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「才能がある?それどころか、ありすぎる」(東京都美術館にて)

自分の人生はあと何年くらい残されているのだろうか。

たまにふと考えるけれど、現代の日本に生きる我々は事故とか、病気とか、天災とか、何か自分ではどうしようもないことに巻き込まれない限りはおそらくあと50年くらいは生きることができるのではないか、と当たり前のように明日があることを考えている自分がいる。まあ、なにせ人生100年時代である。とはいえ、何が起きるかは誰にも分からないけれど。

そんなことを考えてしまうのは、ドラマ「ブラッシュアップライフ」(人生を何度もやり直す話である、大変面白い)を見ているせいか、はたまた東京都美術館のエゴン・シーレ展を訪れたからか。

エゴン・シーレは、わずか28歳でこの世を去った鬼才の画家である。
つまり、彼は現在の私の年齢まで生きることは叶わなかったことになる。そして、その短い人生で世界の美術館に展示されるほどの作品をこの世に残したのである。そのことを知ったとき、何とも言うことができない、切ない気持ちになった。

普段、美術館を訪れるときは、画家の人生やその画家がどんな人間だったかということよりも、絵そのものに注目することが多かったのだけれど、今回は「この画家のことを知らなければ」という気持ちで訪れた。

とあるよく晴れた日、上野を訪れた。上野は平日でも人が多い。観光客であろう人やただ散歩に来ているだろう近所の人、仕事中のサラリーマン、学生。

東京藝術大学という日本屈指の藝術大学があるからか、美術館や博物館が多いからか、上野といえば芸術の街、と言われることが多いけれど、個人的にはもっと良い意味で雑多なイメージのある街である。

地方にずっと住んでいた私にとって、一番身近な「東京」は「上野」だった。アート好きな私にとっては、いくつも美術館がある最高の街だったし、とはいえ気取っているわけでもなく、いわゆる下町、という感じの街だ。

寒いけれど良く晴れた日で、寒桜がもう花を咲かせていた。みなが上を見上げ、寒桜の写真を撮っている。コロナ禍になる前は夜桜を見にたくさんの人が上野を訪れていた。お酒を片手に桜に酔いしれた人々で上野公園はあふれかえっていた。ここ数年、あの光景は見ていない。

そんなことを思い出しながら美術館に向かうと、平日だというのに、会場内にはたくさんの人があふれていた。30年ぶりにエゴン・シーレの作品が終結するということもあってか、盛況だ。

展示のはじめの方で、はっと魅入ってしまったのは、「ウィーン分離派」という芸術運動のポスターである。ウィーン分離派は、クリムトらが市内に現代美術専門の美術スペースを提供することを目的に創設されたんだそう。のちに、エゴン・シーレも参加することとなる。

ウィーン分離派のカラーリトグラフの縦長のポスターは様々な種類があり、どれも構図や文字のフォント、配色が面白く、デザイン性に優れていて、驚きを隠せなかった。

ウィーン分離派を創設したというグスタフ・クリムトとエゴン・シーレは深く関わることになる。

エゴン・シーレは16歳のときにその才能が認められて、当時最年少でウィーン美術アカデミーに入学する。しかし、当時の保守的な教育に馴染むことはできずにのちに退学することとなる。

シーレを変えることになったのが、グスタフ・クリムトとの出会いである。ウィーンで開催された総合芸術展「クンストシャウ」でクリムトの作品に出会うことになる。

私がクリムトの作品を始めて見たのは、4年ほど前、この東京都美術館でのことである。金で装飾を施された「黄金様式」とも呼ばれる作品や、全長34メートルにもおよぶ壁画(複製だったけど)を見たときの衝撃を思い出した。

そんなクリムトの影響を受けたと言われている作品が《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》である。少し和の雰囲気も感じさせるこの作品は、クリムトが好んだ正方形のカンヴァスや背景に金や銀を用いていることなどからクリムトの影響が見て取れる。

その装飾性からクリムトが「金のクリムト」と呼ばれていたことに対して、シーレは「銀のクリムト」とも呼ばれたんだそう。こんな会話も残っている。

シーレ「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある?それどころかありすぎる」

クリムトがシーレの才能を高く評価していたことがわかる会話である。
シーレはクリムトの画風に大いに影響を受け、クリムトは長らくシーレの後ろ盾となった。

今回の展示では、そんなクリムトの《シェーンブルン庭園風景》を見ることができる。この作品は、クリムトがウィーンの街を描いた唯一の風景画であり、クリムトにしては珍しく通行人が描かれている。荘厳で華やかなクリムトのイメージとはまた違った、緑豊かで穏やかな雰囲気の風景画である。

展示作品の中でも強烈なインパクトがあったのは、《自分を見つめる人II(死と男)》である。生と死をテーマとしたこの作品は、画家自身と近づいてくる自分の運命と対峙している。ぞっとするような不気味さがある作品だが、画家が21歳という年齢ながら深く自分自身と向き合ってきたことが伝わる作品である。

シーレはウィーン美術アカデミーを退学したのち、新たな芸術集団を作っている。保守的な風潮を打ち破るべく、独自の表現主義的な画風をしていったが、社会の理解を得ることは難しく逮捕されたこともあった。

そんな苦難や戦争への招集があったにも関わらず、創作活動を続けたシーレは国際的な評価が高まっていく。




展示の最後は、シーレが亡くなったときの作品である。多くの作品が購入されるなど、成功を収めたシーレだったが、当時流行っていたスペイン風邪により妻が亡くなり、その3日後に28歳の若さでシーレも亡くなった。

「戦争が終わったのだから、僕は行かなければならない。僕の絵は、世界中の美術館に展示されるだどう。」

エゴン・シーレ



シーレのこの言葉通り、シーレの絵はレオポルド美術館を筆頭に世界中で今も多くの人々に見られているのである。

才能に満ち溢れ、社会のあり方や芸術のあり方と常に対峙しながらも、自分なりの芸術、創作を諦めずに貫き通した画家。

そんなエゴン・シーレ展は4/9まで東京都美術館にて開催中。

※写真は全て著者が撮影可能エリアにて撮影

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