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子山羊達のお留守番

母山羊はついに街へ買い出しに行かなければならなくなった。
7匹もいる子山羊達を連れての移動は危険だし、かといって留守番をさせることも躊躇われる。
長く悩んだが、ついに重い腰を上げるしかなくなってしまったのだ。

この辺りには最近狼が出るともっぱら噂になっており、既に森の入り口辺りのあの家は襲撃に遭い、可哀想な末の子供と年老いた足の悪い母親を取られてしまって嘆き悲しんでいた。
恐ろしい侵入者は巧妙な手口でドアを開けさせ、弱いものから躊躇なく命を掠め取っていくのだ。
このような鬼畜の行いは、許せない。
しかしこの非力な雌山羊は、脅威である狼を退治する力など持ち合わせてはいないのだ。
まともにやり合えば、一瞬で食い殺されてしまうのがオチだ。
その為に、出来るだけ遠出を避けて、あまり子供達を家から離れたところへ連れ出さないようにしてやり過ごすしかなかったのだった。

あぁ、明日は我が身と思えば、子供達を置いておいそれと出掛けることなどできまい。
その為に蓄えは十分用意をして、そう頻繁に出掛けなくても良いようにしてきた。
しかしながら、そろそろ蓄えも底をついている。
いくら心配だと言ったところで、子が腹を空かせることもあまりにも可哀想だ。
食べさせなければ、愛らしいこの子達は飢えて死んでしまうのだから。

不安をどうしても拭えないながらも母山羊は決意し、街へ買い出しに行くことにした。

「いいかい、母さんの言うことをよくお聞き。
最近この辺りでは狼が出るそうなのよ。
狼というのは、黒くて大きな足に恐ろしい嗄れた声で、
私たちを食べてしまう怪物なの。
出会ってしまったら、途端に一飲みにされてしまうわ。
母さんがいない間、誰かが来ても決してドアの鍵を開けてはならないよ。
それはきっと、恐ろしい狼だから」

そのように子山羊達に言って聞かせ、母山羊は街へと買い出しに向かった。
連れて行くよりは、壁がある家の中の方が安全だろうという判断のうえの事だった。
子供達は「わかった」と返事をしたが、この子らは皆、素直な良い子達ばかりだ。
この素晴らしい美点である素直さが災いして、狼を引き入れてしまうことも考えられなくはない。
なるべく早く、帰らなければならない。
母山羊はその細く白い足で、街への道を駆けたのだった。

母が街へと発った後、子山羊達は家の中で元気に遊んでいた。
子山羊達の中で一番大きな一番上の兄山羊は、最近角が生えかけてきた。これは彼の自慢の角だ。
母山羊がいない間は弟妹達を束ねなければと責任感を持ち、意気込んでいる。
皆の安全は、自分自身にかかっていると心に刻み。
この兄は歳の割には慎重な性格でもあったので、何度も何度も、それは何度も弟妹達にこう言って聞かせた。

「母さんは狼のことを『黒くて大きな足に恐ろしい嗄れ声』だと言ったよ。
母さんは白くて細い足に、歌うように高いとても綺麗な声だ。
母さんでなければドアを開けてはいけない。
絶対に間違うんじゃないぞ」

母から聞いた狼の特徴と母の特徴を強調して、何度も何度も聞かせた。
教育とは刷り込みだ。
兄のしたことは一見妥当なように見える。
しかし、兄を含めてまだ小さな子供達の中に潜む、愛らしくも危うい一つの特徴を、同じくまだまだ子供である兄は理解しきれていなかった。
子供は秘匿すべき情報の取り扱いなど、区別出来ておらず理解もしていないということ。

ついでに、「間違うな」などと言えば、大抵思い切り間違ってしまうものだ。
このような言い方をすると、素直な子供達はむしろ「間違う」ことに引っ張られてしまうのだ。
このような刷り込みは危険で、逆効果を得ることがしばしばある。

しばらくの間、子山羊達は家の中で思い切り遊んでいた。
山羊というものはすごい動物で、垂直に近いような傾斜の崖を登り下ることが出来るし、そのような遊びが大好きだ。
家の壁を作る丸太の隙間に足をチョイと引っ掛けて、リズム良く登ったり降りたり。

「見て!僕、食器棚に手が届くよ!」
「私も!あっ失敗しちゃった!もう一回!」
「やった!この高い小窓に足が掛けられたよ!僕が一番!」

子供だけの時間というのは中々に新鮮で、思い切り賑やかに遊び、家の中は笑いに溢れた。
兄弟が多いというのは良いことだ。
子山羊達はしばしばこのように共に遊び、互いに競って自らの成長を感じていた。
昨日より今日の方が出来る。
日に日に高まる能力への自信を強めていく子供達は、心身共に充実して活気に溢れていた。

しかし、この賑やかなことは周囲に存在を知らせてしまうことでもあるから、近くに敵が潜んでいるような今には適切ではなかっただろう。

突然、ドアをノックする音が聞こえた。

トントン トントン

「誰だろう?」
「母さんかな?」
「狼かもしれないよ」
「わからないな、聞いてみよう」

本来、こんな時は無視に限る。
母親ならば子供達に分かりやすいように、小窓に回り込み姿を見せるなりなんなりするだろう。
山羊なのだから、母もまた子供達より壁登りが上手なのだ。
危険を説いておきながら、顔が見えない場所からのみ働きかけるなんてことはしないのではないか。
しかし、子山羊達はまだ小さいので、そんな親の行動を読むことは難しかった。
その為に悪手を打ってしまうことになる。

「どちらさまでしょうか?!」
実に元気にドアの向こうに語りかけたのだった。
これは、良くなかった。
応答してしまうというのは、付け入る隙があると言っているのとほぼ同じなのだ。
しかし、「どんな時も礼儀正しく」と躾けられた子山羊たちは、無視を決め込むという選択肢を持ってはいなかった。

「今戻ったよ。ドアを開けてくれ」
なんということ。
このような声は聞いたことがない。
地鳴りのような、腹の底に響くみたいな嗄れた声。
一声聞いた瞬間に、背筋がゾッとするのを感じた。
あまりの恐ろしさに黙っていると、時折小さく「ハァー」っと聞きなれない不穏な吐息が聞こえる。
ざわざわと胸騒ぎがした。
間違いない。
これは…狼だ!

「母さんはそんな怖い声なんかじゃないぞ!」
「母さんはもっと高くて綺麗な声だ!」
「そうだそうだ!お歌のようなのよ!」
「怖いー!」
「母さんはもっと優しい話し方だぞ!」
「狼だな!?」
「どこかへ行けー!」

子山羊達は堰を切ったように一斉に、口々に嗄れ声の主を勇ましく非難する。

あぁ、素直な子供達。
子供の勇気というのは、本当に危険な時には引っ込めるように教えなければならない。
彼らの中では自らはヒーローであったとしても、小さく非力な存在であることは明白なのだ。
数が多ければ多いほど、気は大きくなるもの。
そして、気が大きくなれば余計なことを言ってしまう。

狼というものはとても耳が良い。
それに、頭も良くて狡猾だ。
このような相手を下手に突いてしまうことは避けるべきだ。
子山羊達は敵を知らなすぎたのだ。
だけど、それも仕方がないことだった。
これまでに狼に出会うことなんてあれば、こうして7匹の子山羊全員が揃っていることなんてなかっただろう。
会ったこともない敵を知るなんて、幼い子供達に出来ようものか。
生まれてから、そんなに長い時を生きたわけでもないのだ。

結局この時のやり取りは、家の中に何匹の子山羊が居て、母親の声や話し方の特徴はどのようで、おそらく保護者は母親のみ、
そして今、その母親は不在であり、子供しか居ないことを伝えてしまったのと同義だったのだ。

ほんの数分の後、どうやら狼と思わしきものは去ったようだった。
子山羊達は「狼を追い返した」という達成感を感じて、互いを労い賑わっていた。
「僕たちは強い!一緒に居ればなんだってできるさ!
狼なんて、ちっとも怖くないんだ!」

自分達の言葉により狼が去ったと思っていた。
草を食べる小柄な動物の子供にとって、一番の攻撃とは暴力ではない。
「あっちへ行け」と仲間外れにすることである。
群れで生活する彼らにとって、孤独はそのままま『死』であるので、仲間外れ自体がとても怖いことなのだと教わっていた。
しかし、なぜ孤独が死に繋がるのかということを理解していはいなかったのだ。
それは今「あっちへ行け」と言い放ってやった相手に出会った時にどうなるのか…ということなのだけども。
とにかく子山羊達は束の間、自分達の力に酔いしれたのだ。

しかし、またもやドアが叩かれた。

トントン トントン

そして歌うように高くて綺麗な、優しい声が語りかけてきた。
「ただいま、母さんだよ。
遅くなってしまってごめんね。
お腹が空いてしまったろうね。
すぐにご飯にするから、ドアを開けておくれ」

末っ子の子山羊は既に母が恋しくなっていた頃だった。
普段賢い子ではあるものの、やはり乳飲子に毛が生えたようなものである幼い子には、母の不在が寂しくて仕方がない。

「わぁ、母さんが帰ってきた!今開けてあげるね!」
思わず歓喜の声を上げ、ピョンッと飛び上がった。

しかし、姉さん山羊が末っ子を制した。
「待って!ドアの隙間から足を見てみましょう。
母さんは白くて細い足で、狼は黒くて大きな足で…あっ!!」
ドアの隙間から見える足は黒く、そしてとても大きいようだった。

「騙されないぞ!」
「狼め!」
「母さんの足は白いんだ!」
「それに細いんだぞ!」
「お前は母さんじゃない!」
「話し方はそっくりだけど、足が違う!」
「あっちへ行けー!」

子山羊達は皆それぞれ程度はあるものの、母山羊が帰ることを心待ちにしていたのだ。
子供にとって危機が迫っている時に親の庇護を受けられない状態というのは、非常に不安を煽る。
その為に母を求める気持ちを内心、より強めてしまう。
自覚があったかどうかは子山羊それぞれだが、皆一時とはいえ期待を抱いた。
それが裏切られたのだから、つい饒舌になってしまうのも仕方がない。
それこそが命取りなのだとしても、止められはしない。
命取りであることもまだ理解していないのだ。
このような時には大人しく黙っているべきだが、これまで平和に生き延びてきたたこともあって、そうすべきだと教えられる機会はかなり乏しかった。
一番年上の兄山羊ですら、そのことを知らなかったのだ。

狼はそれ以上、何も言わなかった。
しかし突然。

ガンッ!!

と、強くドアが蹴られる音がした。
家が強い衝撃でミシミシと微かに揺れるのを見るのは、子山羊達にとって初めてだ。
また、ドア越しだとしてもこのような暴力を目の当たりにする事も。

子山羊達はこの瞬間ビクリッと体が竦み、皆が押し黙ってしまった。
跳ね上がる自らの心臓の音が聴こえる。

更には、ドアを外から強くガリガリと引っ掻くような不穏な音が聴こえて家の中に響いた。

「あいつ、家の中に、入ろうとしている…」

ドアの向こうから恐ろしい吐息が聴こえる。
肉を食う者の、獲物を狙う獣の息。
血の匂いというのを嗅いだことはほぼないが、
まるで血生臭い臭いがしてくるようで、子山羊達は眩暈がして吐きそうな気分になった。
自分達とは全く違う、捕食者の気配。
捕食者と被捕食者との間の、歴然とした力の差に、なす術もなく飲み込まれていくだろうことを想像するのは容易いことだった。

しかし、暫くするとドアの向こうの狼は諦めたように、またどこかへ去ったようだ。

子山羊達はまたも狼を追い返した。
が、先程とは違い、狼の気配がとんと消えてからも皆不安で仕方なくなっていた。
あのドアを蹴る音や、ガリガリと引っ掻く音が耳に付いて離れない。
あのような強い力で、きっと鋭かろう爪で襲い掛かられる想像ばかりをしてしまう。

怖くて怖くて仕方がない。
母の帰りが、こんなにも待ち遠しい。
またあの執拗な狼が来るかもしれない。
いや、きっと来るんだ。
そして僕らを一飲みに…

かあさん、助けて…
早く帰ってきて…

皆恐怖で青ざめ、背筋に寒気が走ってゾクゾクとし、全身の毛が逆立つようだった。
もし、誤ってドアを開けてしまえば、瞬時に一飲みにして食べられてしまうだろう。
最初は意気揚々と狼を非難していた子山羊達だったが、あの狼にはそんな細やかな抗議は通用しないだろうことを確信していた。
あれは自分達とは別の生き物、本当の怪物なのだ。

子山羊達は初めて、自らの非力さを悟った。
逃げ隠れる以外にはどうしようもない。
誰からともなく、年少の子らがシクシクと泣き出す。
年長の兄さん山羊、姉さん山羊は弟妹達を元気づけて抱きしめ、震える手で背中を摩ってやる。
年長の子山羊らも、とても恐ろしく、心細く、泣き出したい気持ちなのだけど、
可哀想な幼い弟妹達を慰めなければならない。
今この子達には自分達しか寄るべがないのだ。
お兄ちゃんなのだから、お姉ちゃんなのだから、あからさまに怯えた姿を見せてはならない。
そう考え、溢れそうな涙をグッと堪えていた。

子山羊達は、母が発った直後とは違って、とてもとても寒く感じていた。
暖炉で火がパチパチと燃えているのだから、暖かいはずであるのに、真冬の夜のように寒い。
子山羊達は互いに冷えた体を温め合うようにして、身を寄せ合って時を過ごす。
一分一秒がやけに長い。
賑やかに駆け回っていたのが嘘のように今は鎮まり返っており、
暖炉のパチパチ燃える音と、大きな置き時計のカチカチと針が進む音だけが家の中に響いている。

その時、時計の音がボーンッと鳴った。
まだ、母が街から帰ってくるまでは遠いであろう事を知らせるような、悲しい音色だった。

子山羊達はヒリつくような緊張を感じながら、
願わくば次にドアの隙間に現れるだろう足が、白く細い、恋しい母のものである事を祈ってやまないのであった。

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息子の寝物語に7匹の子山羊の話をしたらやたらと怖がられて布団にくるまってしまいました。
狼が何で声を変えたとか、足のファンデーションはどうしたとかをあまり覚えていなかったので、こんな感じに山羊目線のみで話してたんですね。
よく知っている話だけど狼の動きが見えないと怖かったみたいです。
それでちょっと怖い怖いの話にしてみたくなりまして。

確かにこの話ってゲームのSIRENみたいな捕まったら最後な感があるし、武器を持っていなくて明らかにプレイヤーである山羊が弱すぎるんですよね。
武装した子山羊ならあまり怖くないんだろうな。
バールのようなものとか猟銃とか。

続きます多分

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