「女の子ラプソディー」いくえみ綾

しばらくは2021年〜2022年にかけて少女まんが館を訪問した際に読んだ漫画の感想を書いていきます。

2021年6月に、初めて少女まんが館へ行ったときに読んだ漫画の感想!

🌷「女の子ラプソディー」いくえみ綾

書誌情報:いくえみ綾「女の子ラプソディー」(1982、マーガレットコミックス、集英社)
収録作品:「女の子ラプソディー」、「キンピカエンジェル」、「はすきいサマー」、「マジシャンズLOVER」


いくえみ綾がもともと好きなので初期の漫画読みたいなーと思って読んだ一冊。メンタリティが全然変わっておらず、俺たちのいくえみ綾だ…👀という感じの読み応えでした。


「女の子ラプソディー」

初恋&初彼の話。
めちゃくちゃ驚いたのは、、好きな人との関係はスムーズに進むのに
好きな人に近づこうとすると好きな人の元カノから八つ当たりされたり、その元カノに想いを寄せる同級生から『元カノの気持ちも分かってやれよ』みたいな横槍入れられたり、『みんなから自分の恋を反対されているみたい…』と思い悩むところ。
えっ恋の障害、そこなの???と思いました。

みんなが
あたしの恋に
反対してるみたいだ
39ページ

初めての恋、初めて交際するかもしれない相手、そのときめきにケチがつくのです。

好きな人の元カノはけっこう我儘でやな奴で周りからの支持は低いのですが、主人公・知沙子(ちさこ)は彰(あきら・主人公の好きな人)を知沙子に取られそうになる…と動揺したときの元カノの涙の表情が忘れられませんでした。
知沙子は悪くないと友人たちも彰も言ってくれるけれども、実際自分の中に元カノを出し抜く気持ちが無かったと言えるだろうか…彰を好きだからこそ元カノのつらい気持ち、自分にはわかるのに…と自問自答します。
挙句の果てに自分の味方をして『元カノなんかに負けるな!』と励ましてくれる友人たちに向かって、どうして元カノの気持ち分かろうとしないの、こんな思いするくらいなら自分はもう恋なんてしなくていい!と突っぱねてしまいます。

じぶんのことなのに あんたたちにけしかけられて うしろからどつかれて そんなの…へんだ… そっ…それにさ あんたら同じ女のコなのに どうしてわかろうとしないの   ―あの人だってつらいんだ― 恋人なんかいらない…… ムリしてつくりたかない…!
42ページ

セリフだけ引用するといまいち言ってることがよく分からなくなってしまいましたが、、つまり知沙子はこれまで男の子を好きになったこともなく、楽しそうに先に恋愛の世界に入っている友人たちに後押しされる形で、偶然知り合った素敵な先輩・彰に対して行動を起こしてきました。
彰を好きな気持ちは本物なのですが、自分の恋愛によって傷つく周りの人たちを見ていると自分はそこまでして本当に恋愛をしたいのだろうか…と、これまで恋愛を必要としていなかったからこそ、この根源的な悩みにぶち当たってしまうのです。
恋愛が勝ち負けのある世界ならば、自分はそこから降りねばならない…と。

達観しているようで逆に偽善というか、ねんねの考えでもあるような気がしてしまいましたが、本来はこういう恋愛感情がいちばん平和なのかもしれないですよね…
たぶん要するに知沙子は恋愛の局面においてエゴを発揮できないのです。でもほかの一般的な人たちはエゴを発揮して恋愛と社交を切り抜けていくのです。恋愛の世界に足を踏み入れている人たちにはもれなくエゴとの闘いもセットで付いてきて、それは友達と気軽に共有できるような感情じゃなくひとり孤独に己と向き合って闘わなくてはならないものです。
元カノは彰をすごく好きなようでいて本当は自分が彰に見放されたのを受け入れたくないというエゴで苦しんでいる。元カノに思いを寄せる近藤くん(知沙子の同級生)も元カノさんのことを大切に思うあまり元カノさんと自分の思いを優先してしまうパターンのエゴで、知沙子にあそこまでしてあたるのは筋違いだとちょっと思います。

エゴ未満の恋愛感情とエゴが成す社交的恋愛の対比はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の最初の方でいい感じに書かれていると自分は思うのですが「ライ麦」の示す対比が『エゴ未満→エゴを乗りこなし大人になる』のボーダーで分割された世界なのに対し、「女の子ラプソディー」は『エゴを知らない状態→エゴを知る→エゴを乗り越える』を各々の速度で目指している世界な感じがするので両者はちょっと規格が異なるように思います。。

エゴが原因ならこの「女の子ラプソディー」はどうやって着地するんだよ、って気になっちゃいますが結論から言うと知沙子の周囲の人物が心理的成長を遂げます。つまりエゴを克服します。
元カノさんは彰との関係の終わりを受け入れるし、近藤くんは無力な自分に苛立っていないで元カノさんに対して自分が出来ることをしていこうと行動を起こします。

そして終盤、これまで主張が少なくて、そもそもなぜ知沙子を好きだとか言い出したのかも読者からしたらよくわからなかった謎のキャラ、彰ですが、彼の考えが明らかになっていきます。
元カノとまだ交際していたころ、バンドの追っかけなどをして遊びがちだった元カノに彰が嫉妬し腹を立てて喧嘩してしまったことにより、二人は別れたのでした。それを反省していた彰は、次はこういう恋愛をしてはいけない、同じような愛し方をしてはいけない…と考えるようになり、そんな折、知り合った知沙子と愛を育んでいこうと思って知沙子に向き合っていたのです。
彰はかつてエゴに苦しめられ、すでに乗り越えていたのでした。


やっぱりいくえみ綾だなあ~と思うのは66ページ。

でもあん時は結局それが原因で……

次……3時間めだっけ
え…うん

もうすぐ
くるんだ
66ページ

↑の元カノと彰のやりとりの場面です。
「強引に気持ちをぶつけたって、何にもならないんだ」とか「自分は知沙子を好きでいることに決めたんだ」とか、思いの中身が何一つセリフになっていないにもかかわらず、「もうすぐくるんだ」で伝える、、、いくえみ綾!!!

いくえみ漫画を読んでてたのしいのはこういうところだなあと思います。

つらつらとエゴ話を書いておいてなんですが、これはこういう話で合っているのでしょうか…?なんかこれすごく難しい複雑な心理なんじゃないかなあ。よほど精神的に成熟していないと高校生でここまでこんなふうに悩まないんじゃないかな。。好きな人できた!しかもなんか付き合ってくれるらしい!うれしい!実際はその程度じゃないかなーと思うんですけど……
『この心理ってなんだろう?』と掘り下げると難しくなっちゃうけど、表面的には共感できる心情とストーリーとして何気なく読んで楽しめる難易度になっているのはすごいなあと思います。。

いくえみ綾の「潔く柔く」も終盤で明らかになるカンナの心理を理解するまでに数年時間がかかったんですよね…自分は…。理解が合っているのかもよくわからないのですが。。。

今更ですがそもそもラプソディーってなんだっけと思って調べたらそうか狂詩曲か~ うーん、なるほど。物語性に富んでいる感じがします。


「キンピカエンジェル」

バンドマンの高校生・貴昭(たかあき)と、子供向けピアノ教室をやっていて貴昭にピアノを教えることになった女子高生・七聖(ななせ)のお話。
貴昭って高校生なのかなぁ、でも音楽室のピアノ使ってたし、学園祭も「東高祭」だったからきっと高校生なはず。

貴昭はライブのときはメイクをするんです。
目張りをいれるような化粧をする80年代のバンドって自分はカルチャー・クラブしか分からない。。。「貴昭=カルチャー・クラブ」でもう連想がこびりついてしまって、結局彼がどんな音楽をやっているのか自分には分かりませんでした……
中学生くらいの時に洋楽のコンピレーションアルバムをお小遣いで買って「カーマは気まぐれ」をそれで知ったんですが、すごいさわやかな曲調だから風を切ってどこまでも続く道をドライブするような風景を心に浮かべて聴いていたんですけど、20代になってからカルチャー・クラブのミュージックビデオをテレビで観て『こういう扮装であの歌を歌っていたのか!!』ととてもびっくりした思い出があります。

貴昭が家で聴いている曲はソウルなんですけど・・
オーティス・レディングいい歌声ですね~

サム&デイヴのこの動画のジャケットは国内盤のレコードかな?と思うんですが。輸入盤とかCD?だと別のジャケットが出てきちゃうんですが、このジャケットがいちばん良いな~

七聖の思い人はウィーンに留学中なんですけど、当時だって手紙は送れるんだから七聖に「いつか帰ってくるよ」とか言っとくんならもっと何かすることあるんじゃないの?と思います。

七聖の忘れられない思い人・クラシック野郎にちょっとしたコンプレックスを抱きながらも貴昭は 自分はこうだ、これが好きなんだ! とあえて自分の好きな音楽やファッションで身を固めるところもなんだかよかったです。
七聖もクラシック野郎(すみません)の奏でる音楽がだんたん心から薄れてきて、貴昭のバンドの音楽が自分の心を染めるようになっていくのを感じます。。
よく見たら貴昭がばっちり決めてきた日に七聖もバンギャみたいなかわいい恰好をしてやって来ていて、それで心が通じ合ってるのをお互いに感じたんだね…と後から分かりました。


「はすきいサマー」

じつは女ま館行った日に読めたのは「キンピカエンジェル」までで、ここから先はこの感想を書くのに電子版で読みなおした際に読みました。。

最初はなんとも思ってないんだけどお互いを好きになる男女の高校生の話。

知り合ったときには男の子側に彼女がいるんですよね。
女の子も別に彼を最初は好きなわけではなかったので、特に気にしないし、ふたりの仲を邪魔しないようにしなきゃ…と遠慮するくらいなのですが、彼の良いところを知ったり、成り行きで一緒に過ごしてたのしい時を過ごすうちに この関係性に次第にあこがれていきます。

中ほどの夢の場面が とっっても切なく感じちゃいました……

主人公が子供っぽい自分を自覚しても、でもそれが自分だし…と受け入れるようすに そうだよね…と思いました。
十代のころはそのままの自分を受け入れることなんて何でもないことのように思えていました(し、ほかに選択肢も無いように思っていました)が、大人になって思うのは、迷ったり悩んだりしたときに力になるのはこういった子供にも備わっているような素直さとか勇気とか、色の三原色みたいにシンプルな力なんですよね。
そして読者の少女たちは自分たちの素直さをまだよく分かっていないほど若くて…だから、こんなこと当たり前だ、と読みとばしちゃったり、もっと高尚で複雑な感情に憧れがちだし、自分もそうだったなと思います。でもやっぱり少女漫画はいつまでも、年齢の若い人たちにこういった感情を描いて伝えるものであってほしいです。それがどんな意味をもっていたか分かるのは、それぞれの人生のタイミングでいいので。

序盤のふたりでご飯を食べる場面は、なんとなく「潔く柔く」のカンナと禄がおじいちゃんフレンチのお店でご飯を食べた場面を思い出しました。

「キンピカエンジェル」「はすきいサマー」の、自分が自分で居ることを選ぶ展開はとっても好きだなと思いました…!


「マジシャンズLOVER」

これ、表情アップの大コマの描き方がすごくよかったなーー
ほっこりするかわいい話でした。

でも読み終えてみてやっぱり、素人はひとに催眠術をかけようとしてはいけないんじゃないかな…と思いました。

エドガー・アラン・ポーの短篇「ヴァルドマル氏の病症の真相」(国書刊行会「新編バベルの図書館1 アメリカ編」もしくは創元推理文庫「ポオ小説全集〈4〉」収録)で、瀕死の人間に催眠術をかけてみたい!と試みる話が書かれているのですが、自分はこれを読んで『瀕死の人に催眠術かけちゃだめだな~』と身にしみて思いました。。興味のある方は読んでみてください。



5000字になってしまいました。
やっぱり「女の子ラプソディー」の話が長すぎました。すみません。

このいくえみ綾初期の4篇読んでみて、恋愛物語のなかで主人公を能動的に動かすのって大変だな…とあらためて思いました。周りの人物だってそれぞれに感情を持った人間だし、そんな状況のなか主人公の恋「だけ」がうまくいく…なんてことふつうはありえないよなあと考えさせられました。
ハッピーエンドで終わるために主人公にちょっと優しい世界になっている感は否めないような気もします。
Wikipediaには1990年の作品「10年も20年も」が転機になった、と書いてあるので今度読んでみたいなと思います。

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