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アニメ版『カリギュラ』は、理想(キミ)に“さようなら”をより深く突き付ける。

 外出自粛を応援するために、『カリギュラ2』を買った。これがめっぽう面白い。前作(OD)の不満をことごとく潰して現代のRPGに寄せつつ、それでいてカリギュラらしさ、現代病理×偶像殺しのエッセンスは色濃く刻まれている。個人的には理想的すぎる続編で、クリアした暁にはしっかり感想を書き残しておきたい。

 その傍ら、前作を思い出すためにも、今まで手が伸びなかったアニメ版を視聴することにした。が、これが良い意味で驚きの連続だった。このアニメ版は、原作ゲームをトレースすることは意図しておらず、大きな改変が施されていたからだ。

 同じRPGゲームを原作としたアニメなら、私はすぐに『Persona4 the ANIMATION』を思い出す。PS2専用ソフト『ペルソナ4』を元に、主人公はアニメ用に名前を人格が与えられるも、その大筋は丁寧に原作のストーリーをなぞり、ソフト版の最終巻の特典映像できっちりトゥルーエンド(真の黒幕との対決)に至るまでを映像化するほどに、原作ゲームを忠実に再現している。BGMや美術など、細かい点まで気を配られた原作再現をピックアップしながら、毎話毎話楽しく視聴していた。

 それと同じような出自でありながら、アニメ版『カリギュラ』は独自の路線を歩む。「式島律」という人格を与えられた主人公は、(この手のゲームの宿命として)無口だった原作での印象とはまるで正反対で、すぐに心理学を引用する、お世辞にも現実社会で上手くいっているとは思えない造形として視聴者の前に現れた。そんな彼に親し気に寄り添う水口茉莉絵。繰り返される高校生活の三年間の異変に気付く律は佐竹笙悟に助けられるが、一向に覚醒は描かれない。原作ゲームを知っていればこそ深まる、この違和感。

 なんと驚くことに、主要メンバーがカタルシスエフェクト(闘うための力)に目覚めるのも、帰宅部を結成するのも、6話での出来事だ。1クール全12話の内の6話である。そしてバトルがない代わりに、帰宅部メンバーが偽りの仮想世界に気づき、現実世界に帰ることを望むまでを、6話を用いてじっくり描く。戦闘も無しにスイートPや少年ドールのエピソードを消化する手際には、本当に驚かされた。

※なお『オーバードーズ』準拠ではないため、天本彩声/琵琶坂永至/梔子/Storkは登場しない。

 もし原作ゲームを通らずにアニメ版を視聴していたら、これがRPGゲームのアニメ版だということに気づかなかったかもしれない。その癖、μとメビウス、楽士が何なのかの説明は最小限で、帰宅部メンバーの人物紹介もかなり早いスピードで消化されるため、原作を遊んでいないと世界観を把握するのが難しい。原作ゲームというサブテキストを必要としながら、履修組も振り回すような尖った構成。それも『カリギュラ』らしい尖り方だけれど、少なくとも万人に薦めやすいタイプの作品ではないのかもしれない。

 その代わりにアニメ版が追及したのは、原作ゲームには無いアニメ版だからこそ出来る要素。すなわち「主人公は如何にしてメビウスにやってきたのか(逃げ出したのか)?」というテーマを、描き出そうとしたのである。

【注意】以下、ネタバレを含みます【注意】

 式島律。アリアの助けを借りずカタルシスエフェクトを引き出し、μもその名前を知る彼は、明らかなイレギュラーだ。その秘密が明かされたのは、11話での出来事。

 ある日目覚めた男は、世界の現状を知る。アストラルシンドロームという原因不明の奇病により人々が眠り続けていること、それにはバーチャドール・μが関係していること。その謎を解くために職場を訪れた男、橘真吾。彼がそこで出会ったのは、式島律。視聴者の前に式島律としてお出しされていた人物は、現実社会における橘真吾の容姿をトレースしたものだった。

 橘真吾の姿を借りてメビウスを生きていた式島律。彼こそがバーチャドール・μの開発チームの一人にして、もっともμに心酔し、恋焦がれていた人物だった。他人と上手くコミュニケーションできず、精神科にも通っていた律は、ある時μと会話が出来ることに気づいた。現実に拠り所のない男と、人々を幸せにしたいと純粋に願うプログラム。男は自らの理想を世間一般の「幸せ」としてμに学ばせ、μはその偏った知識の元に人々が幸せになれるための仮想現実を創り上げ、人々を誘った。現実に苦しむ人を救いたい。その善意こそがメビウスとアストラルシンドロームの正体であり、その裏では他者に歩み寄ろうとして、しかし無残にも切り捨てられてしまった男の悲痛な想いがそこにはあったのだ。

 ここからの解釈は、本当に難しい。苦痛も悩みもない仮想現実に生き続けることに対して、それでも現実(地獄)と向き合って帰ることが、絶対の正義となりうるのだろうか。これは原作ゲームでもアニメ版でも、そして今遊んでいる『2』でも繰り返し論じられるテーマだろう。自分の願いが何でも叶う理想郷を知った後で、誰もがつらい現実に立ち向かえる勇気を持ってそこへの帰還を願えるとは、私は到底信じられない。

※余談だが、水口茉莉絵はここでも真には救われない人物として描かれ続ける。その後の行く末は小説版をご参照いただきたい

 ただ、式島にとっては、メビウスで生きたことで自らの「幸せ」の定義の誤りを悟り、現実世界を生きることを選んだ。そのために、μを壊す。「理想(きみ)を壊して、現実(じごく)へ帰る――。」原作ゲームのキャッチコピーにして、最終話のタイトルに掲げられたこの言葉は、シリーズ全体を通底するテーマでもある。そして、「式島律」という人格を与えられ、μの作り手にもなってしまったアニメ版の主人公の旅路を見守ることで、私は原作ゲームの結末のもう一歩先を覗いたような、そんな感触を受けた。思えば、主人公の武器が二丁拳銃なのも巧く作用していて、μを壊すため、理想を壊して現実を生きるためには自らの指で引き金を引かねばならない、ということがこの最終話でとても残酷に活きてくる。

 この結末をもって、アニメ版『カリギュラ』は壮大な「愛」の物語として締めくくられる。律から貰った幸せの定義を実行し仮想世界を創り上げたμの人類愛と、そんなμに支えられ、心から愛し、その死を看取った式島律。本作は、帰宅部と楽士との対立や、彼らのトラウマを深掘りしたり辛い現実で生きることの尊さを訴えるよりも、式島律とμの物語にフォーカスして描くことを選んだ。μの願いが、祈りが、現実世界で息苦しさを抱える人々を一時は救い、癒したことは紛れもない事実だ。式島律はその理想郷を壊し、前に進むことを選んだ。その通過儀礼として、μの命は終焉を迎えた。ある意味でとんでもなく身勝手な決断だけれど、悔しいかな、μが辿り着いた「人間」という生き物の定義が私の中で腑に落ちて、またしても『カリギュラ』に深く深く刺されてしまったのである。

不思議。

帰宅部の皆は帰りたいのに
帰るのが少しだけ怖かったり、
楽士達はこの世界にいたいはずなのに
寂しそうな顔の時があったり。

白と黒、不思議で、複雑。

 アニメ版『カリギュラ』、とても良かった。例えば2だけ遊んだ人がいたとして、その人が「1を遊ぶ時間がないからアニメで補完する」としたらそれは推奨できないけれど、原作を元にした別物としてはかなり大胆でよく練られた作品だと思い、ゲーム履修済みなら絶対に観て欲しい一作だ。ゲームを彩った楽曲のアニメ版リアレンジや、μの新曲も聴いてぜひしんどくなってほしい。以上です。


























 というわけで上田麗奈さんの話しますね!?いや、めっちゃくちゃよかった。6話の時点で「人々を幸せにする」ことに生真面目すぎて狂って見える塩梅の演技や、声帯に負荷のかかる叫び声の悲痛さが群を抜いてヤバい。その一方で7話での律との会話での、あの幼く愛らしい子どものような無邪気さ、律への母性を感じさせる終盤、アカペラで歌うシーンは本当にゾクゾクさせられっぱなしだった。一体どれだけ表現の引き出しがあるんだろうこのお方。μが誰をも魅了するアイドルとして、時に人を狂わせる存在として見えるかが必須のこの題材において、μ役に上田麗奈さんをキャスティングした人、本当に偉い。何かしらの賞を与えられていて欲しい。賞与すんごい貰っていてほしい。歌唱も演技も抜群に上手いし、「憑依型」と称される上田さんが命を吹き込んだμの魅力が、『カリギュラ』を牽引しているのは間違いないと思います。本当にありがとうございました。

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