親子ビリーフリセット@ビリーフリセットのペアワーク①
ビリーフとは、直訳すると「信念」。
ビリーフリセットⓇで扱うビリーフとは、不都合で苦しい、囚われ思考のこと。
カウンセリングの技法としてだけではなく、自己探求のために只今勉強中です。
一昨年は「ちゃんと」やっていたワーク
親子ビリーフリセットの講座の、ペアワークの日。
受講生同士でそれぞれカウンセラー役、クライアント役になりカウンセリングを行う。台本があるわけではなくガチの自分で、心の窓を開けて話をする。
モデレーターさんが様子を見ていて、補佐や助言をしてくださる。
この日の私は、生理に夏風邪に睡魔に、体はスリープモード。子供も預けていなかったのでカウンセラー役は諦めクライアント役をお願いした。鉛のような体でしか臨めなかったので、ちゃんともクソもないんだけど、ちゃんと&真面目にやることは諦めた。
私は一昨年の講座では同じペアワークでカウンセラー役をやったとき、すごく真面目だった。
時間内にワークシート通りにすすめること、言われたことをこなすこと、講師に言われたワークをこなそうとした。
なのにモデレーターの方から「もっとクライアントさんに寄り添ってあげて」とアドバイスを受けて、え?なんで??私ちゃんとやろうとしてるのに!と正直受け入れられなかった。
カウンセリングはクライアントさんのための時間。
でも私はちゃんと「課題」をやることに目が向き、そこにクライアントの存在はなく、なんなら自分の心すらなかった。それをカウンセラーさんは見抜いていた。今ならアドバイスの意味がわかる。
今回のペアワークでは、一緒に考えようと寄り添ってくれたカウンセラー役の受講生さんを見て、なんて心がある人なんだろう、と思った。
クライアント役も一昨年はちゃんとやってたなー。
時間気にしたり、カウンセラーさんを困らせないようにしようとか思ったり(マジで余計なお世話w)、やるからには自己探求がんばるぞ!みたいな。
ちゃんとやるって、なんだろう。
でも結果的にこれらが今回出て来た私のビリーフにも通じていて、手放したことで本当の自分がまたひとつわかった。
大したことないと思うビリーフほど無意識度が高い
「ちゃんとしないと人が離れていく」これが今回のビリーフ。
冒頭の話がつながりすぎていて怖い。笑ずっと、「ちゃんと」やってきたんだろう。
このビリーフ、元ネタはカウンセラーとしての活動ができでいないことだった。それから「ちゃんとしないと人が離れていく」ではなく「ちゃんとしないと人を傷つける」だった。
カウンセリングは守秘義務のある話を扱うし、信用がなければいけない、信用されるようにちゃんとしないといけない。
カウンセリングで人を傷つけるようなことがあってはいけない。もっと学びを深めてカウンセリングの練習もしないといけない。
準備ができないと何も始められない→結局何もできない→「ちゃんとしないと人を傷つける」こんな感じ。
でもペアワークの前なんとなくしっくりこない感じがして「人が離れていく」に変更した。そんな感じだったので、大したビリーフじゃないとも思っていた。
でもなんと、これが「あの時の私」とこんなにも深く深く無意識に繋がっていたことがわかった。
ビリーフのデメリット
このビリーフがあることでのデメリットは、とにかく疲れる。
息を止めないといけないほど気を張って、緊張して、やることは全部が義務。
そこに私の気持ちなんてなくて、辛いってことも感じられなくて、とにかくやらなきゃ、という感じ。
人前ではちゃんとした私を演じないといけないし、辛いという人には、辛い、と合わせないといけない(そうじゃないと人がかわいそう)。→私だけラクしたり楽しんじゃいけないとか、自分が人より幸せであってはいけない感じもプンプンにおう。
外の世界で、私の分身の亡霊が人付き合いや仕事をこなしてくれて、本当の私はお留守。家に置いてきている感じ。
頭が働き、ハートは潰され、肚なんて存在ゼロ。
カウンセラーさん、モデレーターさんにフィードバックや質問をしてもらいながらデメリット出しをすすめると、なんてかわいそうな状態の「本当の私」が見えてきた。
このビリーフが私?
このビリーフを持ったまま生きていくと、どうなりますか?という質問に
背中に何か乗っているようなジワジワとした圧を感じた。痛いとか重いとかではなく、圧。動けない感じ。
その感じとともに、自分のビリーフを見て、ぼんやりした頭で言った。「これは私の性格なんだろうという諦めがある。結局変われずにこの行動パターンで生きていくしかない、と諦めている。」と。
“ビリーフ=自分 ではない”
そう習ったはずなのにビリーフは私、とまさに全身タイツのようにビリーフを丸かぶりしている。それも言葉として出てきて、はじめて気がついた。これ、カウンセリングの醍醐味。話して気付くことって一人じゃできない。
かわいそうな父のために「ちゃんと」していた
ビリーフにはデメリットもあるけれど、必ずメリットがある。
ちゃんとしようとするぶん、真面目な印象を与えたり、人からの評価が上がる。→なんならそのために一生懸命ちゃんとしているんだから、評価をもらえないなんて困る!
失敗しても許されたりかばってもらえたりする。
そしてもっと深い深いメリット。このメリットのためにビリーフができたと言っても過言ではないもの。そして幼い自分と繋がる鍵がある。
今回は、こあまり言いたくない(抵抗のような引っかかりのようなかんじ)けれど、過去を振り返ると真っ先に出てきたのが、アルコール依存症だった父のことだった。
あの子、あんな親に育てられたからやっぱりね…なんて言われるわけにはいかない。
ちゃんとしているようにみせないといけなかった。
この引っかかりを感じるとお腹がムカムカした。それから、「アル中」という言葉を聞いたときにもザワッとした。
総じて言うと、
『違うんです。お父さんがあんなふうになったのはなりたくてなったわけじゃないんです。』
『アルコール依存症という病気だっただけで、病気が悪くてお父さんは悪くないんです、かわいそうだったんです。』
って人にわかって欲しかったんだと思う。
もちろんそんな語彙力がない幼い私なので人からお利口さんね、と言われる「ちゃんとした」行動をするしかなかったんだろう。
ちゃんとしていれば、お父さんのことを守れる気でいた。
それから祖母。参観日、PTA。まわりがきれいなお母さんばかりの中、しわしわのおばあちゃんというだけでもう恥ずかしかった。
ペアワークが終わってから思い出したけれど、小1の担任の先生が私の祖母に対する素っ気無い態度を見て「おばあちゃん、あなたのために学校に来てくれたんだよ。そんな態度だと失礼なんだよ。ありがとうって感謝しようよ」と咎めに来た。
祖母に恥ずかしい気持ちを言うと「あんたはおばあちゃんしかしないからしょうがないでしょう」とはねつけられる。
まわりの大人は「おばあちゃんがいていいね」なんて言う。
私はあんなに恥ずかしかったのに、恥ずかしい気持ちを誰も聞いてくれなかった。
それと同時に、なんて酷いことを祖母に言ったり思ったりしてしまったんだろうという罪悪感。それもこれも、とにかくちゃんとして、恥ずかしい気持ちも誤魔化すしかなかった。
だから私はこんなにも、「ちゃんとしないと」をやってきたんだ。
次の記事に続きます。