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武相荘 鶴見川遺跡紀行(21)

「従順ならざる唯一の日本人」の安らぎの家

今回も小田急線鶴川駅からのスタート。まずは、鶴川街道を北上します。


能ヶ谷香山古墳群?

グーグルマップによると、たぶん、左側の高台に能ヶ谷香山(のうがやかごやま)古墳群があるはずなのだけど…入口が不明。

高低差20mほどの垂直断崖

どうやら、古墳は香山園(庭園美術館)という施設内にあるようですが、現在は閉鎖中です。仕方がない、地図でも見るか…ん!?

なんだか、高台の上がポコポコしている…あれが古墳?

標高56mの丘陵頂部から円墳が2基、下の斜面から横穴墓20基を発見!横穴墓群は7世紀前半~8世紀初頭の築造で、耳環、勾玉、直刀などの副葬品も出土。内部に馬と人と見られる線刻画が描かれていた。

そもそも、香山園そのものが文化財らしい。(現在、公園として整備中)

4.香山緑地基本構想_第1章 計画条件と課題整理_3(PDF・25,703KB)
↑35〜39pに能ヶ谷香山古墳群の情報があり


能ヶ谷の由来

毎度気になる地名の由来。調べていたら、地域史に詳しい自治会のHPを発見!

(大手デベロッパーが付けそうな感じの名称…それはさておき)

能ヶ谷の名は、天文12年(1543)に紀州熊野の豪族神蔵甚左衛門盛清が入植して小田原の後北条氏の配下となり、翌年、戦功により後北条氏2代当主の氏綱から土地を賜って直ヶ谷と名付けたが、天正2年(1574)に5代当主が氏直と改名したため「直」を 遠慮して「能」に改めたと伝えている。この来歴には諸説あり、紀州田辺の神蔵甚左衛門重信文治元年(1185)に源義経に扈従して来住したなどとも伝えるが、いずれにせよ今も当地には神蔵姓が多く、香山園の園主が神蔵宗家を称し、俳人の神蔵器(「風土」主宰)も当地の生まれで「遠つ祖(おや)は田辺水軍月祀る」と詠んでいる。なお、能ヶ谷を直ヶ谷と旧称したのは、谷戸が南北に真っ直ぐ伸びているからとする地形説と、荒野や湿地を開墾して田畑に直したからとする開墾説がある。

千都の歴史1 より抜粋

地形説と開墾説の2つがあるようだ。
(それだけでなく、沢山城址や早ノ道のことも詳しく書かれていた。やはり自治会HPは「宝~の コラ 山よ~」)


町田市の地名のいわれ」では、鎌倉時代に紀州から来た入植者が、この地を開拓して平に直したから「直ヶ谷」と伝えている。

確かに谷戸が南北に真っ直ぐ。平地が少なく、新田開拓には苦労があった想像。

対岸の町田市三輪も、大和の三輪から移住してきた人々が治めていたので、鶴見川上流域は紀伊半島との繋がりがあるのかな。


武相荘

いよいよ、メインイベントへと向かうため、鶴川街道を北上。

閑静な住宅街の中に、緑豊かなアプローチが見えてきた
その奥にはカフェらしきスペース
クラシックカーが飾られていてオシャレ
ん?なんじゃ、あのイケメンは?

こちらの方は白洲次郎氏。

日本の実業家。初代貿易庁長官。太平洋戦争敗戦後は吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局でGHQとの折衝を担う。憲法改正ではGHQ草案の翻訳と日本政府側の草案作成に関わる。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任。

wikipedia より要約


ここは、彼と妻・正子の邸宅「武相荘(ぶあいそう)」です。

瓦葺の立派な門

武蔵と相模の境にあるこの地に因んでいますが、次郎特有のユーモアで「無愛想」をかけて命名。

連合国との戦争に懐疑的であった次郎は、開戦前から空襲と食糧不足を懸念。郊外に田畑付きの農家屋敷を探し、鶴川に良い物件を得る。折しも都内で空襲が始まり、すぐに家族で移住を決意。戦時中は農業に従事。
以降亡くなるまでこの地で暮らし、晩年はカントリージェントルマンを体現する生活をしていた。

敷地内の地図
白洲邸
広い縁側に木漏れ日が注ぐ
奥には散策路も
入り口近くの建物は内部は洋風、現在はレストランに。

資料館

奥の茅葺きの家が住居。現在は資料館になっています。
次郎や使用した逸品、GHQとの手紙などの歴史的資料、生活に用いられていた食器類や生活道具たち、奥の書斎には山のような蔵書の数々。彼らが暮らしていた息遣いが、そのまま残っているような空間です。

私、予習なしで見たのですけど(それでも十分楽しめるのですが)、できれば「白州次郎 占領を背負った男」(北康利 講談社)をご一読されてから見学することをおすすめします。展示品の一つ一つを感動を持って見ることができます。(ソファとか英文の手紙とか)


武相荘の立地

敷地の南側はちょっとした崖になっていて、石垣で覆われています。たぶん、南側は谷戸になっていたのでしょう。

1961~69年の航空写真

次郎が経済界から引退した頃の武相荘。南側の田んぼで農作業をしていたのでしょうか。

最新の航空写真との比較

その当時の鶴川は小田急線こそ走っていましたが、周辺にはのどかな田園風景が広がっていたことがわかります。


白洲次郎

彼のwikipediaを見ると、その知名度に対して列挙された経歴がやや物足りなく感じます。政治家でもなく、官僚でもなく、生粋の企業人でもない。

しかし、GHQにして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男。
一体、何をして彼をそこまで有名にしたのか?

次郎の生い立ち
実業家の次男として生まれる。若い頃から自由奔放の気質を持ち、18歳からイギリスに9年間留学。帰国後、樺山正子と結婚する。

吉田茂の懐刀
樺山家との縁から、吉田茂とは家族ぐるみの関係を築く。
外務官僚で親英米派の吉田は、同じ思想の政治家らと開戦阻止や早期終戦の活動し、軍部から監視対象になっていた。戦争末期、収監された吉田のために、次郎が支援者との連絡係を担う。
敗戦後、吉田は外相に任命。早期の戦後処理を目指していたが、マッカーサー率いるGHQとの交渉は困難を極める。

終戦連絡事務局(終連)
次郎は、GHQと政府の折衝を行う「終連」のメンバーに任命される。官僚の中に、無名の民間人が入ったことで反発も大きかった。政権内部や省庁内も情勢が不安定。このような中で、次郎はGHQとの交渉の矢面に立っていた。

一方のGHQも一枚岩ではない。
日本の民主化を進める民政局(GS)には若く理想主義的なリベラリストが多く、政界から守旧派を一掃しようと目論んでいた。他方、治安維持と諜報活動を担う参謀第二部(G2)のトップは反共主義者で、両部局はマッカーサーの信頼を勝ち取るため覇権争いをしていた。

ジープ・ウェイ・レター
マッカーサーは「象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止」の三原則を基本とする、改正憲法の草案づくりをGSに命じた。
GHQ案が出てくる前に、自ら草案を作成したい日本側。次郎はGHQ内部の動きを探りつつ、一方で草案の翻訳にも当たった。しかし、その労も虚しく、旧憲法を下地とした日本案は悉く却下される。

次郎はGSのトップに宛てて、次のような手紙を出している。

He and his colleagues feel that yours and theirs aim at the same destination but there is this great difference in the routes chosen. Your way is so American in the way that it is straight and direct. Their way must be Japanese in the way that it is round about, twisted and narrow. Your way may be called an Airway and their way Jeep way over bumpy roads.

彼ら(日本案起案者)とあなた方の最終目的地は同じであると感じている。しかし、選んだルートが大きく異なっているのだ。あなた方の道は、まっすぐでダイレクトな正にアメリカ的な道。彼ら(日本案)の道は、狭く曲がりくねった日本的な道。あなた方の道はエアウェイ(空路)であり、彼らの道はジープで走るデコボコ道だ。

ジープ・ウェイ・レターの抜粋

日本案は日本特有の道をジープで走って行こうとするもので、それが回り道であっても国情に即していると白洲は訴えている。

憲法改正
(連合国で構成される)極東委員会に干渉されることを恐れ、GHQは日本案の提出を急がせる。
次郎は外務省翻訳官2人と3日間でマッカーサー案を翻訳。それを丸呑みする形で日本案が作成され、総選挙後の国会で可決、1946年11月発布された。GSが意に沿わない保守系政治家を次々と公職追放したため、反対する政治家もいなくなっていた。

にもかかわらず、後年、次郎は「新憲法のプリンシプル(原則)は立派なものである」と述べ、「…戦争放棄の条項はその圧巻である。押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と語っている。
(元来リベラル派の次郎は、憲法の内容について理解はあったのかもしれない。性急な変化とその決定方法に問題があると感じていたのだろう)

吉田内閣誕生
自由党総裁の鳩山一郎が公職追放になり、吉田が政権を預かる形で首相となる。しかし、GSは保守的な吉田を好ましく思っていなかった。
第一次吉田内閣は自らの失言が原因で解散後に下野。続く社会党政権は内部分裂し総辞職。GSの介入で誕生した民主党政権は疑獄事件で失脚。
新たに民主自由党が結党され、総裁の吉田が再び首相となる。

その間、次郎はGSによる妨害を抑えるため、GSと対立するG2に近付く。朝鮮半島情勢で米ソ対立が顕著なものになり、既にGHQの中でもGSの地位は低下し始めていた。

サンフランシスコ講和会議
朝鮮戦争勃発で、アメリカは日本の占領延長や再軍備を考えていた。GHQは治安維持のため警察予備隊(後の陸上自衛隊)の創設を要求。日本は一刻も早い占領の終結と独立、平和条約の締結を目指していた。吉田は次郎を特使として渡米させ、条約締結に向けての下交渉を行わせる。

サンフランシスコ講和会議に、次郎は首席全権委員顧問として参加。既に英文で作成された吉田の演説原稿を日本語に改め、巻紙(世に言う吉田のトイレットペーパー)に清書した。その中に、当初は無かった「奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島の返還」の文言をまぎれこませていた。

経済界での活躍
その間、次郎はマッカーサーの意向で初代貿易庁長官に任命される。省庁再編を手掛け、通産省を誕生させた。
また、東北電力の会長に就任し、会津の只見川水力発電の権利を東京電力から勝ち取った。次郎は経営が安定すると、適任者を選んで経営のバトンを渡し、自ら地位に固執することはなかった。

葬式無用 戒名不要 
その後も様々な会長職を歴任するが、吉田の政界引退もあり、次郎も60歳を前に政財界の第一線から退く。

そして、以前からの夢であったカントリージェントルマンの生活を楽しむ。ゴルフと車、スコッチウイスキーを愛し、自らの美学を実践する生き方に、現在も多くの人が憧れを抱く。

1985年、83歳で人生を全う。遺言は、たったの二言だけでした。

【ご参考】


白州正子

薩摩志士で伯爵の樺山愛輔の次女。幼少時より能を習う。14歳で米国留学。帰国後に次郎と結婚。二男一女を授かる。
鶴川に移転後、古美術や日本の古典や文化に造詣を深める。

次郎が表舞台から退く頃から、正子の躍進が始まる。

小林秀雄・青山二郎と親交を結び、文学、骨董の世界に踏み込む。銀座に染色工芸の店「こうげい」を営む一方、日本の美を追求する作品を生み出す。
『能面』『かくれ里』で読売文学賞を受賞。他には『西行』などの著作がある。

青山に「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で、自ら足を運んで執筆するスタイルを貫いていた。『西国巡礼』を始めとする巡礼シリーズは、50~60代にかけて行われたものである。

骨董収集家としても著名。武相荘に残る骨董品の数々も、「使ってこその美」という思想で日常的に用いていました。


レストラン武相荘

こちらのカレー、現在も白洲家特性レシピで提供されています。次郎は野菜嫌いなので、正子は細かく野菜を刻んでカレーに混ぜ込んだそうです。

レストランの本棚には白洲家のレシピ本あり、洋風仕込みのハイカラメニューから和風の素朴な品々まで、彩豊かな食卓が垣間見れました。


次郎と正子

甘いマスクと英国仕込みのスマートさから、次郎は女性に大変モテました。しかし、正子は、彼は浮気しなかったと断言しているそうです。

娘婿の牧山氏は、二人の関係性を次のように述べています。

次郎・正子夫婦は、プリンシプル(原則)とコモンセンス(良識)の、あるレベルを共有した大きな柵の中で、それぞれお互いをおおらかに放し飼いにしているように、私には見えた。

牧山圭男 白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子

夫婦仲の秘訣を尋ねられた際に、次郎は「なるべく一緒にいないこと」言ったそうです。実際、二人が一緒に出かけることも少なかったと言われています。

それぞれの分野で活躍していた二人は、互いに自立したライバルのような関係で、その反面、お互いの仕事を尊敬し理解しあっていたのでしょう。

二人は出会った時に互いに一目惚れ。次郎は頻繁に英文のラブレターを正子に送りました。正子も英文で返していたそうです。
婚約時代、自身のポートレイトに文章を添えて互いに贈り合っていて、それが現在も残っている。

”Masa: You are the fountain of my inspirations and the climax of my ideals. Jou”(正子、君は僕の発想の泉であり、僕の理想の極みだ。次郎)
”To my beloved you. from Masako”(最愛の人へ 正子より)

(下記リンク先の 1白洲家と樺山家~二人の出会い~の 画像の最後を参照)

【ご参考】



オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。