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その手は取れない。今は/これからも。『ボクのあしあと キミのゆくさき』

 人と人は完全にはわかり合えない。それでも、わかろうとする気持ちこそが尊いんだ。

 『シャニマス』のイルミネーションスターズだったり、『新世紀エヴァンゲリオン』だったり、コミュニケーションを題材にする上で時折目にするこうしたメッセージに、私は救われたような気持ちを抱いたことは一度や二度ではありません。相手のことが何でもわかるなんて欺瞞もいいところで、私とアナタは突き詰めれば他人でしかない。それでも、目の前の他者のことを知ろうと、理解しようと一生懸命であることは、何よりも美しいんだと。わかり合えない部分があって当たり前で、それを踏まえて他者と接することが正しいんだと。

 そうした道徳の教科書のような価値観はしかし、自分の無理解と知識不足によっては一瞬で「想像力の欠如」に繋がります。こんなことで悩んでいるんじゃないかとか、苦労してきたんだねとか、わかったようなツラして吐き出した言葉が誰かを傷つけてきたなんて知らずに、のうのうと生きている。それが、私という生き物です。

 暁山瑞希、という人がいる。なぜ「人」という表現を使ったかと言えば、私は暁山瑞希にどんな人称代名詞を当てはめればいいのか、わからないからです。彼なのか、彼女なのか。どんな表現なら暁山瑞希を表すのに正しくて、読み手を不快にさせないでいられるのか。それすらあやふやなまま文章を進め、そんな気遣い(にも満たないそれ)が暁山瑞希を傷つけてきた。

 「ボクは、ボクでいたいだけなのに」という、切なる願い。男とか女とか、社会的とか生物学的な区分じゃなくて、「暁山瑞希」を見てほしいだけなのに。でも、マジョリティは暁山瑞希という個人を規定する言葉を持たず、誤ったレッテルを貼るか爪弾きにすることしか出来ずにいて、その中の一人が私のようにたまたま身体と心の性が一致しただけの「普通の」人

 普通。残酷な言葉です。マイノリティをわずか二文字で簡単に殺せてしまう、危うい言葉。これを振りかざすだけで、人は簡単に傷つき、色んなものに諦観を抱いてしまいます。暁山瑞希もきっと、この二文字に色んな可能性を封殺されてきました。そして、今も。

 『ボクのあしあと キミのゆくさき』では、暁山瑞希のカミングアウトが主題に描かれます。まふゆを笑顔にした楽曲が思いもよらぬ反響を産み、誰かを救う音楽の伝播に確かな手ごたえを得る。奏、まふゆ、絵名は確実に前に進んでいる。そんな中、取り残されたような心情を覚える瑞希は、メンバーにも明かせない「秘密」の重さに耐えられなくなり、一人嘔吐する。カワイイを追求する暁山瑞希という「ペルソナ」が保てなくなる瞬間が来るのではないか。その予感に、暁山瑞希自身が苦悩する。

 「暁山瑞希」を取り繕えなくなったその表情は、プレイヤーと絵名を震撼させる。暁山瑞希は強い子で、メンバーの誰よりも大人で、みんなの輪を繋ぐ精神的長者だった。でもそれは、暁山瑞希がこれまでの人生で培った(こうするしかなかった)処世術であり、読み手である私の願望でしかなかった。暁山瑞希は、自分が真に理解されるという希望をすでに切り捨ててしまっていた。その絶望は、深い。

 ニーゴのメンバーはそれぞれに、重たい悩みを抱えています。生きる理由を見失いかけた少女。自分が「わからない」少女。認められたくてもがく少女。誰に打ち明けていいかわからず、簡単に解決できるわけでもない問題を抱えながら、それでも創作を経て前に進み、少しずつ傷だらけになりながら、前に進んできた。

 じゃあ暁山瑞希は?「性別」などという、産まれ持った瞬間に付与される属性に縛られ、打ち明ければ壊れてきた人間関係のトラウマに苛まれ、どうしていいかわからない。ニーゴがかけがえのない「居場所」として、メンバー各位の中に刻まれていったこれまでの積み重ねがあればこそ、瑞希は苦悩します。「秘密を打ち明けてしまったら、今の関係が壊れてしまうのでは」と。ニーゴが前に進もうとする変化によって首を絞められ、追い詰められてしまった、残酷すぎる仕打ち。

 もちろん、「言わない」という選択肢だってあります。ニーゴは性別によって瑞希を追放するようなことはないだろうし、変わらず接してくれるでしょう。だがそれもまた、こちらの身勝手な願望なのです。

 瑞希にとっては、みんなが「自分が(生物学上の)男であっても変わらず接してくれようとしている」ことが耐えられないのです。他者を思いやる優しさを持つ奏はもちろん、まふゆも絵名も何事もなかったように瑞希と接し、変わらぬ扱いをしてくれる。ただ、「気遣い」という一線が引かれた状態こそ、瑞希が恐れる状態なのです。学校という集団の「普通」に染まらない瑞希に「慣れた」だの「わかってる」だの、理解を示す言葉で断絶を意識され、傷つけられてきたあの悔しさ哀しさを、最も大切な繋がりであるニーゴに抱いてしまったら。それはもう、立ち直れないほどの痛みになるでしょう。

 だからこそ、今回の絵名を見るのが辛かった。瑞希を「大切な友達」だと自覚し、瑞希の力になりたいと純粋に願う絵名は、瑞希が自分の口から打ち明けることを望んでいます。いろんな手回しをしたり、雰囲気作りもしてくれて、瑞希が吐き出しやすい環境を作ってくれています。それは確かに優しさで、思いやりです。

 ところが、絵名は瑞希を理解したいという願いが先行する余り、瑞希が秘密を打ち明けるその瞬間にばかり注力してしまっています。一番大事なのは、瑞希の秘密をどう飲み込んで、瑞希自身をどう受け入れるかを、真剣に考えなければならないのです。その視点が抜け落ちてしまっている今の絵名の優しさは、瑞希にとってはありがたくて嬉しいのと同時に、過去のトラウマを誘発させたのではないでしょうか。

 相手を理解するために「全部話してよ」と訴え、二人は真の友情を結ぶ。それが今までの作劇の「当たり前」でした。ですが、問題はそんなに簡単ではないのです。真にわかり合えるかなんて打ち明けないとわからなくて、亀裂が走ったら修復は不可能なんです。そんな賭けを迫られるなんて、あまりに神は残酷じゃあないか。

 今のニーゴを大切に想うから、それを自分が壊すなんて考えられなくて。瑞希は、絵名が持ち掛けてくれた「保留」を選択しました。いつかは話すから待っていて欲しいと、絵名が設けてくれた優しさに甘える形で、瑞希のカミングアウトは果たされずに物語は幕を閉じます。

 未来を封じられ、諦めるしかなかったこれまでと、「今を楽しむ」ことでしか満たされなかった生き方。瑞希は、これまでの日常が続くことを祈ります。たとえいつか崩壊するかもしれない、という爆弾を抱えてもなお、ニーゴが今のニーゴでいられるロスタイムをやり切って見せると。

 そんな自分を自罰するように、瑞希は独り屋上に佇む。救いの手は確かに差し伸べられた。でも、それを取らなかった。与えられた救いを受け入れられなかった自分を「ズルい」と罵った。いつか自分から打ち明けなければならないという強迫観念に縛られて、息苦しくなった自分を、絵名なら「怒ってくれるかな」と願望も添えて。

いっそ、ボクの代わりに
誰かが全部話してくれたらいいのに

 ご都合主義の神様なんていやしない現実のセカイで、暁山瑞希は産まれを呪う。こんな身体に閉じ込められた心が悲鳴をあげて、奪われてきた可能性を振り返れば苦しくて。「救済」をテーマに活動してきたニーゴの、誰もが救えないかもしれない心と身体の問題と向き合うたびに、胸が苦しくなる。

 暁山瑞希が救われて欲しい、その願いに偽りはない。先送りにされた絶望に向かって進む物語なんて、読みたくない。暁山瑞希がニーゴにいられなくなる未来が来るとすれば、私はプロセカをアンインストールするだろう。

 これもまた、「普通」の人の身勝手な願望なのだけれど。


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