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岡上廃寺・三輪南遺跡 鶴見川遺跡紀行(20)

しばらく更新が滞っておりましたが…気合を入れて、ここからゴールまで一気にラストスパート!

流れ的には、こちらの記事の続きとなります。


さて、鶴見川はここで大きく西へと変えて、源流へと向かっていきます。

 関東の一級河川 鶴見川 (国土交通省) より

この地図上では源流域と区分されていますが、全く源流感はありません。むしろ、ますます都市感が増しているようにも思えます。

右手奥は真光寺川、左手側が鶴見川本川
憩いの水場として整備されています
河床が中流域よりも広いかも?

いかにも「サイクリング中です」的演出ですが、本当はチート(電車移動)しています。だって、鶴見川はこの当たりから勾配が急上昇だし、人力チャリでこれから先を進むのは無理!

平成19年 鶴見川水系河川整備計画 より

ここで目次登場!


町田市内にある川崎市岡上

ここは川崎市の岡上という地域。前回は東京都町田市の三輪だったのに、また川崎市って…一体、どうなっているの?

実は、ここ岡上は川崎市の飛び地なのです。

説明すると長くなるので「はまれぽ」さんに丸投げします。気になる方はご参照ください。


岡上の由来

岡上の由来は古く、奈良時代またはそれ以前に遡るという。

奈良時代の高僧・行基がこの地域を訪れた際、丘の上に光るものがあり、登ってみたところ金色に輝く観音像を見つけ、お堂を建てて祀ったという言い伝えが東光院に伝承されている。真偽のほどはさておき、ここの地名は岡上り(おかのぼり)となったそうです。

716年、朝廷は関東の渡来人を武蔵国に移転させ、高麗郡を設置しました(続日本紀)。高句麗の王族と見られる高麗若光の子孫が、氏神の高麗神社の宮司を代々務めています。
さて、ここからが本題。中世に高麗氏家系図が焼失し、高麗族の老臣を集めて系図を再編成したそうです。その老臣たちの中に丘登氏の名があります。岡上小学校の地域学習資料集では、その丘登氏が元々は岡上に住んでいた渡来系氏族だと関連づけています。

岡上の渡来系技術者が高麗郡へ移っていった…ってことは、岡上(おかのぼり)に入植した渡来人が丘登氏を名乗ったのか?それとも、渡来してきた丘登氏がこの地に岡上(おかのぼり)の名を授けたのか?
うーん、資料が少な過ぎて真偽不明。

岡上(おかがみ)の呼称は近代以降。一般的な地名に見えても、その歴史は侮れない。

【ご参考】
岡上小学校 創立20周年記念 地域学習資料集おかがみ」2006年
https://kawasaki-edu.jp/2/513okagami/index.cfm/8,126,c,html/126/shiryo.pdf

川崎市北部、多摩区、麻生区の地名の移り変わり 川崎市 2018
https://www.city.kawasaki.jp/250/cmsfiles/contents/0000005/5013/29chimeihoukoku.pdf


東光院

鶴見川から県道139号の1本裏道を、恩田方面に向かってしばらく進みます。すると、岡上の古刹、東光院が見えました。

入口に柵がかかっていたので、隣の門から入りました
川崎市の文化財を所蔵している
趣のある山門
迫力ある
立派な仁王像
こちらが本堂

創建年代不詳ながら、行基(668〜749)の創建とも伝えられる。天正年間(1573-1592)の住職が11世だったことや、所蔵する兜跋毘沙門天立像が平安後期の作とのことからも、寺院の古さがうかがえます。 
(代替わりを20年周期と想定すると、一世は1300年代半ば頃という計算。行基の生存時期と合わないけれど、古いお寺であることに違いはない)

本堂の左側の高台にお社がありました。かつての地域民間信仰のようです。

瘡守(かさもり)社
病一般や皮膚病(天然痘)除けの神様
蚕影(こかげ)山跡
かつてここに養蚕の神を祀るお堂がありましたが、
現在は日本民家園に移築されているそうです。


岡上神社

岡上りの名に相応しい坂道を上っていくと、シャープな尾根筋に鳥居と長い参道が登場!

好みのシチュエーションだぜ!

村々の5つの神社が合祀され、地域名を冠した神社となりました。その経緯については、柿生文化に詳しく掲載されています。
柿生文化78号「岡上神社創設の苦労と人々の想い」
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka78.pdf

ちょうど尾根の上に鎮座
境内西側の見晴らしが良く、山々が一望できる。
多分、富士山も見えそう。

崖下の岡上丸山地区は農業地区となっていて、今も自然豊かな田園風景が残る。岡上小学校の周辺は、縄文から古代の遺跡が包蔵されています。

石の扁額とお馴染み金精大明神、様々な信仰の石碑
石塔や石碑は、開発によって移ってきたのだろうか?


岡上廃寺

東光院の南側、岡上神社の北東側の標高50mほどの台地上に、岡上栗畑遺跡があります。ここから「寺」などと墨書きされた土師器や須恵器、古代瓦が出土しました。瓦は近くの三輪南遺跡の瓦窯で作られたと分かっています。

瓦を使用する建物は、当時では寺院仏閣官衙くらいしかなかったので、ここに古代寺・岡上廃寺があったと推定されています。しかし、現在のところ寺院建物(基壇や柱穴など)跡が見つかっていません。

白い〇で囲ったあたりが廃寺跡と見られる

律令時代、南武蔵の橘樹郡には古代影向寺多磨郡には菅寺尾台廃寺都筑郡には岡上廃寺が存在。当時、寺院仏閣を建立するには技術的にも財政的にも大きな力(有力氏族の支援)が必要であったと考えられており、寺は郡内に1つあるかないかの状態であったそうです。

橘樹官衙に近い影向寺は政治的背景もあり、地域豪族の支援で建立されたと見られています。
一方、当時の都筑郡の岡上廃寺は官衙から離れて単独で立ち、都筑官衙から武蔵国府へ向かう古街道に面していたと推測されています。

図説 都筑の歴史新聞(横浜市) に加筆
令和5年度かながわの遺跡展「華ひらく律令の世界」  神奈川県立歴史博物館
古代かながわの官衙と交通 田尾 誠敏 より

どのような勢力がどのような目的で建立したのか、大変興味深いです。

【ご参考】

柿生文化110号 岡上栗畑遺跡(岡上—4遺跡) ―岡上廃寺―(1)
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2016/11/Bunka110.pdf

柿生文化111号 岡上栗畑遺跡(岡上—4遺跡) ―岡上廃寺―(2)
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2017/08/Bunka111.pdf

柿生文化112号 岡上栗畑遺跡(岡上—4遺跡) ―岡上廃寺―(3)
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2017/09/Bunka112.pdf


三輪南遺跡・瓦窯址

さらに丘を登り、三輪入り口のバス停までたどり着きました(ママチャリでなくて大正解)。道路脇に緑豊かな小道があり、先を進むと…

意外と広い。案内板がある。

そう、この公園広場が三輪南遺跡の一部です。

下の方に柵で囲った所と看板が見える
植栽でよく見えない…

奈良時代後半の瓦専用の焼き窯。瓦が300枚出土?

柵の外側から撮影

埋め戻して開口部をレンガで封印。現在は、開口部がかなり表土で埋まってしまっている。

自由民権資料館の展示。右の軒丸瓦が三輪南遺跡出土
その他にも5軒の住居址がある
斜面上に窯と住居が並んでいた。
公園の名前を忘れてた。「三輪ゆりのき通り公園」です


古代瓦の製法とそこから分かる情報

平瓦?…とりあえずwikiを確認。

寺院や城の瓦は一般的な瓦と違い、筒を半分に割った形の丸瓦と、両端が反り上がっている平瓦を組み合わせて葺いているとのこと。

平瓦の製法
奈良時代には一枚ずつ作る方法がとられていました。板状粘土を丸みのある凸面状の叩き台に乗せ、叩き板などで叩き締めます。叩き板に紋様が入っていると、平瓦の裏面(凸面)に痕が残ります。格子柄や平行柄、縄柄があるようです。

(細かな凹凸を付けることで表面積を増やし割れを防いだのか…と思いきや、粘土のはがれを良くするための知恵だったようです)

5/30追記
案内板に胴巻きで作られたと書いてありました(汗)。これは桶状の型に粘土を貼り付け、4枚に切って瓦を作る工法です。
千年の甍 -古代瓦を葺く-
https://www.a-quad.jp/exhibition/084/p07.html

さらに製造場所の刻印、線刻、墨書きを記す場合もあります。

岡上廃寺跡と橘樹郡の古代影向寺跡(川崎市宮前区野川)から出土した平瓦の胎土(粘土と混和材からなる土器の素地)や焼成が似ていたこと、同じような格子の叩き痕があったことから、影向寺の瓦は三輪南瓦窯製と推測されているのです。

 

多摩丘陵に多数存在する窯元

近隣の多摩丘陵には同じような窯跡がたくさん残っています。中でも有名なのが南多摩窯跡群です。

たまのよこやま「文字瓦から分かること」より

三輪南遺跡の瓦は主に橘樹郡の影向寺に、南多摩窯跡群の瓦は主に武蔵国府や武蔵国分寺、それ以外に相模国分寺へも供給していました。

多摩丘陵の斜面地には多くの窯が作られていましたが、一体なぜでしょう?


多摩丘陵に窯を作る利点

① 斜面を利用して登り窯を造る
斜面地に穴を掘れば、少ない労力で窯を造ることができる。(横穴墓と同じ原理で)ローム層は崩れにくいので、トンネルを掘りやすい。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/kyoiku/005/001/p005317_d/fil/kodomorekisisueki.pdf


② 窯焼きの燃料となる木材が豊富
野焼きで焼成されていた土師器は800~900℃、登り窯で焼成されていた須恵器は1200℃。登り窯は熱効率が良いとは言え、土器や瓦を大量生産するためには多くの燃料が必要だったと考えられます。
古墳時代から平安時代にかけての多摩丘陵は冷涼多雨の気候で、常緑針葉樹のモミ、スギ類が優勢だったそうです。いずれも急斜面で生育でき、特にスギは成長が早いため、燃料や家屋の木材として重宝されていたでしょう。

総説 多摩川流域における過去16000年間の植生変遷 増渕 上西(1999)
https://www.nature-kawasaki.jp/pdf/kiyou/kiyou10/kiyou10-1.pdf


③ 瓦や土器を作るのに適した粘土が豊富
関東ローム層は粘土質で土器づくりに適していたため、縄文時代から粘土採取が行われていました。下の論文によると、複数の粘土層から材料を混ぜ合わせて、それぞれの地域や流儀に合った胎土を調製していたそうです。
胎土づくりに欠かせない混和材も、主成分である鉱物質岩石の細かな砂は、多摩川水系や鶴見川水系の川砂で供給できたかもしれません。

土器作りのムラと粘土採掘場 及川 山本 日本考古学 8巻(2001)11号
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/8/11/8_11_1/_pdf/-char/ja

東京都多摩ニュータウン遺跡出土の土器および土製品に使用された粘土に関する蛍光X線分析法による研究 永塚 上條 日本文化財科学会誌(1994)https://www.jssscp.org/files/backnumbers/29_5s.pdf


【ご参考】
たまのよこやま「文字瓦から分かること」東京都埋蔵文化財センター報126
https://www.tomaibun.jp/cms/file/f136f852de4a708826a765f1aaa13765.pdf

多摩丘陵の3つの顔「境・道・恵」東京都埋蔵文化財調査センターhttps://www.tomaibun.jp/cms/file/82357acb17ae05ea931368b66b8049a4.pdf


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いや、正直…
最初は岡上に行くつもりは無かったんですよ。
行きにくい場所だったこともあるんですけど、ちょっと地味な遺跡だなって思ったんです。すっ飛ばして、さっさと鶴見川源流に行こうって。

でも…
実際に行ってみて調べてみて、新たな知見になったことも多く、結果的に、ずっとひっかかっていた疑問点のヒントが得られたような気がします。

まさに、急がば回れ!
これからも鶴見川流域をグルグルと回るぞ!



次回はこちら


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。