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横櫛のこと


子供の頃、家に一枚の絵が飾られていました。
二階の部屋の、北向きの窓のそばにあったそれは、簡素な額に縁どられたA4サイズほどの複製画で、小さな男の子と子羊が描かれていました。
こちらに視線をくれた彼のまなざしや、その巻き毛とか頬の艶やかさ、羊に触れる指のふくよかさ、全体的な色味もやわらかく、優しげで穏やかな印象でした。
随分と長い間それは飾ってあったのですが、いったい誰が描いたものなのかまるでわかりません。
家族に聞いても、「えー 何だっけ?」と何も覚えておらず。飾られていた理由も「特に深い意味もなく」。
そして。いつのまにか、なくなってしまったのでした。

おそらく宗教画なんだろうなあ。ルーベンスとか、あの辺り?

中学生になった私は、何となくそう考え、学校の図書室で美術書のページを捲っていくうち、ついに見つけ出しました。
小さな子供の頃から、毎日ずっと眺めて暮らしていたその絵は、スペインの画家ムリーリョの「善き牧者としての幼児キリスト」という宗教画でした。
それを父に話してみたところ、「そういえば」と思い出して、いろいろ聞かせてくれました。
私が生まれる前、近所の保育園に時々牧師様がいらしていたこと。
クリスチャンでもない父と母は何となく面白がって(?)その説教を聞きに行っていたこと。
その際に何枚かの宗教画をもらってきたこと、などなど。
今思えば、本当に意味もなく(特に宗教的な意味合いなんかは、まったく皆無で)、ただ単純に母のお気に入りだった。
私が中学に上がる前、母が亡くなった際にそっとそれを片付けてしまった。というのが、事の真相なのだろうと。

ひとめ見て印象深く、けれど誰の作品かわからない。
そんな絵とは、この後何枚も出くわしましたが、割と早くに判明できるものばかりでした。
例えば狩野芳崖の「悲母観音」、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」、田中一村の「アダンの海辺」など。
ですが、長い間、正体不明で悩ませた絵があります。「横櫛」でした。


そもそも名前が違っている

おそらく最初に知ったのは、12チャンネル(笑)で今も放映している鑑定の番組の中で、個人所有の、子供を宿した女性を描いた絵(おそらく「白百合の女」)が紹介された時でした。
「どうか大事にしてください」といった書状もあり、彼にとって真に大切な絵だったのであろう説明が流れたのですが。
何と言うか、美しいのだけど、その絵そのものの異様な雰囲気というか、作者自身の想いの重さみたいなものが画面からも伝わって、ひどく印象的だったので、慌てて名前を書き留めたのですね。

かいしょうくすね。

ただおと ではなく。確かに、そう伝えていたと思いましたが……そもそも珍しい名前だし、読み間違いはさしたる問題ではなく。
ただ、当時、まったくと言っていいほど、何の情報も得られなかった。
今でこそ検索すれば、取り敢えず、そこそこの情報は引っ掛かりますけど、ほんと何ひとつわからなかった。
ネットも普及してませんでしたし。
思いつく限り日本画の画集を漁ったところで、たかが知れてます。

え。国会図書館行ってみる?

と思っていた矢先、「甲斐荘先生」で当時唯一発見したのが溝口健二の映画の本でした。

全然違う角度から来たよ。風俗・衣装考証ですって。

「雨月物語」で京マチ子さんが「先生に着付けてもらうと、苦しくなくて、たおやかな感じで全然違うんですう」ってうろ覚えですが。
そんなコメントを読んだ時には、あら日本画の人じゃなかったのかしらん?? とハテナが舞うばかり。。


何枚かある「横櫛」

代表作と言っていい「横櫛」も、今となっては三枚ほど描いていたことは知られていますが、当時は何もまったくわからなかったので、
「記憶していたあの女性とは、あまりにも印象が違う」ことに随分と長い間悩まされ続けました。
岩井志麻子さんの本の表紙で一躍有名になった「横櫛」と、それが描かれたエピソードを知った時の印象は、私の中では随分と開きがあります。
岩井さんの本は「本当に怖く」て、あの絵を表紙に選んだことも「勝因」という言い方は少しアレだけど、あの作品を際立たせるのに一役買ったなという印象が確かにありますね。

「横櫛」は彼の兄嫁がモデルです。
観てきたばかりの歌舞伎の演目「処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)」を真似て見せたところを描いたと言われています。
東京から嫁いできた義理のお姉さんとは、大変仲が良かったそうです。
想像するに、恋心というよりは憧れのようなものを抱いていたのではないのかな、と。
ところが、彼女は若くして亡くなってしまいした。
幼い頃の彼は体が弱く、当時の風習からしばらく女の子の格好をさせられていたそうです。
写真で見る彼は大層美男子で、彼自身も美しいものが大好きだったのでしょうね。

私が初めて楠音に触れた瞬間に感じた「異様さ」は、彼の中にある、美しいもの、いとおしいものへの執着だったのかも知れません。


横櫛02


平成11年に開催された展覧会の前後だったか、やはり12チャンネルの美術番組にて彼の特集が組まれたことがありました。
番組宛に、これまでの経緯を簡単にしたためて葉書を送ったところ、画集と黄楊櫛を頂きました。
特に櫛はとても嬉しくて、毎日大切に使っていましたが、いつのまにか無くしてしまいました。
大切にしている、思っているのに無くなる。
今も、時々そんなことが起こります。

私にとって「横櫛」は、彼のお義姉さんに対する想いが溢れた、微笑ましくも異様に重みのある、探し当てるまで大層骨が折れた絵です。


fin.

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