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及び腰の果てに生まれた“軽さ”『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』


 『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』を観て、ひたすら困惑した。「なんだか優良な二次創作を読んだような気分」とは試写会で本作を観た友人のコメントなのだけれど、まさにその通りだった。ヴェノムって、こんなに情に厚いキャラクターだったっけ?鶏に名前を付けるような愛嬌があったっけ??ステータスを「カワイイ」に極振りした急激な方向転換に、またしても大人の事情を感じずにはいられない。ヴェノム、その凶悪な御尊顔に似合わず、とにかく苦労人な印象が絶えないヴィランなのである。

 2018年公開の前作は、非常に紆余曲折あってのお披露目となった。『スパイダーマン3』での銀幕デビューはサム・ライミ監督の意向ではなかったらしく、屈指の人気ヴィランでありながらもどこか描き込み不足を感じさせる結果に終わる。その後マーク・ウェブ監督によるリブート『アメイジング~』が始まり、スピンオフとして『シニスター・シックス』がアナウンスされるも、本流の打ち切りに伴ってこちらも頓挫。

 そうした経緯を踏まえての念願の単独作『ヴェノム』だが、今見返しても「中途半端」という印象は拭えない。ヴィランを主役とし、キャッチコピーに「最悪。」とまで銘打ったこの作品は、『デッドプール』『ローガン』といったゴア描写を含むアメコミ映画が高い評価と支持を受けている世評もあり、スパイダーマンには出来ない残虐描写で驚かせてくれるのではないか、という期待があった。が、実際にお出しされたものは人体欠損はおろか出血さえもハッキリと映らない、漂白された全年齢対象映画。ヴェノムはお腹を空かせた子どものように振る舞い、最凶のヴィランの風格は「故郷では負け犬」という予想外のキャラクターに収まった。その愛らしくも事前の宣伝とは異なるキャラクターへの違和感は、エンドロール後に『スパイダーバース』の長すぎるクリップが流れることで謎が解けていく。ソニーは、トム・ホランドのスパイダーマン、その先にあるMCUとの合流という夢を捨てきれていないのだ。だからこそ、R指定の映画にするわけにはいかなかった。

 また、バディムービーとしても大変しこりの残る映画だったな、とも思う。正反対の二人が利害の一致から共生し、いつしかお互いがかけがえのない存在であることに気づいていく、というようなジャンルのお約束があるとして、ヴェノム(エディ)にとってエディが(ヴェノムが)唯一無二の存在である、というような描き方がなされていないので、「We are」感がまったくないのだ。ヴェノムは案外簡単に宿主を移り返ることが出来てしまい、エディでなくても良いのでは?と観客に思わせたのは致命的なミスだろう。その結果、一番印象に残ったのは「元カノの結婚相手が手放しでイイ奴なのは珍しいよね!」というのは、今でも笑い話だ。

 何やら前作への恨み言ばかりになってしまったが、アンディ・サーキスが監督を務め、カーネイジにはウディ・ハレルソンを配した待望の続編は、私が感じた前作への不評に対する一種の「開き直り」すら感じさせる、清々しいフィルムになっていた。

 二作目の利点として、今回はヴェノムとエディの馴れ初めを描く必要はないため、映画開始時点から二人は「バディ」として共生した状態から始まる。そこでのヴェノムはお腹を空かせた子どもであり、乱暴な言葉遣いだがエディを気遣うし、言いつけもある程度守って勝手に人の脳は食べない「いい子」で、エディから家出(!?)した時は寂しい感情を露わにする。このユニバースにおけるヴェノムは「カワイイ」推しでいきます!!という力強い宣言が感じられ、素直に鑑賞できる分前作のようなストレスは皆無だ。ちょっとした痴話喧嘩によりヴェノムとエディは離れ離れになり、ヴェノムは束の間の自由を謳歌するも孤独を感じ、エディもまた自分の命を守ってくれた存在の不在に怯える。相棒の大切さに気付く中盤の展開は前作での物足りなさに対する完璧なアンサーで、「これが観たかったんだよ!」という満足感を与えてくれた。

 コミカル要素も足されており、エディを元気づけようとキッチン周りを散らかしながらも大雑把な料理を作るヴェノムの無邪気さ、ここ一番で怖気づく気弱な一面の面白さもさることながら、トム・ハーディの一人演技もより磨きがかかり、挙動不審な落ち目のジャーナリストという客観視したときのエディのヤバさが十二分に表現されている。みんな大好きダン先生も出番が増え、彼のキャラクターが全世界でも好評だったことが伝わってくるのも嬉しいポイントだ。

 映画全体がヴェノム&エディのブロマンスを描くことに奉仕する一方で、割を食ったのは悪役たちだろうか。「大虐殺」を掲げるカーネイジも、このソニー・バースでは残虐描写がセーブされてしまい、見た目の凶悪さに見合った凄惨なシーンは見受けられなかった。

 それだけでなく、最も衝撃的だったのはフランシス・バリソンの扱いについてである。彼女は叫び声から強烈な音波を発することのできる超能力者だが、決して人道的とは言い難い施設に収容され、自由を奪われたフランシスはある意味で運命の被害者である。というより、他者とは違った能力を得てしまったが故に迫害を受ける哀しき存在という意味で、フランシスは非常にX-MEN向きのキャラクター、という気がしてならない。そんな彼女が音を嫌うカーネイジに見捨てられ、あのような結末を迎えるなんて、仮に本作がMCU作品だったら非難轟々だったに違いない。そうした「正しさ」から治外法権でいられるヴェノムだからこそ出来た描写であり、ある意味で新鮮だった、とは付け加えておきたい。

 『エターナルズ』がアイデンティティーの揺らぎに対する物語であり、DCではザック・スナイダーによる神話が一応の完結を遂げたりと、アメコミ映画が担う物語性や深遠さが増していき上映時間もそれに比例して長くなっていく中で、本作は見せたいもの(友情と勝利)に注力し濃縮した結果90分尺と収まりが良く、肩肘張る必要のない娯楽エンタメとして送り出されたのは、今の現状を俯瞰してみれば奇跡のようだとすら思う。MCUは偉大だし熱心に追っていく意味のあるコンテンツだが、こうした「午後ローみのあるアメコミ映画」の質感は今となっては貴重だ。前作は事前の期待値とのギャップに苦しめられたものの、今となってはこの“軽薄さ”さえも愛おしい。ヴェノムとエディが幸せならそれでいい、というフェイズに観客が移行する辺り、友人が例えて曰く「二次創作」とはあながち的外れな評でもないのかもしれない。

 とはいえ、エンドロール中のアレを観る限り、ソニーの夢が叶う時が近づいているらしい。大きなユニバースにヴェノムが飲み込まれてしまう日が来るのは待ち遠しくもあり、寂しくもあるのだけれど……。


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