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【映画とか】『仮面ライダー555』の広がる宇宙【小説とか】

 『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』を全力で楽しむための『555』行脚、まるでベルトの数にちなんだが如く3本のnoteを残して完結したわけだけれど、平成ライダーには映画やスピンオフのような「枝葉」があるのがお約束だ。なので、4本目のnoteはTVシリーズ以外の『555』の感想を書いておいて、来年の自分への投資としておこう。

劇場版 仮面ライダー555 パラダイス・ロスト

 今なお名作と名高い、TVシリーズ放送中に公開された夏の劇場版。最初のnoteにも書いたとおり、自分にとっては“劇場で初めて観たライダー映画”であるために思い入れは強いし、見返した回数なら歴代映画の中でも上位に入るはずである。

遠くない未来、どこかの国──
全世界は人類の進化形 〈オルフェノク〉によって
支配されていた

 本作は劇場版と銘打たれてはいるが、ただのTVシリーズの拡張版ではなく「映画を作ろう」という気概を全編から感じるし、TVシリーズとのリンクが当たり前になる前の平成1期の、それもごく初期の作品群から感じる「殺伐さ」を全身にまとった風格が、やけに懐かしい。

 本作が素晴らしいのは、「人類とオルフェノクの数が逆転している」という設定を用い本編とはパラレルであることを担保することで「TVでは見られないファイズ」というゴージャスさを確保しつつ、それでいてその設定に見合ったスケールの映像を確保していること。オルフェノクが跋扈する世界は我々の現実社会と地続きであることそのものが末恐ろしく、絶望寸前の人類が廃墟となった遊園地を隠れ蓑にレジスタンスを形成している様の、その新鮮さと寄る辺無さがたまらない。

 そうした絶望的な状況を明るく照らす光として何度も言及されるのが「救世主伝説」であるのだが、本作のファイズ、いかんせん格好いい。ファイズ=電飾のイメージを決定づけた、記憶を取り戻した巧が最初に変身しライオトルーパーの大群を蹴散らす夜のファイトシーンや、VSサイガの血湧き肉躍るフェイタリティ、1万人エキストラの前でサプライズ的に初披露されたブラスターフォーム対オーガの結末などなど、ファイズ=救世主の説得力を支えるアクションシーンは今なお古びないヒロイックさだ。

 興味深いのは、TVシリーズとは真逆の勢力図を用意しながらも、人類とオルフェノク、とくに勇治の辿る道がTVシリーズの展開の先取りとなっている点だ。人類との共存を望み“真っ当な”オルフェノクとしての道から外れた勇治だが、結花を失い、人間への憎悪を増長させられることで共存の可能性を自らかなぐり捨て、巧らと決別する。勇治がオーガになるか否かを除けば、TVシリーズと劇場版が走る道のりはかなり近いものであるようだ。

 私は以前、TVシリーズを通じて『555』とは一つの正解を提示しない物語なのでは、ということを語った。差別をする者とされる者がいて、その融和と隔絶という問題に対し『555』は答えを定めることはなかったし、その態度に誠実さを感じつつ、答えを見つけようともがきながら闘うクライマックスに巨大な感動が待ち受けていた。だが、TVシリーズと劇場版が似通った道を辿ったことで「差別は一つの世代では覆せない」ということを暴き出してしまったのかもしれない。

 死者多数、絶望的な状況において勇治たちが迎える顛末と慟哭の叫びは身を切るような痛みがあるし、決して明るい映画ではない。それでも、光の向こうへと歩いていく巧と真理、その背に流れる「Justiφ's-Accel Mix-」という鮮烈なイメージは、大人になっても忘れ得ない映画体験だ。これを喰らってパラダイス・ロストが大切にならないはずがないし、そのタイトルを踏襲してきた来年の新作に対し異様な期待と恐怖でないまぜになってしまうのは、もう避けられない。お願いだから外してくれるなと、祈ることしかできないのである。

平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊

 「藤岡弘、の本格参戦」「勝敗をネット投票に委ねる」「仮面ライダーBLACKを敬愛する桐山漣がジョーカーに変身してダブル光太郎と闘う」という、白倉大首領のいいところも悪いところも全部詰め込みました!みたいな恐ろしい映画が2014年に公開されたのだが、なんとそこには乾巧となぜか草加雅人までもが10年ぶりにカムバックしているのだ。

 TVシリーズの最終回において、余命わずかであることが仄めかされていた巧。彼のその後を描くとすれば、「ディケイド」「春映画」という刺激物をぶつけるしかなく、ようやく観られたifに悔しくも胸が躍る。オルフェノクとの闘いを終えた後もクリーニングの菊池にいて、TVシリーズとは近しくはあっても同一ではない結末を経て、散っていった者たちに心を囚われている。その姿は半田健人氏の10年を経て醸し出される貫禄も相まって、「質感」として納得度が高い。

 コンセプトとキャスティングのどちらが先にあったかは定かではないが、物語全体が死者の無念を中心に走っており、乾巧がもうひとりの主人公格として選ばれるのも、これまた納得である。とくに、草加の死に際の言葉に囚われ、生き残ったがゆえの罪悪感に苛まれたり、本当に生き残るのは草加や木場だったのでは、という心境は切ない。555アフターとして火力が高すぎるものをお出しされ、全体を観れば様子のおかしい映画なれど、555周りの描写の湿度の高さは柴崎監督以下スタッフの強いリスペクトを感じさせて、どうしてもこの映画のことが嫌いになれずにいる。

仮面ライダー4号

 歓喜と困惑の『仮面ライダー大戦』から間髪入れず、なぜか翌年の春映画にも続投した我らが乾巧。それだけでなく、映画から派生したスピンオフ配信ドラマにて裏主人公に抜擢されようとは、いま思い返してもビッグなサプライズだった。

 仮面ライダーマッハ=詩島剛が死んでしまう未来を変えるため、ループする時間に挑むドライブ=泊進ノ介。そのループを発生させているのは、巧の「誰にも死んでほしくない」という思いであることを悟るのだが、これによりTVシリーズのその後において巧の死は避けられないということを、改めて突きつけられるのである。「歴史改変マシン」などという平成ライダー以外の作品では絶対に出してはならない名称によって公式からの回答をお出しされるの、ライブ感が過ぎる。

 諸々の作りの緩さや、ファイズギアのガジェットに対するフェチが全く感じられないアクションシーン(アクセルフォーム変身時のSEミスは誰も気づかなかったのか??)には気落ちさせられるも、オルフェノクとして覚醒した=一度死んだ人間である巧が「死にたくない」「生きたい」という願いを抱えていたことに、なぜだか安堵を覚える。誰かの夢を守るために傷つきつづけてきた巧の「エゴ」が自分に向いたのだとしたら、それはそれで人間らしくて、その気持ちにたどり着いたことがなぜだか嬉しい。嬉しいし、切ない。彼が守った青空を見守るのが同じく生き残った海堂というところも気が利いていて、低予算な配信ドラマなれど軸がしっかりしていて、見ごたえはある。剛を生き返らせてTVシリーズとの整合性を合わせるというお題目の裏に「仮面ライダー4号とは誰なのか」を忍ばせた本作は、悔しいながら涙をカツアゲされた次第だ。こうして『パラダイス・リゲインド』を観ることへの恐怖が募っていくのである。

小説 仮面ライダーファイズ

 いつまで待っても小説版ビルドが発売されないでおなじみ講談社キャラクター文庫より2013年に発売された本作は、絶版本となっていた2004年の小説『仮面ライダーファイズ正伝 異形の花々』に後日談を加筆したものであり、これを機にようやく読めたというファンも多いはず。私もその一人で、以前からネットで伝え聞いていたエグさがそのまま繰り出されてきて、面食らってしまった。

 全話の脚本を手掛けた井上敏樹による、子どもへの配慮を一切廃したファイズの物語。放送コードの都合か、どんなに展開が陰惨になっても「殺す」という言葉が使えなかったTVシリーズとは異なり、小説版は出血も欠損も遠慮がなく、起こる出来事の悲惨さがとんでもないことになっている。

 物語を真理の視点から描き、スマートブレインやラッキークローバーといった要素を廃することで、人類VSオルフェノクの生存競争といった側面から抜け出し巧や勇治の心情描写にフォーカスしたことで、よりドロドロとした人間模様を見せつけてくる。そして誰もが皆親との関係が上手くいっておらず、結花の境遇の悲惨さはアップグレードされ、かろうじて両親との関係が良かった勇治さえも悲しい過去を背負い、草加は手をウェットティッシュで拭く癖に強烈な理由付けがなされている。このように、全員が全員何かしら「壊れている」のが特徴で、脚本めいた改行の多い文章で語られる、実にスピーディに倫理を犯し続ける登場人物たちの姿に、不思議なドライブ感が宿る。文章として上手いとかどうかをさておき、目が離せないのだ。

 迎える結末も悲惨だが、TVシリーズでは成し得なかったある「希望」が描かれ、文庫版の加筆によって本作はもう一つの『パラダイス・ロスト』へと接続されてゆく。なんというか、井上先生にとってもあのイメージが鮮烈というか、全ての答えが宙ぶらりんでありながらも前に進み続ける登場人物の姿に、良きものを重ねているのかもしれない。

 それはそれとして、草加さんはTVシリーズよりも邪悪度が増しており、その鮮やかな死に様は映像不可避。小説ならではの表現で紡がれる雅人の死を、未読の方にはぜひエチケット袋片手にご覧いただきたい。

 

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