橘樹官衙から影向寺 千年伊勢山台紀行(2)
古代の川崎市役所は、インテリジェント・シティーオフィスだった?
前回の続き、今回はいよいよ伊勢山台に入ります。
橘樹官衙(たちばなかんが)遺跡群
中原街道から急坂を上って台地の頂上付近にたどり着くと、何やら広い空き地がでてきます。
公園にしては遊具がありません。
ここが橘樹官衙跡です。千年伊勢山台遺跡群とも呼ばれたりしています。
なんと!発掘調査中でした。
建物の跡か?40~50cm掘っているから、地層としてもかなり古そう。
礎石ではなく、溝の跡かな? 金網にピントが(汗)
こちらも発掘調査中?
後ほど調べてみたら、このような記事がありました。(11月25日)
広場の端っこに大きな案内板があった。
遺跡が周辺に散らばっている。相当広い倉庫群があったのだろうか?
昔、この地域は武蔵国という大きな国(県)の中の小さな郡(市)で、橘樹(たちばな)郡と呼ばれていました。面白いことに、現在の川崎市とほぼ同じ形をしています。
平たく言うと、ここは古代の川崎市役所らしい。
この一帯にあるのは正倉院(倉庫)で、租税としての米や農機具なども保管されていたようです。(①~⑧まで説明がありましたが…割愛)
【ご参考】
史跡(橘樹官衙)を取り巻く環境 川崎市
https://www.city.kawasaki.jp/980/cmsfiles/contents/0000096/96962/301009bunkyou1-4.pdf
しかし、今のところ、肝心の市庁舎跡は見つかっていないようです。
12月半ばにもう一度訪れましたが、既に発掘跡は埋め戻されていました。
土の中に戻すのが一番保存状態が良いのでしょうね。
影向寺
橘樹官衙跡からまっすぐ西へ数分歩くと影向寺です。影に向くと書いて「ようごう」って読むんですね。影向とは、神仏が仮の姿で一時的に人前に現れる事だそうです。
奈良時代には存在していたようですが、発掘調査でそれ以前の白鳳時代(飛鳥と奈良の間)の建立だと判明しています。
しかし、台地の上にこんな立派なお寺があるなんて知りませんでした。名刹と呼ばれるお寺は大きな道路に面していたり、広い参道が作られていたりするのですが、ここは他から隔絶されたようにポツンと存在します。
薬師堂
県指定重要文化財です。(江戸時代中期の建立)
太子堂
昭和60年建立の美しい六角形のお堂。疾病消除祈願の聖徳太子像が安置。
安置堂
薬師堂の後ろに国指定重要文化財の仏像二体ほか、多くの文化財が安置されているようです。影向寺HPに御姿が掲載されています。
影向石
三重塔の支柱の心礎として使用された石として祀られています。
中央の窪みに水がたまっていて、この水が眼病に効いたなどの言い伝えがあります。
影向寺の成り立ち
創建当時は地方豪族の氏寺で、その後、奈良時代の律令体制に組み込まれ、橘樹郡の守護寺となったようです。発掘調査で古影向寺の跡が見つかっています。
古代の川崎市役所は何処にあるのか?
(ここからは、私の妄想です。)・・・
奈良時代、橘樹郡の有力豪族たちは自分の土地に役所の誘致合戦していた。誘致の条件は、新しい国の宗教である仏教の立派な寺と、古くからの信仰されている由緒ある神社が近くにあること。
橘樹郡は多摩川の渡しがある要衝、通行人が多ければ栄えるし、租税の米が集まれば地域の力も強くなる。地域の首長は是非とも自分の土地に役所を誘致したい。数ある候補地を出し抜くにはどうしたら良いか?
まずは、多摩川を武蔵小杉で渡る「丸子の渡し」をメインストリートにするよう上申すること。その方が隣の荏原郡の中心に近い。溝の口や登戸で渡ると荏原郡から遠くなる。
次にライバルとの差別化だ。有力豪族の古墳も多い日吉や加瀬台周辺は、都筑郡の役所(田園都市線・江田駅あたり)から遠くなるし、矢上川や鶴見川の氾濫で湿地が多いから主要街道の建設には不向きだ。
郡役所には機能的な場所を提案しないと、都(奈良)の役人も納得しないだろう。高い台地(伊勢山台)に倉庫を設ければ、川の氾濫からも外敵からも米を守ってくれる。矢上川の水上輸送を利用できるし、野川本町辺りの緩やかな坂から搬入すれば、多少の標高差があっても大丈夫。
次は宗教だ。郡の寺は自分用に建てた寺を充当しよう。天皇家の感動的な逸話も添えれば、箔も付くだろう。
問題は神社だ。この辺りには郡を代表するような立派な神社がない...。そうだ!低い方の台地のふもとにある神社に、日本武尊伝の「橘樹伝説」つけてしまえ。ちょうどいいことに、台地の上に古墳があるから、そこを弟橘媛の櫛の塚にしてしまおう!
さて、肝心の本庁舎はどこにしよう?伊勢山台は倉庫だけで一杯だから、別の場所が必要だ。とりあえず候補地を3つ挙げよう。
①は野川本町の台地。緩やかな坂で倉庫のある台地に登りやすい。デメリットは傾斜地がちで平たん地が少ないことだ。
②は影向台と第3京浜周辺だ。広い台地でスペースは十分だ。デメリットは、矢上川からも街道を通すはずの平野からも離れてしまうことだ。
③は富士見台だ。郡境の多摩川だけでなく、矢上川と有馬川の合流地点も見渡せるので防衛上も安心だ。伊勢山台と富士見台の間に街道を通せば、人の出入りもチェックできる。そして、何といっても魅力的なのは、中原街道の西側からは富士山が見えるのだ。とてもフォトジェニックで、都の役人達も感動するに違いない。
よし、③をイチ押しで都の役人に上申してみよう・・・
さて、皆さんはどこに市庁舎があったと想像しますか?
【ご参考】
歴史ガイド「橘樹郡家と影向寺」(川崎市文化財団 pdf)
川崎・たちばなの古代史―寺院・ 郡衙・古墳から探る(村田文夫 有隣509号)
影向寺のその後
橘樹官衙は律令制度の崩壊とともに、その役目を終えます。
鎌倉時代に入ると、鎌倉街道の「中ノ道」(登戸や溝の口で多摩川を渡るルート:矢倉沢往還→大山街道→厚木街道=246号)が主流となります。そちらの方が坂が少なくて管理しやすかったそうです。当時は稲毛荘の枡形山が鎌倉防衛の最前線となりました。
政治の庇護を失った影向寺は、かつての郡寺から性格を変えて存続の道を探ります。
影向寺の乳イチョウ
イチョウは老木になると幹や大枝から円錐形の突起を生じることがあり、これをイチョウの乳と呼びます。乳柱を削ってしたたる樹液を飲むと乳の出がよくなるという伝説があります。
その後、影向寺は平癒祈願や眼病治癒、お乳の出を良くするなど庶民の健康への願いに寄り添い、法灯を現代まで繋ぎ続けています。
コロナ禍の現代も昔も、人々が健康を願う気持ちに変わりがありません。
【ご参考】下記ページ「4.影向寺の法灯を繋いできたもの」
長くなりましたが、まだまだ(3)へ続きます。