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新吉田杉山神社

鶴見川紀行上流編に進む前に、どうしても早渕川沿いの杉山神社をまとめなければなりません。上流域の歴史を語る際、杉山社の話は避けて通れないのです。

と言う事で、延喜式内社の有力論社の一つ、新吉田町の杉山神社を巡ります。

周辺地図

(新吉田社が共有マップ上に表示されないので、森農園を表示。
 拡大すると、そのすぐ上に神社が出てきます)

早渕川の中里橋(島忠ホームズ近くの橋)から、大棚98号線を台地の縁沿いに進みます。迷いながらもグーグルマップを頼りに自転車を漕いでいくと…

参道の階段

突然、鳥居が現れました。こちらが、新吉田杉山神社。

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立派な鳥居と社号碑です。
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写真では分かりにくいけど、すごく長い階段です。
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この角度なら分かるかな。
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ここで、やっと中間点。

境内

おぉ、思ったより広い境内。
すごく重そうな表情。
左手には境内社が集まっている

境内社

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出世するかも知れない稲荷社
庚申塔
正徳3年(1714)の像らしい。きれいに残っている。
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天神様、ちいさくて可愛い。

拝殿

キャッチボールしていた男の子たち、気を遣って社殿の前をあけてくれた。
びっくり!鈴緒に「猿渡」さんの名が
あの大國魂神社の宮司・猿渡氏のご親戚?
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赤い縁取りが鮮やかな狛犬
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比較的新しそう
裏参道
こちらもすごい階段です。
裏参道からの境内。男の子たち帰っちゃった。邪魔してゴメンm(_ _)m
木々に囲まれた、静かな境内
立派なカヤの木
真っ直ぐに伸びています

由緒

新吉田杉山神社の創建は不明ですが、延喜式内社と武蔵国六之宮の有力候補(論社)とされています。現在も郷社(村社より位が高い)として存続しています。

この説明では、大国魂神社の社家・猿渡氏が新吉田界隈の出自となっている。

巷の情報によると、猿渡氏の祖先は藤原姓で、平安時代に橘樹郡猿渡村(神奈川区菅村)へ移り「猿渡」を名乗ったとされる。現在、菅田町にバス停名として「猿渡」が残る。

明治期には地名が残っていた右図の赤丸はバス停

猿渡氏は鎌倉幕府に仕えて武蔵国政所別当となり、武蔵国総社の神主を兼務。以後、代々大宮司を務めた。戦国時代は武士としても活躍し、後北条氏の被官で佐江戸城の城主になる。後北条氏滅亡後は、家康の計らいもあり大宮司職に専念。
江戸末期の大宮司で国学者の猿渡盛章は、杉山神社研究に没頭。自ら有力論社を巡って証拠集めをし、式内社比定を行った。

猿渡一族の分布は、神奈川区菅田町→港北区新吉田町→都筑区佐江戸町という流れだったのか。菅田にも杉山社があって、雰囲気の良い神社だった。猿渡氏は、杉山神社の拡散に関わっていたのかな?

いずれにせよ、猿渡盛章は親族が関連する新吉田社を式内社とせず、西八朔社を選んだことになる。血縁を排してまで比定したのなら、学者として厳格な方だったのかも知れない。


御祭神

主座(杉山社の本来の祭神)は、五十猛命のみ。
明治の神社合祀に至るまでの長い間、主祭神だけを祀り続けたことは、この神社の真正さを裏付ける証拠のようにも感じます。


周辺の地形

この辺は、谷戸が入り組んだ台地。

鶴見川水系に広がる杉山神社は、川沿いの高台に位置することが多いですが、新吉田社は川から少し奥まった場所にあります。

最近、何でも断面図にして見ている

標高は32mほどですが、木に覆われているので景色は見えません。
断面図をみると、鳥居から一気に18m上っていています。早渕川に面した緩やかな谷戸側ではなく、台地の裏側の崖が表参道になったのには、何か意図があったのでしょうか?(落人伝説のような…隠したかったとか…)

今でも、神社巡りをする人々が迷うようです。そこだけ、ひっそりとした神秘的な空気をまとっています。


近隣にある遺跡や古地名

杉山神社の創建は弥生時代後期に遡り、その始祖は古代氏族・忌部氏とも言われます。周辺に古代遺跡が存在すれば、古くからその地が栄えていたことを示し、神社の創建も古い可能性があります。

遺跡
現在、第三京浜が通る早渕台。その先端東側の北川には縄文期の貝塚などの遺跡、その中央西側には弥生時代の巨大環濠集落・権太原遺跡がありました。

港北ニュータウン遺跡群が語るもの
◆奈良・平安時代
奈良・平安時代になると近隣地域に武蔵国都筑郡の郡役所が作られました。田園都市線江田駅の近くの長者原遺跡で発見された遺構群が、郡庁や倉庫跡だと判明したのです。一方、この地域を見ると竪穴住居数軒で構成されたムラが多い中、掘立柱建物が整然と並ぶ北川表の上遺跡や、掘立柱建物と大型竪穴住居で構成された勝田原遺跡なども見つかっています。神隠丸山遺跡では平安時代の館址が 発見されました。また、西ノ谷遺跡では鍛冶工房跡が発見され、平安時代末から武器・武具を作っていたことがわかりました。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/MAIY_14L.pdf
埋文よこはま14     

古地名
この地域には神秘的な古地名が明治まで残っていました。

御霊(ゴリョウ)、神隠(カミカクシ)、さらには貝塚など。歴史的にも地形的にも由来がありそうな地名が目白押し。

これらを見ていると、式内社有力候補である気がして来ました。


式内社か否か?

新吉田社を式内社とする根拠として、歴史研究家は次の3つを挙げています。

(イ) 地域内に「杉山」という小名があり、この地区から吉田村が開け、神社の社名もつけられたと思われる。
(ロ) 杉山地区の旧家「森」家は、千年以上もの歴史を有するとの口伝があり、神社との関係も深い。
(ハ) 森家の背後の丘陵に浅間塚という古墳があり、かなりの勢力を持った土豪が居住していた証になる。
なお、『港北区史』によると、森家は地元で「杉山さま」と呼ばれており、家名「森」の語源は鎮守の森からきているといわれます。


神社の東の斜面に杉山の地名

確かに、先のグーグルマップを見ると、神社の南に「森」農園があり、両脇を山に囲まれている。

ただ、この状況証拠だけで式内社と言い切れるかな…。なお、物的証拠である新吉田社の神宝や由緒書は、別当寺の正福寺に保管されていたが、火災にあって焼失したという。(別当寺で由緒品不明は、あるある常套手段)

早渕川流域における杉山神社の密集状況から、この周辺が杉山社のルーツである可能性は高いと思います(高濃度の所が発祥源なのは自然の摂理)。ただ、杉山社の起源が弥生末期(200年ごろ)まで遡るなら、延喜式が編纂された900年代まで約700年も間があり、その間に様々な社会変化があったはず。その間、この地域や新吉田社が、ずっと栄え続けていたのかどうか?

素朴な疑問として…
式内社は南武蔵に11社、都筑郡には杉山社1社しかありません。
平安時代までに「新吉田社は霊験あらたか」の噂が都まで伝わるには、よっぽどの奇跡的現象が起こるか、都筑郡衙または都との強いパイプがないと難しい。役人がわざわざ来て調査し、都に戻って報告して認定されるまでには、有力者の精力的なプッシュが必要だったと思うのです。
森氏や猿渡氏が、その原動力となったのでしょうか。

う〜ん。結局、何も分からないまま、今回はこれで終了。

手すりが無いと、怖くて降りられない。

でも、この地形は昔からずっと変わっていない。
恐らく、大切に守られた場所だったんだろうな。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。