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野川神明社から野川1号墳へ 千年伊勢山台紀行(3)

縄文時代からの歴史が詰まった台地の物語、いよいよ完結!

前々回、前回からの続きです。

 今回は、影向寺周辺の地形を見た後、野川神明社さらには第3京浜を越えて野川1号墳まで遠征します。

 この一連の行程は、実際には2回に分けて行っています。台地に上ってしまうと飲食店やコンビニ、公共のトイレもありません。同じようなルートで散策をお考えの方は、ルート設定にご注意ください。

 タイトル画像は橘樹官衙跡の後方、千年伊勢山台の北壁から武蔵小杉方面を見渡したものです。台地の高さを実感していただけるかと思います。

たちばなふれあいの森

 橘樹官衙跡から影向寺へ向かう途中、右手に急な崖が見えます。気になったので下りてみました。

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 谷戸地形でしょうか?崖から浸みだした水で浸食された跡のようです。かなり急です。

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 谷筋の小川にゲンジホタルの幼虫がいるようです。こんな都会に信じられませんね。

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 谷底に下りると左側にも斜面があります。こちらはやや緩やかです。これを登ると影向寺の裏側に出ます。

野川神明社

 再び影向寺に戻り、進んでいくと道がY字に分かれています。分岐を左に進むと、高い木に囲まれた鎮守の森が現れます。

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 手水舎の前まで行くと

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 横にお社が…こっちが正面入り口でした。

 後で宮前区のガイドマップを見たら、影向寺正面から前方へ直進する道を行くと神明社の正面に出ることが分かりました。この道は影向寺道と呼ばれ中原街道に接続しています。地図に勧進坂と書いてあるので、影向寺への参道として使われていたのでしょう。
 先ほどのY字路を右側も影向寺道と呼ばれ、尾根づたいに田園都市線の梶ヶ谷駅周辺で、矢倉沢往還(大山街道)に繋がっています。
【ご参考】宮前区歴史ガイドまち歩き4野川地区について

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 石柱に注連縄が渡されていて、なんだか雰囲気がありますね。

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 なんだか立派だなぁ。なぜ、こちらを郡の神社にしなかったんだろう?と思ってしまいます。

 野川神明社は、川崎市宮前区野川にある神社で、創建は不詳ですが、縄文時代から定住が進んでいた土地であることから、相当古くからの創始が考えられるといわれています。江戸時代には、韋駄天社と称されていたそうです。(中略)韋駄天神は、もともとは仏教からきている神様です。お釈迦様の食事の世話を献身的に行ったことから、中国では食堂や家庭のキッチンに祀られることが多い神様です。お釈迦様入滅後は、お釈迦様の舎利を奪って逃走した鬼を走って追いかけ、舎利を取り戻したという逸話から、日本では健脚の神様として有名です。
 特に今年は、NHKの大河ドラマで「韋駄天」が大きく取り上げられ、全国でも珍しい韋駄天尊神を主祭神にしている野川神明社に多くのアスリート達が、大願成就を願って参拝に訪れているようです。
(野川神明社HPより)

 かなり古い神社だとすれば、ますます郡社にならなかった理由が謎…。影向寺と一緒にお参りする人が増えて、後世になって栄えたのかな。
 それにしても「韋駄天社」って珍しいですね。最近大河ドラマを見てないので、話題になっていたことすら知りませんでした。

 縄文・弥生の大きな集落跡や墓跡もあったそうで、この台地は「まるで歴史遺跡の玉手箱やぁ~」といった感じですね。


地政学から千年伊勢山台を考える

古街道の通過点

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 古代の街道は、やや内陸の丘陵地を通るルートが主流だったようです。(赤が矢倉沢往還、オレンジが古東海道、水色が影向寺道が通ったのではないかと思われるルートです。フリーハンドなので厳密性に欠けます。)

 下末吉台面の中央を北東に直進してきた古東海道(中原街道)は、ちょうど千年で東に進路を変え、丸子で多摩川を渡り荏原郡の大井に向かいます。
 下末吉台面と多摩丘陵の境目を縫って北東に直進する矢倉沢往還(大山街道)も、また、並行するように溝の口で多摩川を渡ります。

 矢倉沢往還が通る梶ヶ谷と、台地の尾根づたいにつながる千年伊勢山台。地図で見るとこの台地が交通の要所になる理由が分かります。橘樹郡の役所に相応しい場所であったことに納得。

改めてこの地域を考察

 水色の道は影向寺道、矢倉沢往還と古東海道の接続ルート。他にも矢上川と有馬川の合流地点もあり、正に水運、陸運の要所です。
 そして、この地形!天然の要害みたいな場所。この時代に激しい争いがあったのか分かりませんが、見るからに守りが固そうです。

 台地を機能別に分けてみました。影向寺台は仏ゾーン、千年伊勢山台は倉庫&役所ゾーン、橘樹神社のある低い台地と古墳は神様ゾーン。現在の橘樹神社は小さなお社ですが、台地を背にして築出しに鎮座しているロケーションは魅力的です。

 現在のところ、明確な古代の市庁舎跡は見つかっていませんが、川崎市教育委員会は千年伊勢山台にあったのではと推定しています。一方で、前回「ご参考」で紹介した村田文夫氏の子母口富士見台に役所があったのではという説もあります。

 この地を実際に歩いてみると、「子母口富士見台には何かがあっただろう」と思ってしまいます。台地全体で市役所機能を分担していたと考えると、古代のインテリジェント・シティーオフィスではないか...と思ってしまいます。


野川1号墳

 お待たせしました。やっと古墳の話題が出てきます。
 当初は行くつもりはなかったのですが、ここまで来たら近くの古墳は制覇せねば!と思い、影向寺台橋を渡って第3京浜を越えました。

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 普段の生活では全く感じないことですが、歩いて歴史散策していると、このような人工物に突然遭遇したときに強い驚きを感じることがあります。歩いているうちに脳が古代人になっているのかな?

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 さすが橘樹郡、いたるところにミカン(?)の木が。
 ここからはグーグルマップとにらめっこで進みます。一度谷底まで下りて、そこから上っていきました。
 市街地でのグーグルマップの欠点は、等高線がない(高低差が分からない)こと。最短ルートが時に地獄のルートだったりします。

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 登り切った高台からの景色、ここも結構高い。そして目の前に…

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 あれが古墳かな?農家の裏山っぽい。
 近寄りたくても私有地内なので自制。隣家の犬がワンワン吠えるのでじっくり見れない!(こんなところで写真撮っていたら不審者だよねー)

 野川1号墳に関する公的情報をネット上で見つけられなかったけど、川崎市平成29年度議案「第3章橘樹官衙遺跡群の本質的価値と構成要素」によると、しっかりと古墳認定されている。
 削られた部分がありながらも歴代の地主さんが今まで保ち続けてくれた。それだけでも、とてもありがたいことだ。記録のない時代のお墓だからこそ、いろいろ想像できて楽しいのかなぁ。

 今日はいい運動になったな…。あっ、古墳のふもとにもミカンが植わっている。やっぱり、ここは橘樹郡なんだ。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。