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歩く人

認知症の人は、よく歩く。
どうしてそんなに歩くのか。介護職だったとき、その後ろ姿を追いながらよく考えた。認知症介護を語るとき、この「歩く」ということを抜きにすることは難しい。介護の世界ではこの「歩く」には別の言葉が使われる。
「徘徊」という言葉が使われる。「歩く」というさわやかな言葉が、突然かなしい言葉に変わる。

わたしが以前働いていた施設では、10分刻みでスケジュールが決まっていて、一日の中からあらゆる無駄な時間が排除されていた。その中でも、付き添いが必要になる散歩は、人手も時間も余裕があるときじゃないといけない。でも、入居している人たちは、歩こうとする。どんなに今日は行けないのだと話しても、どんなに別のことで気をそらそうとしても、気付けばくつを持って玄関に立っている。でも外には行けない。玄関にはなぜか鍵がかかっている。

知人に軽度の認知症を発症してからも、一人暮らしを続けている人がいる。
その人は、認知症を発症してもその人の魅力はいっさい失われないことを生きて証明しているような人だ。その人が少しでも長くこの街に暮らし続けられるように、暗黙のネットワークが地下水脈のように築かれていることを、わたしは知っている。その人は歩く野の花のような人で、ほんとうによく歩く。さわやかに歩く。きっと認知症になる前からよく歩いていたのだと思うが、え、こんなところまで?という場所でその人を見かけることもある。

その人は自宅から自由に外に出ることができる。どこへでも行くことができる。たまにすごく日焼けしているときがある。どれくらい歩いたんだろうか、帰り道がわからなったり、危険なことがあったりするんじゃないかと心配になる。それでも、次に会ったときにその人の元気な顔をみると安心する。

そのことを食堂である人に話した。
「〇〇さん、きのうもあの坂で見かけたよ。朝も夕方も見かけたよ。でも、徘徊っていうのじゃないんだよね、なんか違うんだよね」
そういって言葉を探していると、相手が代わりにつぶやいた。
「巡礼、じゃない?」

人は心の中に一本の道を見ているのかもしれない。
そこへ向かわずにはいられない、歩かずにはいられない。
きっと、魂は帰る場所を知っているのだと思う。
病や喪失によって様々なものが削がれ、存在が純化されてゆく中で、人は知識や理性を超えた不思議な力に導かれてゆくのではないだろうか。
渡り鳥たちが何かに導かれて旅をするように。

今日は雨だけれど、
晴れたら少し歩いてみようか。
何か新しい発見があるかもしれない。
時に迷いながらであったとしても、
どこまでも歩くことがゆるされる、そんな世界であってほしい。

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