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Gibson J-45 (後編)

共に旅をしてきた僕のギターとの出逢いと最期を綴りました。約6,500文字とかなり長文になっておりますので前編と後編にわけております。お時間がある際にゆっくり読み進めてみてください。


先輩が手渡してくれたのはうたうたいの憧れである1本の逸品【Gibson J-45】だった。

著名なミュージシャンはもちろん世界中のミュージシャンから愛されている歴史的な一本、いつかは手にしたいと願うアコースティックギター界の王様で、ドンっとなる低音と気持ち良く暴れる高音、力強い響きは魂の解放を意味するように弾き手を誘ってくれる存在。

先輩は話を続けた「いい楽器を使ってもっと音楽をするってことを知れ」そういって僕に渡してくれた。後にきいた話だが先輩曰く「お前はさっさと音楽辞めると思っていた、だけど今一番がむしゃらにやり込んでいる姿をちゃんと見たから、新しい武器が必要だと思った。もう何年もJ−45は使ってなくて、たまに人に貸したりしたけど良い弾き手には出会わなかった。今一番必要な人間に手渡したかった。それできっとギターも本望だと思った」と。久留米の地下道で起きた小さな奇跡から僕の音楽人生が激変した。

①使いこなせない

驚くほどに鳴る楽器だと思っていた、J−45は弾くだけであの煌びやかな音が凛として鳴ると想像していたのだけれどJ−45をいただいてから最初は全く鳴らすことができなかった。打撃音のようで、鮮やかなコードにならず濁った鈍器のような音が絶えず鳴り続けた。そこで初めてアコースティック楽器を手にして今だ本当の鳴らすということをできていなかったことを知る。やはり研究の日々だった。J−45は個体差があると言われていて、鳴らない、ピンとこない個体が存在すると聞いたことがあってもしやそれのせいではと疑いの目を向けていた時もあった、ポンコツな楽器だと(人から貰ったギターなのに)Gibsonに淡い夢を抱いていたのだと感じていた。
ただ、ある時自分が師事するうたうたい大柴広己さんと共演するきっかけがあったのだがその際に大柴さんのギターの弦が切れてしまい、自分のJ−45をお貸しさせていただいた際に今まで自分で鳴らしても鳴らなかったような爆発的な低音と煌びやかな音が鳴り響いて、自分の未熟さを恥じた。腕がないだけだったと。

②1度目の修理

のちに調べて知ったことだけれど僕のJ−45は2005年に製作された1本、2015年頃僕が譲りうけるまでの歴史としては約10年の期間ライブや路上ライブなどアコギにしては厳しい環境の中で育ってきたこともあって手渡された時は若干のメンテナンスが必要だった。ある時レコーディング直前の話、急激に音痴な音になっていることに気がついた。エンジニアの人に確認してもらうと、クラック(ボディー割れ)やネック反り、はたまた若干のヘコみもあったりすごく悲惨な状態になっていた。どこに異常があるのかさえわからなかったあの頃の僕は使われていなかったギターを急激に毎日のように弾き倒して酷使していた。結果J−45には相当な負担がかかっていた。レコーディング前に軽い応急処置をしていただいて、レコーディングは無事に終わった(その時の録れた音源が1st mini album『夜に唄う』の全曲に使用した)がその後緊急入院してもらった。約10年分の疲労をメンテナンスすることによってもどってきた時さらに鳴り響くようになって安堵した、そしてすごくはしゃいだ記憶がある。泳ぎまわれる海にいる魚みたにぐんぐんと弾くことが楽しくなった。

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③旅のお供として**

2016年からスタートしたツアーは、ほぼJ−45と周った。初めて行く土地、街、ライブハウス、出会う景色も人もとにかく新鮮でその中で自分の表現方法として僕は唄をうたった、そこにいつもこのJ−45がいてくれた。水中の中に深く沈んでしまうような苦しい日々も、帰る宛てもなくなってしまったと途方にくれた日も、側にいてくれたのがJ−45だった。彼がたった一人僕のことを毎日見ていてくれていた。友達というよりもはや家族のような関係だったと僕は思っている。そんな中ひとつの事件が起きた。

④ヒビ割れ

長い旅を続けていたある冬から春に切り替わる日、小さなボディ割れを見つけた。そんなに気にするほどの大きさでもなくさほど気にもせず。極寒の場所から室内、暖房のついた部屋、など渡り歩いていくうちに気づけばその割れ傷は10cmにもわたるヒビに変わっていた。慌てて久留米に戻り工房にもっていった。正直おそろしかったのは2年前以上の外傷になっていたことだった。工房のオーナーはすぐに修理にはいってくれた。そこで言われたのが『乾燥と湿度、気温の変化が大きい環境で長いこと使い続けた結果通常の侵攻速度よりも早く外傷として現れたんじゃないだろうか』と言われた。
正直自分の身を恥じた、そういう徴候にも気づけず酷使していたことに未熟さを感じた。幸いその時は2週間ほどで返ってきた。しかしその後度々ツアーから帰ってくるとボロボロになり定期的な修理が必要となった。
ツアーマンはメインの機材とサブをツアー事に持ち替えて運用しているとのことだった。状態が悪くなってもライブを止めることなくしっかりと整備する時間も設けてその上で持ち替えていくということを教わったのはその頃の話だった。次第に修理がかさむごとに音色はかつての力強さを失っていった。

⑤アコースティックギターの奥深さ

従来どおりの爆音を鳴らすことができなくなりつつあったJ−45。迫力のあるあの音色がだせないことに悩んだ、これは修復の後遺症みたいなもんだった為新たにJ−45と向き合う時間を沢山つくった。ピックの角度、ピックの柔らかさ、指引きの多様、より奏者の腕がそのまま反映される仕様になったような気がして今までの若さのあるスタイルではこの先一緒に音楽ができないと頭を抱えていた。そんなある時世界中を旅する迫水秀樹さんというかたと出会った。おなじJ−45使いで、旅を世界規模で広げているこの方のプレーをみて衝撃を受けた。『小さい音』だ、小さい音をこんなにも美しく繊細にだせる楽器だったのかと、そしてでかい音も色気のある深さをもった音だった。一瞬で虜になったその時僕は弾き語りとして大きな転機になる気づきがあった。なぜこのことに今まで気づかなかったのだろう。
アコースティックギターを弾くにあたって、大きな音を出すより小さな音を出すことのほうが難しいことだった。J−45を手にした時から迫力だ、でかい音だとこだわってきていた自分にとっては根っこを揺らがされるような発見だった。もしお手元にアコギをお持ちの方がいらっしゃいましたら是非歌いながらそこに美しく寄り添うほどの小さな音量でギターを奏でながら歌ってみてください、間違いなく難しい技の一つでしかしそこに弾き語りの奥深さがある。バンドと違って弾き語りの音量は限界がある、3〜4人で奏でる重低音に生楽器と唄で音量に勝つことなど不可能に近い。だが逆に僕ら弾き語りはそこで勝負するものではなく、いかに自分の唄に添う音量バランスで楽器を弾けるかの世界かということを考えた。そのうえでバンドサウンドとの圧倒的違いは小さい音で、鳴っているのか、鳴っていないのか。その境目が非常に美しく見えた。バンド界隈の中で育ってきたが故に見落としていた世界が自分の中でひとつの選択肢を増やす事になった。
気づいてからJ−45でそれを実践したとき、驚くほどふくよかで、歴史の中にはいりこんだような音色をを見つけることができた。まるで僕に『こう鳴らすんだ』とJ−45が教えてくれるかのように彼が今までと違う顔をまた見せてくれたようで、新しい音色を僕にしめしてくれた。1942年に製造開始され、長い歴史のなか幾多の仕様変更、変貌を遂げながら芯はブレずJ−45というギターの音はポテンシャルを引き出す未発見の宝物を僕に授けてくれた。




彼と共に連れ添って約5年、先輩の言った通り弾き語りが音楽であるということをこのギターから沢山教わることができた。ここ最近の半年間は通常の倍以上のスケジュールで動いていたのもあって、無理をさせていることを承知で色々な街を共に歩んだ。だが次第に使えば使うほど音が鳴かなくなっていくような感覚がおし迫ってくる。何度か周りからは新しいギターを買うように勧められた、 PAさん、ライブハウスの店長、同業者、そして譲ってくれた先輩もぼくにそう言った。『別にそのギターを譲ったことをずっと背負わなくていい』と言ってくれたのは先輩だった。でも意固地になっていた、せっかく先輩から譲っていただいたJ−45をボロボロにしてそのうえ結果もだせなくて、今更のこのこと新しいギターを迎える気持ちにはなれなかった。まさに1人と1本の戦いだった、無理をさせていたのもわかっていた、でもここで止まってしまうとすべて水の泡になってしまうようで立ち止まれなかった。僕の無茶にそのたび付き合わせてしまった、誰にも頼りきれなくなった昨年、相当J−45には無理を強いたと思う。それが今も抱えている罪悪感の正体だとしっている。2019年1本目のツアー、26日京都では雪が降りしきる日だった。徒歩で駅まで移動、電車に乗って降りてそれから会場に向かって、ギターを取り出した時異変を感じた。前回割れていたボディーに再度亀裂がはいっていた、しかも今回は深く新たに侵攻した状態で。
その時自分の中でそうとうワガママを言ってついてきてもらったんだと認識した。ガムテープで一時的に応急処置程度に補強してその日のライブに挑んだ。その夜ケースからだしてJ−45と改めて向かい合った。こんなにボロボロになっていたんだ、気づけば修復箇所から徐々に再度歪みが生まれていた。数日後京都のアコギに詳しいとある楽器屋に来店して状態をみてもらった。担当のスタッフさんは唖然として『ここまでひどい状態で使われているJ−45は初めてです』と率直に言われた。素直に受け止めざるおえなかった、目の前に自分がつかっていたぼろぼろのギターを前にして言い訳なんてなにもいえなかった。

『もうここまで状況が一刻も争うので言います、人間でいうところの末期ガンのステージ5くらいです、死にかけです。まず前提として完全修理は可能です、元の形、傷がないように修復することは可能です。ただ元の音には2度と戻りません。この子がかわいそうです、今すぐ使用するのをやめて修理に出してください、、、、。おそらく中古のJ−45を買うのと大差ないほどの修理金額は覚悟しといたほうがいいです、すくなくとも1年はライブでの利用はできないと思っていたほうがいいとおもいます。こんなに使い込んであげたのであれば、もしお願いできるのならこの子を引退させて休ませてあげてください。』

楽器屋として、アコースティックギターを愛する人間として言いますと付け加え、そのスタッフの方は僕に言ってくれた。突然の余命宣告を家族にされたようなショックだった。なぜそのスタッフの方がそのような言葉をつかって僕に伝えてくれたのかちゃんとわかっていた。その時僕は今日のライブをもってこの人を休ませてあげることにしようと決めた。

ツアー最終日、京都二条nano
PA兼店長のmoguraさんに今回の機材の状況を説明して音作りにすごく協力してもらった。共演者の梶本ヒロシさん、藤村さんにもいろいろ声をかけてもらった(あれは本当に救われた)心臓が軋むように痛くて自業自得だとわかっていたからこそ胸が張り裂けそうだった。
最後になるなっと出番前楽屋でJ−45に話しかけた。ずっとお前と僕二人で戦ってきたのにその悲鳴も苦しみも見て見ぬ振りをしていた自分を許して欲しかった。あの19歳のころから僕は結局なんにも変われていなかった。いつも僕が裏切ってしまって、教えてもらってばかりで、なにもお前に返せてないなとぽつりぽつりと溢した。

迎えた本番、最後の最後までJ−45は僕に力をくれた。
出音がヒビ割れする前の音に戻ったかのように唄に寄り添ってくれたのだ、損傷があってから目に見えるほど音色がチープになっていたこのギターが鳴いていた。僕はその日予定調和や妥協ではないアンコールを初めていただいた。最後の最後にJ−45と残した小さな結果だった。

その音にお客さんもビックリしたらしい、まさかそんな損傷を負ったギターの音色とは思わなかったと直接伺った。弾いていた自分がなにより一番ビックリしていた。

終演後moguraさんにかなり愛情のあるPAをしていただいたことに感謝の言葉を伝えた。僕にこう話してくれた。

『時間かけて向き合っていこう、人も物も壊れたら正確に完治することなんて不可能だから長い時間をかけて向き合っていこう。それがお前ができるこれからのことだ』

自分がJ−45に無理をさせて、無茶を共にして、そして最愛の相棒を壊した犯人だとしても、必ず時間やお金をかけてでも完治させると心に誓った。

お前と飛び回ったこの数年間は本当に地に足つかないことばっかりでハラハラしたけど、沢山を知れて今ここに立てています。いつかまだお前がしらない景色を見つけた時それをみせれるように、その時までに。

僕が愛したJ−45。共に歩んでくれてありがとう。


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