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人間ナメんな精神が遥か輝く『ウルトラマンZ』

 全2クール25話。ここまで加速度的に「面白さ」が増していくウルトラマン、いや特撮番組も久しぶりだ。土曜の朝は必ず関連ワードがtwitterのトレンドを席巻し、とくに最終2話の盛り上がりは尋常ならざるものがあった。『Z』でウルトラマン沼に入信したとか、『オーブ』『ジード』の履修を始めた層も多いと聞く。2020年を締めくくる前に、やはりこの作品を置いて新年を迎えるわけにはいかない。文句なしの完結をもって早くも「伝説」と化した印象さえある本作のことを、リアルタイムの熱が冷めない内に形にしておこう。


「特空機」という力、あるいはお仕事

 『ウルトラマンZ』の1話時点では、ゼットそのもののキャラクターや、愛すべき特空機1号ことセブンガーに注目が集まっていたように思い返せる。放送前に大々的に報じられたゼロの弟子という出自が実は「自称」であったり、日本語が不得意でトンチキな言葉遣いを繰り返す、畠中祐氏の必死で熱い声色も相まって「元気で少し頭弱い子」という強烈なデビューを果たした我らがゼット様。あるいは、かつてのロボット怪獣から人類の防衛兵器としてリニューアルされたセブンガーの、戦闘ロボットなのに常に困り顔に思わせる目の表現であったり、泥臭く拳で怪獣と闘う姿がどこか健気に見えた。

 とくにゼットの愉快な個性がSNSでも話題を集めたことにより、2話以降でもクローズアップされるものと思っていたが、実のところゼットの台詞数はそこまで多くないように思えた。要所要所でハルキを導き、勇気づけ、時折ヘンな日本語を使う。ゼットそのものの面白さはあくまで枝葉の一つに過ぎず、作品全体を貫く面白さは別の要素にあったというのが完結を経ての気づきとなった。

 本作は、怪獣災害に対応するための「地球防衛軍」が存在し、そのロボット部隊として「ストレイジ」が組織され、主人公らはそのメンバーとしてロボットを操縦し、怪獣と闘う。いわゆる「科特隊」にあたる設定だが、近年のウルトラマンでは防衛軍的なものが登場しない、主人公サイドが所属していないなどの作品もあり、作品の根幹に怪獣と闘う組織を据えるのは、実は久しぶりなのである。ご丁寧にワンダバまで流れる本作では、ウルトラマンと並び立つ存在としてストレイジと特空機をフィーチャーしていく。

 シリーズ前半は、現れた怪獣に対しストレイジがいかに対処するか、に主軸が置かれている。透明怪獣ネロンガや四次元怪獣ブルトンなど、ただ巨大なだけでなく特殊な能力を持つ怪獣が多数現れ、その能力に翻弄されながらも突破口を見つけ怪獣を打倒する回もあれば、寝ているゴモラを輸送するといった『新世紀エヴァンゲリオン』前半の展開に近いバリエーション豊かな作戦が毎週楽しませてくれた。怪獣の特性が一話の中枢に置かれ、それをいかに攻略するかを描く物語が連続して描かれ、本作はストレイジの「お仕事ドラマ」としての側面を濃くしていく。ウルトラ怪獣に知識のあるファンはその解決策にニヤリとし、ウルトラ初心者は毎週現れる多種多様な怪獣の生態に驚かれる。とてもクレバーな構成に思えた。

 前線で闘うハルキやヨウコ、怪獣を分析し怪獣打倒の糸口を与えるユカ、何やら物知り顔だが隊員からの信頼の厚いヘビクラ隊長。彼らのチームワークが特空機運用の要となり、怪獣から市街地を守ったり、ゼットに怪獣打倒のヒントを与えるシチュエーションが多々あった。本作においてストレイジ(特空機)とウルトラマンは極めて近い力の象徴として扱われている。ウルトラマン作品である以上、ウルトラマンが怪獣や宇宙人を倒すことが毎回のゴールとなるものの、決してストレイジや特空機の活躍は「前座」ではなく、ウルトラマンと並び立つ戦力としてその活躍がクローズアップされていく。

 セブンガーに続いてウインダムが配備され、キングジョーを鹵獲しストレイジカスタムとして自軍の兵器として取り込むといった短期間でのパワーアップを果たし、ついに怪獣の殲滅まで可能となったストレイジ。人類がウルトラマンに匹敵する力を得るまでに技術力を蓄え、それを「殺す力」ではなく「守る力」として振るっていく。その矛盾やジレンマを抱えながらも、守りたい者のために戦地に赴くストレイジのドラマ、それが『ウルトラマンZ』の、とくに終盤で炸裂するエモーションの所以だろう。

増強されてゆくストレイジの戦力とウルトラマンの力を「暴力」のキーワードで読み解く、こちらのブログも併せてお読みください。

筆者余談

 それを象徴するように、ウルトラマンZその人であるハルキもずっと特空機で前線に立ち続け、怪獣と死闘を繰り広げたのち、「どうにもならない」と悟った時にウルトラマンに変身する。先輩の主題歌を借りるのなら「ギリギリまで頑張って ギリギリまで踏ん張って」どうにもならない時に初めて選択肢に挙がるのがウルトラマンへの変身であり、そんな状況で人々を窮地から救うからこそ光の巨人はヒーローたりうるのだ。その根底にあるのは、ハルキのガッツ溢れる根性が表現する「人間ナメんな精神」だ。ウルトラマンに頼りっぱなしではなく、地球の危機は地球人で何とかする。そのための力、特空機がウルトラマンと対等な力で並び立つ時、その危うさを重々知りつつも、どうしても心が湧きたってしまうのだ。

「ゲーム」としての侵略

 怪獣殲滅のための兵器を増強し、異次元潰滅兵器D4、人造ウルトラマンを造るまでに至った人類。実質、世界を滅ぼす力を手にしたそのタイミングで、これまで暗躍していたヴィランの目的が明らかになる。これも巧みな構成だった。

 寄生生物セレブロ。人間に寄生し怪獣を送り込み続けてきたヤツの目的は、その星の防衛意識を高め強力な兵器を自ら造るよう誘導し、その兵器によって自滅へと向かわせること。その行いを「文明自滅ゲーム」と呼称し、これまでいくつかの星を自滅に誘ってきた、宇宙規模の愉快犯。

 もちろんセレブロとは、視聴者が漠然と抱く「力の暴走」のメタファーであり、やがて起こるであろう悲劇を人為的に起こそうとした悪意そのものと言える。地球防衛軍という意思統合の場と組織が設けられているにせよ、ウルトラマンに頼らない防衛力を追い求めていった結果、特空機保有が日本に集中するという状況は、よからぬ権益争いの火種となったり、戦力集中の批判を受けかねない。打倒怪獣のために手を結んだ人類の関係決裂、あるいは兵器暴走による意図せぬ破壊と自滅。守るための力が実は自分たちの首を絞めかねないというパラドックス。それを遊戯として楽しむ存在がラスボスとして立ちはだかり、特空機の活躍に喜ぶ視聴者にも「待った」をかける。やられた!という気持ちで終盤を見守ったファンも多いのではないだろうか。

 思えば、最終回ラストでハルキがウルトラマンゼットと共に宇宙で旅立っていくのも、セレブロ侵略を受けての決断だったのかもしれない。自らの力でウルトラマンを造ることが出来た人類にとってゼットの手助けは最早不要とも言える一方で、ゼットの力を解析して更なる兵器を造ろうとした何者かが今後現れるとしたら、ゼットは人類にとって過ぎたパワーであり、間接的に自滅を招く悪魔となりうる。そんな愚か者は少なくともストレイジの皆がいる限り現れないだろうが、デストルドスが全世界を襲ったことで特空機や人造ウルトラマンの全世界保有に向けて動き出す可能性とて皆無ではなく、いずれ核兵器と同等に国家間のパワーバランスを保つ抑止力として扱われる未来だって、訪れるかもしれない。

 守るための戦士たるウルトラマンゼットにとって、エース兄さんの教え通り(その地球にとっての)「最後」の勇者として立ち去ることがその星を守る最後の任務、だったのかもしれない。

ジャグラス・ジャグラー、旅の果て

 『ウルトラマンZ』は単体でも楽しめる一方で、いわゆる「先輩」要素の汲み取り方も大きな話題となった。なにせ前作の劇場版が『ニュージェネクライマックス』だなんて銘打った以上これで一区切りと思いもしたが、蓋を開ければ『Z』はちゃんとニュージェネシリーズの延長戦にある物語であった。

 ご存じウルトラマンゼロの自称弟子というゼットの出自、見た目に既視感ありすぎる武器ゼットランスアロー、助っ人枠として参戦するジード=朝倉リク、ベリアル剣、今なお途切れぬベリアルとの因縁としてのデビルスプリンター、グリーザ。ニュージェネ以外でも、必殺技がファンサービス過多なガンマフューチャー、見た目が赤いあいつなベータスマッシュ、エース兄さんの客演などなど、オタクが喜ぶネタは挙げればキリがないほどに詰め込まれている。

 ただ、それらを吹っ飛ばすくらいに強烈だったのがヘビクラ隊長その人である。演:青柳尊哉は単なる楽屋オチ止まりかと思いきやジャグラス・ジャグラーその人としてゼットの地球に居座り、素性を隠してストレイジの隊長を務めているのだ。

 終始「なんで」「どうして」が付きまとう彼の動向、隠し切れぬ闇のオーラ、未だ明かされぬ隊長就任までの経緯。かつてのジャグラーを知る視聴者だからこそ感じられるハラハラは、番組への興味を持続させる大きな原動力の一つだったことは間違いない。

 ようやく目的が明かされたのも終盤も終盤だが、本人曰く「自分の正義を絶対だと思う者たちにその正義の危うさを思い知らせる」というもので、オーブ=ガイを始めとする絶対的正義としてのウルトラマンへの憎しみや、『ORIGIN SAGA』を思わせる台詞なども併せて必ずしも彼が考えを改めた様子はないようだ。

 しかしそれでも、ストレイジという集団の居心地や、メンバーへの思い入れは強かったようで、ハルキを見捨てきれなかったためにセレブロに敗北し、自分が宇宙人と明かされてもなお自分に付いてくる部下たちの期待を背負って、怪獣ゼッパンドンではなくウインダム(人類の兵器)で最終決戦に臨む姿は、彼の孤独な旅を見守ってきた者ほど感慨深く映る。

 決戦前、ヘビクラ隊長は結集した部下の前で「逃げていい」という言葉を口にする。「ギリギリまで頑張って ギリギリまで踏ん張って」、それでもどうにもならない時、逃げだしてもいいんだとジャグラーは言ってのける。それは、彼がウルトラマンではないから(なれなかった)からこそ口にできる言葉で、ジャグラーはどこまで行ってもウルトラマン(光の戦士)にはなれず、しかし弱き者(人間)の立場になって考え、思いやることができる。それは間違いなく、ジャグラーの心の中に宿る確かな「光」だ。

 映像化されているものとそうでないもの含め、ジャグラス・ジャグラーが辿った旅路は絶望と喪失に満ちている。それでも、ウルトラマンには出来ない方法で「守る力」を行使しようとするジャグラーの姿に、微かな希望を見出すことはできるだろう。「ウルトラマンではない」ことが必ずしも「ヒーローではない」とは限らないことを示してくれたジャグラス・ジャグラーの在り方は、怪獣と闘う大人たちのドラマを描く『ウルトラマンZ』の本懐だったと信じたい。

ゼット、また会える日まで

 「最高の最終回」をもって、ゼットとハルキ、ストレイジらの物語は一区切りとなった。ここにきて、毎年恒例の劇場版のアナウンスが未だされていないことに、寂しさを感じずにはいられない。

 なぜなら、『ウルトラマンZ』はこれまでの作品よりも遥かに応援上映が映える作品だからだ。全席完売の劇場で、みんなで声を合わせてその名をご唱和したい。その光景を見て、参加できただけで、泣いてしまいそうだ。事実、24話の最終決戦において、思わずモニターの前でご唱和してしまった諸氏も多いと思う。「我の名を叫べ」と高らかに歌い上げる遠藤正明アニキのシャウトに全力で応えたい、そう思うのが『Z』のファンなら当然だ。

 そう考えると、誰もが気兼ねなくイベント上映に参加できる世の中が訪れるまで『劇場版ウルトラマンZ』は実現しなくていいのかもしれない。すでに全世界の人々が未曽有の危機に対して「ギリギリまで頑張って ギリギリまで踏ん張って」いる最中だが、その先のご褒美としてゼットやハルキにまた会えるのなら、もうちょっと頑張ってみようとも思えるのだ。

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