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小机城址④ 鶴見川遺跡紀行(5)

中世の堅城・小机城を攻略だ!

これまでの小机城シリーズ


長らくお待たせ申した。いざ、小机城に登城つかまつる。
まずは、城の全体像をお見せ致そう。

小机城の想定図

鶴見川対岸からの小机城址、緑豊かでござる。

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まず、本丸広場案内板で全体像をご覧入れよう。

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ちょっと平面的で分かりにくいでござる…

今昔マップ殿で古地図と現地形を比べようぞ。

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左図:明治30年ごろ。横浜線(八王子〜横浜)は絹の道ゆえ、早くから敷設されていようじゃ。
右図:傾斜量図。第三京浜の跡が痛々しいぞよ。

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左図:明治迅速測量図。線路の無い完全な御姿!

高さが分かるよう地理院地図「自分で作る標高図」を作って参った。

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小机城の地形は約40mの高台。中々手強い城だ!
東側は標高差30mの崖で登り難い
北側は陰影で緩やかに見えるが実は急傾斜
西側は土塁や空堀で強固な護り
南側は台地づたいの脱出路(搦め手)

城の部分だけをクローズアップでござる。

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欠損部を明治迅速測量図から推測し加工した図。
(注意!加工部分の傾斜量は正確ではない)

構造物を分かりやすいように図示してみた。

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白:通路、赤:空堀、茶色:土塁、ペールオレンジ:曲輪などの平滑面

小机城復元予想図
迷路絵本で有名な香川元太郎殿による小机城の復元図。

中世城郭研究会の解説

城の用語マンガ解説

追加情報 令和3年、ついに小机城に調査されたぞ!
「小机城を明らかに」小机城跡埋蔵文化財調査について
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/bunkazai/maizou.files/kodukueshikutu1.pdf

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/bunkazai/maizou.files/kodukueshikutu2.pdf

これらを頭に入れてから、城内に入られよ。

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それでは城に参ろうぞ!おー!


根古谷

根古屋は「兵舎のある場所」という意味。

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中世初期までは、戦さが終わると撤収して家に皆帰っていた。ところが、戦国時代になり戦闘状態が長期化すると多くの兵を城に常駐させなければならず、城の近くに兵舎を作る必要があったのだ。(根古谷に寝小屋~)

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一方、ネコヤは地形由来の地名で、もともと丘陵地と平地の境目を示しているそうだ。「根古(小/子)(屋)」という名の城が多いのは、ネコヤの呼称がそれを含んだ丘全体に及び、そのような場所に城が多く建てられるようになったからだ。
ちなみに地名用語語源辞典によると、ネコ地名の由来は次の通り。

ネコ〔猫、根古、根子〕
①ネキ(根際)の転で「側、かたわら」
②ネ(根)・コ(処)の意で「峰、高所、微高地」「崩壊地形」
③ネゴヤ(根小屋。根古屋)の下略形
④ネコ科の動物によるもの

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かなり急な登り。

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分かれ道にでた!

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左は本丸に続く道。細い土橋になっている。

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本丸に行きたい気持ちを抑え、まずは右の道へ。

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通路の左側を覗き込むと、空堀がクネクネしている。

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隣の土手は櫓台(やぐら)の跡。


曲輪(帯曲輪?)

道を下り切ると、

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少し広い場所に出た。

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敵の来襲に備える兵の待機場所だったのか?

曲輪?切岸?

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下を覗くと角張った土手が交互に続いている。(標高33m)
これは小さな曲輪群なのか切岸なのか?下から来襲する敵を迎え撃つ設備のようにも見える。鳥居や祠があるのも気になる。昔から存在していたのだろうか?上の曲輪にも祠があったので、武運を祈る八幡曲輪だったのか?

空堀

曲輪の先に進んでみよう。

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先ほどの櫓台跡のふもとに出てきた。

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左側から空堀の奥に入れる。

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空堀の中から見上げた図。3mほどあるだろうか?
小机城は学術調査されていないので空堀の形状は不明。500年もの間の土砂や植物の堆積により外見からは判断がつかない。


広い曲輪?大手?

櫓跡の前は大きな広場になっている。

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なだらかな坂道。広さ的には三の丸といっても良いほど。案内板によると、この方面が大手(正面玄関)らしい。

土塁

階段を登ると案内板があった。

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ここは櫓台に続く土塁のようだ。

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土塁の上に登ってみると

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反対側には本丸に通じる道…こちらは後で行くとして
まずは先端まで行ってみよう!

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真っ直ぐな道になっている。土塁の上底幅2.5m。

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先端の右肩からの眺め。下は先ほど入った空堀。
基底幅5m、高さ2mなので単純計算で土塁の法面角度58°?

櫓台

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土塁の先端に櫓が建っていたらしい。

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先端部が温度計みたいな形状になっている。
残念ながら木が茂っていて見通しが悪い。(標高38.9m)


井楼跡

先ほどの案内板に戻り、二の丸へ向かう。

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井楼跡(せいろうあと)と書かれている。
井楼とは井桁に組んだ物見櫓のことらしい。


二の丸付近の地図

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看板の地図を拡大。白い数字は合成したもの。

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①から②井楼跡を見た図。なかなか広い。

櫓台

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①の近くに高い土塁があり、ここも櫓台のようだ。

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標高は39m。井楼跡側は木が茂って見晴らしが悪かった。

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反対側は竹林で見通せた。空堀との落差は8mほどか。


二の丸

井楼跡の奥に見える植栽を越えると

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その先に、ひっそりとした小さな広場がある。

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ここが二の丸跡。井楼跡を含めると結構広い区画。専門家の中には、ここが本丸と考えている人もいる。
本丸には殿様の居館があり、二の丸には兵の詰め所や政庁が置かれていた。


大きな空堀

③近くの階段から降りてみる。

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下は遊歩道になっている空堀だ。

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関東ローム層の急斜面に竹を植えるのは、先人たちの知恵。短期間に自生する竹は、雨で斜面から土が流亡するのを防いでくれる。当時は竹を生活に利用していたので、一石二鳥だったかもしれない。
(一方で、竹は横に広がりやすいが、根が浅いため保水力が弱く、他の植生を圧倒してしまう。放置されると、逆に地滑りを誘発しやすい)

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山城では木は視界の妨げになり、敵兵が斜面を登る際の足掛かりになるので、伐採されていたと考えられており、復元図でもそのように描かれている。

逆に、敵方からの視界を遮る目的や、籠城に備えて燃料、弓矢や竹槍、その他構造物の材料になる松、杉、竹などが城内に植えられていたとも言う人もいる。

一体、どっちなのだろう?
実際に見てみると、竹林は間伐すれば視界が保たれている。スリットアニメ原理で意外と人の動きは分かりやすいようにも感じる。

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竹林は特徴がないので、迷路の中にいる感じ。

本丸

階段を登り切ると…

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あれ、本丸の裏側に出てきた?
いかんいかん、ちゃんと正面から参らなくては!

最初の分かれ道まで戻って、左の道から再スタート!

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本丸に続く土橋は、敵兵の侵入を防ぐため曲げて作られているそうだ。

虎口(入り口)

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入り口付近の石碑。(一応、ここが本丸と言うことで)

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土塁
本丸は土塁で囲まれている。

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虎口の左右には高い土塁が設置されている。

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第三京浜沿いの土塁に登ってみる。

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土塁の上から見た景色。木の生命力が強すぎて見えない。
首都高の高架橋といい勝負か?(標高39m)

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本丸に戻って、奥から虎口を臨む。現在は球技広場になっている。

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本丸北側斜面の空堀と土塁。人為的な切込みなのか?秘密の通路っぽい。

案内板

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本丸と二の丸を回って見ましたが、正直、素人にはどっちが本丸か分からない。二の丸はどん詰まりで逃げづらいし、本丸は台地伝いに攻められると危険だし、一長一短かな。敵が来る方角によっても安全度が違うので、中世の城の構成は流動的だったのかも知れない。

城郭研究者の西股先生が小机城を解説している記事があった。
(毎度のことだけど…)これを見てから行けば良かった。

でも、事前に調べすぎると初見の感動が弱まってしまうからな…。


富士千元

本丸の手前の道に分岐があった。

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案内に従って富士仙元に向かおう。

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細い土手道を進むと…第三京浜沿いに

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第三京浜を右に下っていきます。

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高架下をくぐって反対側に出ると、再び急階段!

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階段途中からの景色。正面は東神奈川方面。
かつて左側の本丸とは尾根でつながっていた。

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登り切ると、奥に続く細い道があった。

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しばらく進むと少し広いスペースが。
この先にも道があるが、私有地に入ってしまう。

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振り返ると高台がある。

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なにやら石碑が見えた。

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地味に危険な細道(滑るので要注意)

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登り切ると富士仙元。富士講の名残りと言われているが、ただ単に高い塚を作ったとは思えない。戦国時代は櫓台の役目もあった高台を、富士塚に転用したのではないか?木で景色は見えないが、本来なら遠くまで見渡せるはず。


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狼煙リレーのルートを検証しようと息巻いていたが、結局のところ、木が生い茂っていて茅ヶ崎城、佐江戸城、大曽根砦も見えなかった。(古墳も中世城めぐりも冬場に行かないとダメ)篠原城はプリンスホテルの右あたりなので、当時ならうっすらと見えたことだろう。
まあ、夢は夢のままに。妄想は人の迷惑にならないようにひっそりと…。

それにしても、500年前の地形がまだ残されていて、地域の方々の活動(竹林の管理や下草刈り、清掃)で維持されているなんて、本当にありがたいことです。
巨大なパワーに飲み込まれる前に「これは素晴らしいもの(こと)なんです!」と声を大にして伝えることで、少しでも大切なものが将来も残ってくれたらなと思います。


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オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。