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マスクをしているだけで褒められた。

 お客様に一人、マダムがいらっしゃる

 「マダム」というのは自分の中で勝手に呼んでいるだけなのだけれど、お召し物が上品で話し方にも気品があり、聞いたことのない名店のお菓子を時折差し入れてくださる、ご婦人のことである。
 ちゃんと本名も存じ上げているのに、姿が見えると「マダムがいらしたわ……!」となぜかこちらも口調が麗しくなってしまう、そんなお方。

 仕事の話10分、雑談20分の、程よい緊張と緩和の時間が過ぎてゆく。

 「いつもありがとうね」と、勿体なきお言葉をくださるこちらの麗人は、自分のような若造の話もきちんと聞いてくれて、相手が話している時は絶対に口を挟まず、頭の回転もお早いので聞いた内容をかみ砕くのも早くて正確だ。

 お客様商売をしていると、いろんな人とエンカウントするけれど、正直「こうはなりたくないな」という人間も、少なからずいる。マダムはそういった方々とは段違いで、むしろこうなりたい、落ち着いて上品な大人でありたいものだと、手元のメモの字の汚さを見ながらそう思ってしまうのだ。

 先日、マダムがお帰りになる際、社内を見渡して「あら」とポツリ。「こちらは皆さん、マスクをしていらっしゃるのね」と、一言一句違わず、そう申された。

 ピクリ、と自分の瞼が動いたのがわかる。

 先程“いろんな人とエンカウントする”と書いたけれど、中には極まった思想をお持ちの方がいらっしゃり、従業員のマスク着用やトレーを使った書類等のお渡しなどに苦言を呈し、ありがたいお説教をして帰られるお客様も残念ながらいらっしゃる。

 私などは心が狭い人間なので、その度に「デスノート落ちてこねぇかな」と思いはするが、接客マニュアル上は「仰る通りです、サー」と真心を込めて言わねばならない。時折パートの女の子を泣かせた“つわもの”も混じっているので、生物学上は男である自分が皆の盾となりて、ありがたいご指摘を頂戴しなければならない。

 「社の方針ということで、今も感染対策の一環でマスク着用をルール化しております」

 極めて冷静に、何十回何百回と繰り返し唱えておりますよ、の風格で、そうラリーを返す。だが、心中はドッキドキだ。
 まさか、マダムも“そう”なのか?昨今の同調圧力に一言物申したいタイプの方なのか?出展不明のYoutube動画で理論武装するタイプの低い人間なのか?頼むから、俺から人を信じる希望を奪わないでくれ。

 1秒、2秒と間を置いて、「素晴らしい」とマダムが一言。絞首刑を待つ罪人の気持ちから一転、合格発表を受けた受験生の如く心は晴れ渡り、ナートゥを踊りだす。

 「世間ではコロナは終わっただとかノーマスクを声高に叫ぶ方もいらっしゃるけれど、感染症に終わりはありません。御社の規則は、従業員とお客様を守るための、とても素晴らしいものでございますね」と。

 すごい。なんだろうこれ。
 なんか今とてつもなく自己肯定感が上がってきた。

 だって、ただマスクをしているだけで、お褒めの言葉をいただけるのである。いいんだろうか、たったそれだけのことで。

 新型コロナが蔓延して早数年、出勤の身支度をする際に、マスクをつけることに特段何の感慨も抱かなくなってきている。

 ハンカチをポケットに入れて、靴下を履いて、パスケースを胸ポケットにしまい、マスクをつける。

 それが当たり前のルーティンであり会社のルールに準じているだけで、自分や周りを守っている、などという発想に至ったことすらなかった。

 それがどうだろう。マダムの一言で「おれは感染対策意識がたかく、それでいてすごい」と意識が向上し、気持ちも上向きになってきた。

 マダムはお褒めの言葉を民にもたらした後お帰りになられたが、ありがたいお言葉を上司にも伝えるとそれはもう上機嫌で、サボりがちであったパーテーションの清掃を手ずからやっている。

 あまりにもそのお言葉が嬉しくて、帰り道に何度も何度も反芻していく。どうしてここまで満たされたのだろう。答えは、「報われたから」に尽きる。

 あの頃、全世界は混乱し、それはわが社とて例外ではなかった。

 職務上出勤を制限するわけにもいかず、とはいえ一人また一人と感染しては、まだ感染してないものが消毒に駆り出され、ミイラ取りがミイラになってまた一人空席が増えていく。

 一体どこからが濃厚接触者なのか、何日休ませるべきなのか。政府からの発表を参照しガイドラインを作った管理部門と現場との軋轢は人間関係を歪ませ、感染対策というイレギュラーの作業に時間を喰われ、通常業務は滞ってゆく。

 コロナ対策は「やらねばならない」仕事ではあったが、どんなに頑張っても感染をゼロにすることは出来ないし、積み重ねたとてそれが売り上げに繋がることも、自分の評価になることもない。

 そんな仕事、やりがいがなくて当然である。なのに、やらねばならない。こんな不条理が、会社の数だけ、家庭の数だけ、人の数だけ積み重なっていく。虚しいったらありゃしない。

 加えて、私はただ一人、弊社内でまだ感染も発症もしていない稀有な人材となった。

 それは何にも代えがたい幸運なことなれど、たとえばこれから感染したとて、今の人員で自分がいなくなった際の仕事を肩代わりできる余裕があるのかと考えると、実に肝が冷える思いだ。
 同じ立場の人間が他部署にもいると思うと、これまた切ない。

 コロナが終わったことに“なっていき”、でも変わってしまったもの、失ったものは戻らず、みんなでその負債を肩代わりしながら、生きていくしかない時代。せっかく当選したイベントを辞退した辛さも、休んだ人間のフォローで土日が潰れていった苦しみも、どうにかこうにか笑い話にして咀嚼するしかなくなって、我慢に我慢を重ねた思い出だけが募る。

 そんなアレコレをマダムが労ってくれた、ような気がしたのだ。ここまでしてきたことに意味はあったのだと。効果が目に見えなくとも、続けてきたことに意味があるのだと。

 誰が言い出したか「1億総発信時代」の言葉も埃を被っている2024年、SNSをやっていれば言葉が人を殺す悲劇を目にすることもある。だが、逆に生かすことも、活力を与えることもできる。

 マダムは、どこか燻っている私の中の不満や怒りにメスを入れ、希望を与えてくれた。

 素敵だ。歳を重ねるのなら、こうありたいものだ。

 マダムがくださった、これまた見知らぬブランドのチョコレートがめっぽう美味しくて、何から何まで敵わないなと、マスクの下でひっそり笑うなどした。

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