレスの不在を浮き彫りにしたことでこみ上げる寂しさは原作への帰化を促すという性質は、本作がスピンオフタイトルであるための「限界」を表しているようにも思えてならない。

 3Dアクションゲーム、無双シリーズとして格別の爽快感を持つ楽しいゲームでありながら、こんなにも晴れない気持ちで総括を締めることになるのは不本意だが、ifだと言い切ってしまうのならいっそのこと、原作では果たし得なかった三学級が手を取り共闘する大団円が観たかった、という気持ちも心の片隅にある。それをしなかったことが原作でも徹底されており、制作陣の矜持であると理解しつつ、計2作合計160時間を費やした『風花雪月』の物語が曇天で幕を下ろしたことが、どうしようもないくらい切ないのだ。

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