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私はいつからここにいるんだろう。

自分が誰なのか、どうしてここに居るのか、何のためにいるのか、何一つ覚えていることがない。

だからといってここから離れる気分にもならないので、時間が過ぎていくのをじっと耐えている。

“ここ”には薄汚れた鏡がひとつある。
そこにうつる「私」の顔は、いつもどんより重苦しい。
一重でガサガサした肌に、丸く潰れた鼻が目立つ。唯一褒める点をあげるとしたらサラサラの黒髪だろうか。

ここにいると、たまに人が訪ねてくる。

彼らは決まって3回ノックをする。

コン、コン、コン

これにも何か意味があるのだろうか。
ただ、ノックされた扉を開いて、招き入れようとしても、いつもそこにはただ空間が広がっている。
不思議だが、誰もいないのだ。

彼らは毎回ノックのあとに「ハナコさんいらっしゃいますか?」と質問してくる。

私の名前はハナコというんだろうか。

彼らの声は男の時もあれば、女の時もある。

きちんと返事をしているのに居なくなるなんて、嫌がらせにも程がある。

そんなくだらないことを考えて、時間はグルグルグルグル回っていく。

もはや時間なんて概念自体ここには無いのかもしれないが、
もう何年も、何十年も、私はここにいるんじゃないだろうか。

コン、コン、コン

ハナコさんいらっしゃいますか?

今日の声は低く、荒々しい。あぁ、男の日か。
どうせ扉を開いてもそこには誰もいないんだ。

もう何度繰り返したかわからないその行為に、今日は無視してやろうという気分になった。きっとその声の主も諦めてどこかへ行くだろう。

コン、コン、コン

ハナコさんいらっしゃいますか?

先程の声が、一段と大きくなって響く。
返事をしていないんだからさっさと帰ればいいのに。


ドン、ドン、ドン

ハナコさん、いらっしゃいますか

苛立ちを隠せない様子で扉を拳で殴り、声の主が叫ぶ。
ドン、ドン、ドン、扉を叩く度に空気がビリビリと揺れるので、肌がピリピリと痛い。

だんだんと胸にどろっとした不快感がこみ上げてきた。

懐かしい。

私は、昔も、
こんなふうに大きな音を立てながら誰かに名前を呼ばれた気がする。

「ハナコ、お前なんか〇〇〇??〇!〇」

ハナコ、ハナコ、ハナコ・・・

そうだ。私は華に子と書いて華子だった。

ひらひらと舞う花のように可憐に美しく育って欲しいと、祖母が名付けてくれた名だ。

でも、私はそんな女の子とは真反対だった。

痩せこけて、みすぼらしく、背中がお婆さんように曲がった子供だった。


あんなに思い出せなかったのに、今では何もかも鮮明に浮かび上がってくる。恐怖も、屈辱も、悲しみも、すべて。

男の目はいつも怒りに充ちて吊り上がり、幹のように太い腕で物に当たり散らしていた。

来る日も来る日も、私は殴られていた。物心ついた頃からそれが当たり前だった。

最初はもしかしたら自分が悪いことをしたのかもしれないと焦った。だから泣いて謝り、好きになってもらう努力をした。

何故か機嫌がいい日もあって、その時は幸せでいっぱいだった。

だけど男は、私が息をしているだけでやはり気に食わないようだった。


ある日、いつものように私は殴られていた。
ただ、その日の男はいつもと明らかに様子が違った。顔は真っ赤で、その目には何も映っていなかった。

殺される

本能で感じ取った身体はぶるっと震え上がった。
そこから必死になってその男の腕の中から抜け出し、いつも通う学校に向かって走り出した。私が知っている世界は、家と学校だけだった。
じめっと暑い夏の夜。喉が乾いてひっつきそうだった。


男はどこまでもどこまでも背後から追いかけてきた。

私は必死になって走り、走り、走り、

三階にあった女子トイレに逃げ込んだ。学校の中での安全地帯は、そこしか知らなかった。

私は泣きながら謝った。
ごめんなさい。ごめんなさいお父さん。ごめんなさい。産まれてきてごめんなさい。生きていてごめんなさい。ごめんなさい。

そこで記憶の糸はぷつりと消えた。


そうか、ここは私が最後に逃げ込んだ場所。

だから私はここにいるのか。

思い出した所で、何が変わるわけでも、ジョウブツできるわけでもないらしい。

こんな思い出なら、要らなかった。
嘘でもいいから、愛情を注がれ、美しく育った華子にしてくれればよかったのに。


コン、コン、コン

また今日も、誰かが扉を3回、ノックする。

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