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『空白のキャンバスに描く私は』読了:それでも絵名は、闘った。

 痛い、辛い、もう逃げ出したい。ニーゴのイベストを読むとき、いつもそんな言葉が脳に浮かぶ。大なり小なり、読んでいる自分もダメージを受け、心の傷がかさぶたになるまで時間がかかってしまう。それでも、このコンテンツから離れられないのは、一体なぜなんだろう。

 自分の欠けたものと向き合ったり、秘密を抱えながらも少しずつ前に進んでいくニーゴの面々。その中で、絵名だけは「自分の画力が奏の曲やまふゆの歌詞に追いついていない」と焦りを見せる。自分の表現したいものを、思い通りに出力できない。その苦しみは、彼女にとある過去を思い出させる。父の紹介でかつて通っていた絵画教室。厳しい講評で有名な講師の一言から、絵名は逃げ出してしまった。

 東雲絵名の課題は、依然として「画家としてやっていく覚悟の欠如」である。常に批評の目に晒され、劣等感や自分の無力さと向き合うことを求められる画家という生き方に対し、絵名は十分な強さを兼ね備えているとは言い難かった。それを見抜いての父親の言葉が彼女を縛り付け、描くことにより執念と対抗心を燃やしてしまうが……というのが『満たされないペイルカラー』で明かされた彼女自身の過去なのだが、苦い思い出はそれだけではなかった。

 有名な画家の娘であり、自分も画家を目指してひたすら描いてきた。そんな自負はしかし、プロの目利きには届かない。画力や構図といった技能だけでなく、「講師に褒められる」ことを目標に据えて描いてしまった絵は、講師の口から残酷な言葉を引き出した。

 雪平先生曰く、絵名の絵は「全体を見る力」が欠けているという。全体を見る力、中心やモチーフではなく、もっと広く高い目線で絵を見ること、客観視のことだろうと思う。天才画家の娘、ニーゴのイラスト担当、これまで描いてきたもの、挫折、後悔……。今の自分に塗りたくられた絵の具のレイヤーから一歩身を引いて、自分と自分が見ている世界を見通す視線。絵名は今、余計なものを背負いすぎて、行き詰っている。そのためには一度、真っ新にならなければならない。何も描かれていないキャンバスのように、自分の心を真っ白に。

 そんなこと、簡単にできれば苦労しないのだ。絵名は勇気を振り絞り、絵画教室の春期講習に通うことを決めるのだが、彼女はそこでも傷を増やしていく。二年間も絵を学ぶことから逃げ出してしまったことへの自責、その間に実力をつけていった周りの絵描きたちに置いていかれ、酷評されることの惨めさ。劣等感と羞恥が襲い掛かって、思考は鈍り、吐き気が抑えられない。

 余談だが、この絵名の身体に起こる不調の数々、何かから逃げ出してしまっている人間の思考回路や生理現象に当てはまりすぎて、一度読むのを止めてしまった。これ以上傷つかないように、意識しないようにと脳の機能がセーブされ、その癖ずっと「厭なこと」を意識してしまい、ずっと具合が悪い。自分の弱さやズルさに自覚的である人ほど、身体は正直にマイナスの反応を示す。そんな人間の不条理な生態を生々しく抉り取るプロセカのライターは、真に“人間”というものに迫っている気がする。

 ただそれでも、絵名は春期講習の三日間、逃げ出さなかった。惨めで足りていない自分と向き合っていた。驕りも自尊心もない、足りていない東雲絵名のままで、堂々と批評の場に立ち向かった。

 東雲絵名にとって最後に残された意地。それは「ニーゴのイラスト担当」という今の立ち位置である。ニーゴの一人であり続けたい、そのためには描き続けなければならない。楽曲の世界観を伝えられるだけの画力を、表現力を。今の居場所を守りたい一心で、東雲絵名はどんな屈辱にも耐えてきた。死ぬほど辛い、三日間の拷問。ニーゴにとって欠かせない自分でありたい、仲間に誇れる東雲絵名でありたいという願いが、逃げ出したくなる気持ちをなんとかせき止めた。

 講習の最終日、科された「自分」という課題に対し、絵名が「自分の背中」を描いたのは彼女の成長を表しているように思う。絵画教室から逃げ出してからの二年間、液タブと向かい合ってニーゴのイラストを描き続けてきた東雲絵名という人物。背中を描くということは、それを見ている誰かがいて、もちろんそれは東雲絵名その人だ。譲れないものとプライドを表現するかの如く、「絵を描いている東雲絵名」を描き上げた絵名は、雪平先生に褒められるか否かではなく「描き上げたこと」に満足を得ていた。

 決して、プロの基準には達してはいないだろう。画家を目指しているのなら、当然落第の出来栄え。それでも、東雲絵名がこれまでに無かった視野から切り取った東雲絵名の姿に、雪平先生の心は動いた。足りてはいないが、可能性は潰えていなかった。絵名に伸ばされた手は、彼女に残された、か細くも確かな希望。

 希望といえば、今回において奏は絵名にとってのそれを立派に果たしていたように思う。絵名のニーゴで居続けたいという気持ちは、彼女のひた向きさを表しつつも、表現し続けることでしか救われないという呪いをも秘めている。奏自身が曲作りでしか自分を救えないように、創作に縛られるという意味で奏と絵名は似た者同士だ。そんな魂が惹かれ合い、今のニーゴがある。

 絵名にとってニーゴは今や最後の砦だ。イラストを描き、それが仲間に受け入れられ、ファンに愛されることでしか、承認欲求を満たせない。それが届かなければ自撮りに群がるフォロワーに頼るしかなくなってしまう。奏やまふゆに追いつきたいという絵名の想いには、彼女だけのエゴがこびりついている。それを知ってか知らずかは難しいところだが、奏は、絵名を否定しない。飾らない言葉で感謝を述べ、絵名の絵を、人生を尊重する。

 居場所を与えること、役割を与えること、そして認めること。現世では救われぬ魂の行きつく先であるニーゴは、確かに誰かの希望となっている。その楽曲に救われる者もいれば、メンバー自身が創作活動に支えられ、何とか立っていられる。絵名のドロドロになった感情を抱きかかえるように、彼女を受容し尊重する仲間たちの姿は、絵名があの三日間を耐えるためにどれほどの励みになっただろう。

 本当に、立派だった。ずっと嫌なことから逃げ出して、週末の休みも無駄にしてしまう今の自分には、東雲絵名は眩しすぎた。自分の弱さも至らなさも客観視し、足りていない自分を満たすために次の闘いへと歩を進める。東雲絵名は、本当は強い人だと思う。傷だらけの心と背中を見せつけて、それでも描き続ける覚悟が定まった。弱さを受け入れて闘い続けられる人が、一番格好いいし、憧れる。

 後はもう、絵名が感じる痛みから自分を救ってあげられるだけの実力と自信を身に着けるしかなくて、その希望は未来に繋がった。この春期講習で見せた彼女の覚悟が、いつか父親に届くことを、切に願う。


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