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旅に出て、そして日常に戻るということ(中之島美術館にて)

帰ってきた。東京に。
私も夫も、東京生まれではないのにすっかり東京がホームになっていることにふと気付く。私はしょっちゅう実家が引っ越していたこともあり、あまり「地元」という感覚がないまま大人になったのだけれど、社会人になって自分で選んだ街に住み、家族ができて初めてようやく東京の片隅に「自分の居場所」ができつつあることにちょっと嬉しくなる。

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旅から帰ると毎回数日間はふわふわした気持ちで過ごす。まるで新幹線が移動するときのものすごいスピードから、いつもの日常のゆっくりとしたスピードに慣れるまでに時間がかかるように。

なんとなく、このふわふわした感覚が私はとても好きで、一人暮らしのときはよく一人旅をしていた。社会人になってからというもの、友人たちと旅行しようとすると、有給のスケジュール調整をすることから始まり、なかなか思い立ったときには行くことができなかったからである。

旅に出て、帰って来るといつもの日常が少しだけ、変わって見えてくる、気がする。

旅先では色んな景色に夢中だったな。スマホなんていじる暇もなかったな。見慣れない駅名、見慣れない電車、全ての景色が新鮮で、脳味噌がそれらを処理するのにフルスピードで動いていたな。食事ひとつとっても、何を食べようか、ワクワクしたな。たくさん写真を撮った。前日の夜は二人ともワクワクしてソワソワしてた。歩き疲れてすぐに眠った。一日一日の密度が濃かった。

京都の秋

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大阪に来るのは何度目だろう。数えてみると、恐らく5回目だと思う。初めて訪れたのは学生の時で、ユニバーサルスタジオジャパンに夜行バスで直行した。(夜行バスなんてものに乗ることができるのは若い時の特権だと思う。あの、独特のおきた時の体の疲れや、少しずつ明るくなり始める空や、気だるい感じはもう味わえないと思う。なぜなら体力的にもう乗ることはできないから…)

最近は、大阪に中之島美術館が出来たことをきっかけに、大阪に来る機会があれば必ずこの美術館に行くことにしている。この中之島エリアがすっかりお気に入りになったのだ。学生の頃はいわゆる観光スポットめぐりしかしていなかったけれど、最近はのんびり中之島あたりの建築を眺めたり、公園でバラを眺めながらぼーっとしたり、気になっていた喫茶店に行ってみたり、夜な夜な梅田の本屋さんで本を読んだりしている。

私にとって、旅とアートはセットになっていて、もはや切り離すことができないものになりつつある。
なぜここまで旅先でアートに触れることに惹かれるのか、と言われてもなかなか一言で答えることは難しい。でも、どうしてもなぜか惹かれるものがある。いつもとは違う景色の中で、アートに触れるということ。それは深く、記憶の中に刻み込まれていく。

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1年ぶりに訪れた中之島美術館は賑いを見せていた。今回訪れた「テート美術館展-光-」は、チラシを見て一目で惹かれた展示だった。東京でも展示をしていたのだけれど、運良く大阪での会期とスケジュールがあったので、あえて大阪で見ることにした。このお気に入りの中之島美術館の空間で見てみたかった。

中之島美術館

光。

そういえば、私は日常の中の光を写真に収めることが好きだった。日曜の、人の少ない電車で窓から差し込む光。丸ノ内線が、ふっと地上に出るときの光。新緑の、木々の間から差し込む光。夏の、まばゆいまでの光。秋の柔らかな光。新年の、くっきりと晴れた朝の爽やかな光。

好きだった街の夏の光

そんな、ふと目にしたときに記憶に残った光景が、誰かの絵に描かれているとき「ああ、私はあの美しさを誰かと共有できているんだ」と温かい気持ちになる。

ウイリアム・ローゼンスタインの《母と子》がぽつんと会場に飾られていた。

ウィリアム・ローゼンスタイン《母と子》

柔らかな光が差し込む部屋の中で、母が娘を抱き上げている。ああ、この光の中にまばゆいまでの愛があるんだ、と思って胸が熱くなった。

光は、ただ差し込む物質的な明るい日差しというわけではない。それは、誰かの胸に灯す一筋の光であったり、真っ暗な道をただ一人で進まなければならない気持ちのときに、少しずつ見えてきた出口であったり、そしてその光の源は、誰かを思う気持ちや、誰かを気遣う言葉や、何気ない優しさだったりするのだろう。

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さて。夢は覚めて、いつもの東京だ。またいつもと同じ時間に起き、パソコンを開き、仕事が始まる。変わらない日常。

私もまたこの何気ない日常の中でちいさな、ちいさな光を見つけながらまたゆっくりとしたスピードの日々を、大切に、生きていきたいものだと思う。




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