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寺家ふるさと村 鶴見川遺跡紀行(14)

現在では、遺跡のように珍しくなってしまった谷戸田。
その歴史的、社会的、環境的、防災的意義を語る

前回訪れた「みたけ台」から、鶴見川沿いを北上します。

常盤橋を渡ると「寺家ふるさとの森450m」の看板が目に入って来ました。
小規模なのに飛び地を有する謎の町「成合町」を超えると、その先は寺家町。

寺家ふるさと村

昨年の晩秋に散策した写真です

田んぼが広がる郷愁溢れる景色。用水路沿いに「寺家ふるさと村・四季の家」を西に進むと、小高い丘が見えて来ました。


寺家の由来
テラヤ
ではなくジケと言うようです。

「寺家」という地名は全国各地に存在します。それらの地名の由来は寺院の所領となっていたり、寺院が存在していた地域であると言われています。
ここ横浜市青葉区の寺家町にもかつて、都筑郡王禅寺村の王禅寺の末寺である、「東円寺」という新義真言宗のお寺がありました。大正11年に王禅寺(川崎市麻生区)に合併するまで、現在の町内会館のあたりに存在したのだそうです。この東円寺が寺家の地名と関連するかどうかは明らかにはなっていませんが、寺家村という地名は鎌倉時代中期以降の書物において、その名が登場します。
明治6年、この東円寺内に寺家学舎が創設されました。その翌年、寺家・鴨志田・成合の三村を集め寺家学校となり、鴨志田村の南慶院に移転。のちに現在の鉄小学校へ合併されていきます。


寺家の歴史
鎌倉時代に地名が記録されているのは、当時から重要な場所であったという事でしょうか。

豊富な遺跡群
寺家町は、古代より恵まれた環境にあり、中央の台地には縄文・弥生時代の住居跡として、畑を少し掘れば、至る所に土器片が散見されます。
古墳時代にも、丘々に数個の塚が造られていますし、お伊勢森古墳の西側には横穴古墳も見られます。

「吾妻鏡」に最初の記録が
東円寺の開基は、何時頃か記録はありませんが、過去帳によれば、大正年間中興とありそれ以前であることは明らかですが、大正11年、柿生の王禅寺に合併しています。
中世、鎌倉時代は「吾妻鏡」にあるように、当地は頼朝に従った鴨志田一族の領地でしたが、畠山重忠と共に倒れ、後に入ったのが、現在の大曽根、金子一族の先祖です。弘安8年(1285年)の霜月の騒動に破れ、(鴨志田)一族は当地に農民として、ひっそりと暮らしてきたものと思われます。

徳川時代には年貢を免除された
小田原北条時代、北条氏直から大曽根飛騨守あての古文書が残されており、大曽根氏は鴨志田、寺家の小領主として軍役を負う替わりに年貢は免除されていました。
(北条氏滅亡後は帰農し)徳川初期は金子氏を名乗り、小領主として暫くは年貢を免除されていましたが、旗本、筧(かけい)小座右衛門の所領となりました。徳川中期は又、大曽根氏にもどっています。(後略)


谷戸と武士
班田制の時代、農民は谷戸を新田開発後、無税期間が終了すると徴税を逃れるために寺社や有力者に田を寄進して荘園化し、その管理者として働きました。
墾田永年私財法以降、有力者は挙って新田開発したり、近隣の水田を統合または略奪して荘園を拡大しました。荘園を守るために、谷戸集落ごとに農民たちも武装し、土着の武士団が誕生したと言われています。
武士団は谷戸に居館を設け、集落の氏神を祀り、独自の祭りや芸能を伝承することで、地域文化を育んでいったのです。


熊野神社

小高い丘の先端部分に到着。

ここをそのまま登っても良いのですが、左に少し行くと…

白い鳥居に長〜い階段。こちらは熊野神社です。

やっとこ登った先には、可愛らしい社殿。

正面奥に、あの青白の煙突が見えるのがお分かりでしょうか?

でも、後ろを振り返ると、素晴らしい眺めです。
そう言えば、熊野神社も結構丘高い場所に建っていますよね。ご本家の影響なんでしょうか?

境内に横浜市指定名木のモミ


山田谷戸

後ろを振り返った図

先程の「ふるさとの森」入り口を北側に進んでいます。

谷底が広く、奥の方まで続いてます。

地理院地図の航空写真を見てみましょう。

現在の写真

かなり長く広い谷戸です。

1960年代の写真

かつて多摩丘陵には、樹枝状に発達した谷戸がたくさんありました。
谷戸の広い谷底につくる水田を、谷戸田と言います。


「谷戸のまち」横浜

 「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地、ため池などを構成要素に形成される地形のことです。
 
「神奈川県、ことに横浜市域はヤト地名が多く、収録したものだけでも小字地名でヤト(谷戸・谷)244・ヤ(谷)63、合計307ヶ所となっている。小字地名は集落名であり、樹枝状のまとまりを単位としたものが多い。」

谷戸は湧水があり、洪水被害はなく、開田のための高度な技術も不要(アシ原を切り開き、排水路を造るだけで米作りができた)であり、横浜の水田開発は谷戸田から始まったと考えられています。
昔の横浜に暮らす人々はこの開墾した谷戸田に寄り添い集落を形成し、谷戸の自然や生きものと共に生きてきました。小集落ごとの人々の暮らしと文化の歴史が連綿と続き、人の営みの中で里山特有の環境が作りだされてきました。


下の表は、横浜市の谷戸数と地形別の谷戸形状を比較した表です。

横浜市域における谷戸地形の特質と推移に関する一考察 より

特に鶴見川の谷戸数が群を抜いて多く(流域面積や河川長による)、また、開発によって消失した谷戸も多いことが分かります。


谷戸の呼び名

丘陵台地の開析谷を東日本では、谷戸(ヤト)谷津(ヤツ)と呼びます。
西日本ではサコ(迫、佐古)、岐阜ではホラ(洞)とも呼ぶそうです。

中世以前、人は谷間に住むことを好んだ。戦乱の時代、平野の真ん中に住むと四方から敵の攻撃を受ける可能性があるが、谷間に住めば、その入口だけを武士が守ればよい。また、谷間には川が流れて農耕に適しているだけではなく、山が近く燃料としての薪を得るのも容易だ。さらに、万一敵に攻め込まれても、すぐ裏山に逃げ込むことができる。

こうした谷間のことを西日本では「さこ」ともいい、「さこ」に「迫」という漢字をあてた「~迫」という名字も多い。この他にも「窄」「佐古」「峪」といった漢字を使うこともある。
一方、関東地方では、谷間のことを「やつ」「やと」という。鎌倉の扇ヶ谷(おうぎがやつ)は有名だが、神奈川県では平野が山の麓に入り込んだ小さな谷間のことを「~やと」といい、「谷戸」という漢字を当てることが多い。

↑は「日本人のお名前」でお馴染みの森岡さんの記事。そう言えば、迫田や佐古田も地名や氏名にありますね。


谷戸の成り立ちと特徴

横浜の谷戸は谷底が平でやや広いのが特徴です。
それは、単に丘陵や台地が湧水で浸食されただけでなく(それだけでは普通の谷)、大昔に海進・海退が繰り返されたことで谷底に土砂の堆積が生じ、V字谷→∀(ターンA)字谷*となったからです。(*勝手な呼称です)

↑こちらのサイトに、詳しい説明が載っています。


谷戸に田を作る

鶴見川上流域は丘陵地なので平地が狭く、また、地形的にも洪水被害が多い場所でした。そこで、昔の人は谷底の広い谷戸に水田を作りました。

谷戸田のメリット・デメリット

谷戸田は、谷底にあるという立地から、湧水からの流れを直接引き込むことができるため、あえて水を遠くから引いて来る必用はありません。しかし、横浜で谷戸田が形成される源流域は水量、つまり湧水の湧出量が多くないため、広いエリアに水を供給することが困難で、そのため、上流にはしばしばため池がつくられています。

山と山の谷間に作られた水田のため日照時間が短い上に水も冷たいというのが特徴というか多少のデメリットといえます。

(↑PCではセキュリティソフトOKですが、スマホで見ると警告表示が出る)

ため池は貯水だけでなく、水温調節機能もあるのでしょう。メリットとデメリットがありながらも、工夫を凝らして稲作を続けていたようです。


谷戸田と周辺の開発
谷戸田周辺には灌漑用ため池だけでなく、涵養林も整備されました。

畿内に比べ関東の農地開発は遅れており、関東の開墾が盛んになったのは鎌倉幕府の成立以降と述べる。 その開墾も当時は技術的制約等により谷戸、丘陵台地と中小河川の間等が中心で、中小河川の沖積地の新田開発は戦国大名の登場以降、大河川中流の氾らん原、大河川下流の三角州、河口干潟の開発は近世と指摘している。なお鶴見川氾濫源の低地は、洪水と用水不足(河床勾配が緩やかで取水堰が設置困難)で近代に至るまで未開田のところ(新横浜周辺)もあったように、開田は遅れた。 なお谷戸田の開発は、水利条件等から谷の出口から始まり奥に進んだと言われている。

新田開発がすすむと、アシ原の谷底面の人為的な谷戸田化はもとより、谷戸をとりまく樹林帯への刈敷き、薪炭、茅場の需要も高まり、それまでの常緑樹林帯に人手が入り、いわゆる雑木林といわれる二次林が形成される。

横浜市域における谷戸地形の特質と推移に関する一考察

涵養林は「大雨時の出水を防ぎ、旱魃時に水を絶やさない」という第一義的な役割の他にも「雨滴や地表流下水から土壌浸食を防ぐ」働きがあり、まるでスポンジのような機能を有しているのです。

広葉常緑樹だけでなく落葉広葉樹や針葉樹が適度に含まれている方が、地表に落葉が堆積し、日が地面に差し込むことでコケや草木も育成され、より涵養効果が高くなると言われています。

つまり、森林を間伐し植林するなどの手入れをした里山の方が、涵養林に適しているのです。


谷戸田は一つの完成した自然界

谷戸田には、樹林、草地、池、小川、水田などの環境要素がコンパクトにまとまっていて、狭い面積ながらも生物多様性が確保されています。

【谷戸田に生息する生物の関係図】


(自分用ブックマーク)

第2章 一般的事項 
(水田の機能、農村地域の生態系の現状、環境に配慮したほ場整備)https://www.maff.go.jp/j/nousin/jikei/keikaku/tebiki/03/pdf/data2.pdf

多摩丘陵における谷戸田の植物相 神奈川 自然誌資料
https://nh.kanagawa-museum.jp/www/pdf/nhr22_013_018kitagawa.pdf

多摩丘陵の多摩川流域における谷戸の魚類相の現状報告
明治大学農学部研究報告
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030670461.pdf


谷戸と防災

田んぼダム
大雨や台風時に水田や農業用ため池に雨水を貯留することで、下流域の浸水被害を軽減する「田んぼダム」が近年見直されています。谷戸田は細長いので、河川に水が流れ込む速度を遅らせる効果があると思います。
【ご参考】「田んぼダム」の手引き(農水省)

実際に、寺家ふるさと村でも農業用ため池の水位計を設置して、水害に備えているようです。


倒木や土砂の流下を阻止
土砂崩れが発生して、土砂や倒木が流されても、細長い谷戸の中で留まり、低地への土砂流出や河川への流木被害を防ぐことが期待されます。


しかし、現実は…
谷戸田と周辺の森を保全することが防災に役立つはずですが、実際には、鶴見川流域の谷戸は上~下流全域で多くが消滅し、谷戸の形状を残した地形に住宅が密集しています。

このような地域には水が集中しやすく、保水力のないコンクリート地面は逃げ場のない水を急速に下流域に流し、結果として低地が浸水してしまいます。
また、無計画・無秩序な開発で急斜面が住宅地と近接し、土砂崩れの危険性と隣り合わせの地域も少なからず存在します。


寺家ふるさとの森

さて、前置きが長くなりました。

寺家ふるさとの森を散策してみましょう。

ムジナが住んでいたのかな?

やや高台にある「むじな池」。野鳥観察をしている人がいました。

熊が渡る?はずはない

その先を進むと「くまの橋」。

そこから尾根に出ました。

高台の東屋で一休み。

秋を過ぎると落葉し、明るい森になります。

最奥の谷戸頭を目指します。急な下り階段です。

谷底に到着。振り返ると…

谷戸頭です。

この辺りが「牧」(馬の放牧地)だった頃は、このような場所に馬を囲っていたのでしょうか?

谷戸上流部のため池「大池」は、現在も農業用水として活躍中です。
山を越えた反対側の熊野池は釣り堀が併設され、レジャースポットとしても人気があります。

山田谷戸へ戻って、水車小屋に着きました。

魚、鳥、虫などの動物、樹木や草花などの植物、そして人間も…

全てをやさしく包含していているのが、谷戸なのです。


谷戸を活かした地域環境づくり

現在、寺家ふるさと村周辺でも、複数のNPO団体が環境保護学習、農業体験などのプロジェクトを行っています。

また、農学・生物学だけでなく、都市計画などの学術分野でも、谷戸を活かした地域環境や街づくりを提唱しています。

「環境共生時代における谷戸の活用とグリーンインフラ」
広島大学大学院工学研究科 都市・建築計画学研究室
(横浜市の谷戸をグリーンインフラとして保全する上で、その面積と市街化率から6パターンに分類し、パターンごとの役割を設定し、それに適した保全計画を立てるという内容)
https://www.g-motty.net/menu/media/gs2017/g17b5.pdf

「二次的自然としての水田にみる生物多様性」
(独)農業環境技術研究所 生物多様性研究領域 水田生物多様性リサーチ・プロジェクト
(農林漁業が自然と共生することで二次的自然を作り出し、より豊かな生物多様性を作り出す。といった内容を分かりやすく解説しています)
https://www.sanshiro.ne.jp/activity/09/k01/09-090610-1.pdf


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。