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亀甲山古墳・多摩川台古墳群・宝莱山古墳(2)

1500年後に地価高騰!「プレシャスな都会のオアシス古墳」

(1)からのつづきです。

多摩川台古墳群

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 全部で8つの古墳。亀甲山古墳や宝莱山古墳より後(6世紀後半~7世紀前半)に作られた。そのころには古墳が小型化していて、しかも番号順に整列している。1~4号墳、5~7号墳がそれぞれ同じ時期にできたグループらしい。(石室の方向が同じような方向を向いている) 

1号墳+2号墳

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 1号墳(後円部)

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 1号墳(全体)と2号墳(手前)。2号墳(円墳?)が最初に作られ、その後1号墳を後円墳として作り、2つ合体して前方後円墳にリフォームした?という驚きの二世帯(?)古墳。

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3・4号墳

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 当初、3・4号墳は2つ合わせて前方後円墳ではないかと考えられていたらしいが、それぞれ周溝が見つかって単独墳となった。

5・6・7号墳

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 同じ大きさで整然と並んでいるのは、まるで現代の霊園のよう。横穴式は埋葬前に墳墓を作り置きができるので、「面倒くさいから一気に作ってしまえ!」なんてことがあったのかな?

8号墳

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 虹橋を渡って8号墳へ。8号墳は自由広場の入り口付近にあります。

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 広場との高低差がないので、単なる植え込みにしか見えません。古墳の小型化は、大化の薄葬礼以降の時代の流れもあるけど、埋葬者の身分も大王から首長、さらに下の実力者にまで広がっていたことも意味している。
 以前は社長だけに許されていた古墳も、代表取締役、ヒラの取締役、さらに部長クラスまで「オレも古墳作って!」となったのか?

宝莱山古墳

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 自由公園を過ぎて小道を越えた先が宝莱山古墳です。わりと大型なのですが、後円部が削られたので実感はありません。

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案内板より後円部方向。

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前方部への上り路。

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前方部頂より前方を望む。立派な木々が茂っている。

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同じく、後円部方向を望む。きれいさっぱり先が切り落とされている。

夜間は施錠されるようなのでご注意を!

まとめ

 いにしえの古墳霊園が現代人の憩いの公園になっているとは。リバーサイドの高台を選んだ古代人、大手デベロッパー顔負けの構想力を持つ。まさにサスティナブルな開発目標!
 
帰りは近くの宝来公園に寄り、田園調布駅へ。雪が谷大塚からは3km強。多摩川駅からなら1.5km弱の行程です。(結構、ハードです)








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