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長い自己紹介



朝起きると


朝起きると体が痛い。
いや正確に言うと、寝ている時から腰を中心に痛みがある。それを感じながら寝ているのだ。

のろのろ起き上がって、お弁当を作ったり掃除や洗濯をしている内にようやく痛みを感じなくなっている。

午前中書き物をしたり、庭に出て苗を植えようとしゃがんだりすると又痛みが出て来る。車に暫く乗っていて、下りる時も然り。

何となく下半身が痛いという感じは今年になってから、六十五歳の直前位から始まったように思う。

鏡に向かえば

朝、顔を洗う時、つくづくは見ないのだが、たて皴 が増えたように思う。顔にも寝ぐせが付くことに気付いたのは六十歳を越えてからだ。

目尻の笑い皴やほうれい線など当たり前の皴は当たり前として、目頭から縦に伸びる皴、ほうれい線に沿って寄っている細波のような皴、額に明らかに増えた皴(これは横)

眉毛には白いものが混じる。もはや抜く事が追いつかないので放っておいている。
化粧をする時塗ってごまかす。
そういえば、夫の指に一本ある長い白い毛は気になる。もはや福毛ではあるまい。

ゆるさかげん

下着の好み それは個人の勝手である

案外○○○○のような、身体にピタッとしたものが良いと何か刷り込まれている感じもなくはない。

以前母に○○○○の下着をプレゼントした事があった。あのとき母はもう八十歳を越えていたが。どうも気に入らないらしい。ぴちっとするのが嫌なのよ。と言われ結局着慣れた楊柳という生地の下着に落ち着いた。

その気持ちが今ではわかる。

確かに下着の線が出にくいという点では○○○○はいい。
しかし着用している時涼しさを感じるかというと正直?である。ならばお風呂上りに身体にまとわりつかない物の方が良い。

   え?○○○○は朝に着替えるものだよ、え?そうなのですか?

ゆるい物の方が最近しっくりくるという話だが、
身体もどうやらゆるくなっているようだ。

綺麗な話でなくて恐縮だが
最近おならが出て困る ふっと出てしまう
我慢しなくて良い場所は当たり前に
そうでない所でも 本当にふっと 出てしまうのだ
友人の傍でも

以前母がよくおならをしていた
あら ごめんなさい
というのが可愛かった
でもよく出るなあ、我慢しないのかしら、とその頃は思っていたのだが
それを笑う事ができなくなった

我慢しても出る時はでてしまう
ふっと 出てしまう
このゆるみはなんだろう

やるべきことがない

朝起きてお弁当や朝食を作り、掃除洗濯を一通りする。そうすると私にはもう やるべきこと はない。
趣味をすればいい
もう高齢者なんだし ゆっくりと余裕のある時間をたのしめばいい

とはいうもののなんだか 

うしろめたい


海外旅行も、夢の国も縁がなかったけれど、子供三人、浪人や留学も含め、大学を卒業させた、今もう一度やれと言われても無理。一生懸命頑張って私なりにやってきた。
でもどこかで、うしろめたいと思ってしまうのはなぜなのだろう。

みんなまだまだ働いている
老後の余裕もない癖に
何も生みださない
私はこのうしろめたさを随分昔から持っているような気がする。

パートに僅かばかり出ていた時期もあったが、基本私は専業主婦だ。
家の事、三人の子育てを本業にしてきた。書類に書かねばならない時は専業主婦か無職である。無職=何もやっていない人、能力がない人、その上根性もない人 のように捉えるのは私のひがみ根性からくるだけのものではないと思う。
特に今、高齢者も働きましょう、という世の中で私は益々肩身が狭い。

昔から思っていた。
働くって何?どういうこと?お金を稼ぐこと?

確かにお金を稼ぐ、という意味では 今までのパートとほんの少しの趣味からの利益 全部まとめても雀の涙にもならない。
でも その分を 使わなかった、言い換えれば 節約してきた 
三人の学費に加えて家のローンもあった。
地方の普通のサラリーマンの収入+祖父母の常識的な節々のお祝い金+奨学金でなんとか乗り切ったのだ。

回鍋肉や麻婆豆腐のレトルト四人前分を味付けをプラスして六、七人前にするので、元の味が分からないというのは茶飯事だった。○○スーパーには本当にお世話になった。

息子の浪人が決まった時、予備校に一年間にかかるお金の談判に行った。「お母さん、その金額、夏の講習も含んでですか?」

「お母さん,何でウチは海外に行かないの?チョコレートとか貰うばっかりだよ」
まだ幼稚園だった子から聞かれた。

自分の車は持たず、自転車でどこでも行った。
分かる範囲は子供に勉強は教えた。

稼がなかったけれど 使わなかった。

そう自負している。
それが出来る時代でもあったのかもしれない。運も良かったのだろう。

三人の子供たちは今、それぞれ社会人になり、自分のお金で海外やディズ二ーランドに行き楽しんでいる。奨学金は、長女は繰り上げ返済し、次女も一部そうしているらしい。我が子ながら偉いなあと思う。もしや私が反面教師になったのかも。余裕のない生活、それはそれで意味が有ったのかもしれない。

子供はしっかり経済的に自立してくれた。しかしとにかく自分は経済的に自立してない。
そう、うしろめたさの原因はここにあるのだ。

うしろめたさに乗っかっている趣味

うしろめたさを感じつつも、

短歌  バッグなどの創作、販売  ガーデニング
この三つは長く、若い頃から続けてきた

 ① 短歌 閉塞感

短歌は始めてからかれこれ四十年にもなる。『長流』という短歌の同人誌に毎月投稿してきた。最近は月7首になったが、ずっと15首提出だったので作った歌数は結構なものだ。内容はともかく。
還暦を過ぎて歌集『あをぞら』を上梓した。現在『長流』の編集に加わっている。

しっかりと物を見て具体的に 自分の気持に正直で 誰にでも分かる言葉を使う そんな短歌を作りたい

逆に
頭だけの中で作り赤より白の方が効果的と思ったら赤い物でも白にして、やたらと感覚的でわかりにくい表現の歌
は嫌だな、と思う。そりゃ、人それぞれなので あくまで私の好みだけれど

昔私の歌を読んで 私の歌全体に 閉塞感 があると言った人がいた。閉塞感とはつまり、閉じ込められている感じ、また、そこから出ようともがいている状況をいう。ここから出してくれ、という感じ。

東京から足利市という保守的な町に嫁ぎ、地元の人が多くを占める中の子育ては正直辛い事もあった。そんな気持ちが表れていたのだろう。自分の思い込みや気負いもあったに違いない。そのころの歌だ。

○秋空に気負ふ己を持て余し草いきれの中草の香を吸ふ(『あをぞら』より)
○いつそ吾すつからかんなっつてみろ晴天に地を這ふ者として(同上)

子育てや介護もひと段落の今の私が、では 閉塞感 がもうなくなったかと言えば、案外違う、まだどっかに抱えているような気がする。それはなんだろう。なぜだろう。

上手く言えないが、歳をとる、年齢を重ねると誰でも「今の場所でいいのだろうか」「違う生き方があったのでは」「いまさら何もできないし」と思う。思うけれど、過ごして来た過去がどかんと広辞苑の重みみたいに体に付いていて、身軽に動けない、動けないと思ってしまう。

過去、という心理的なものだけではない。いつかテレビで見たことがある。老人体験。手や足に重りを付ける。見えないメガネをかけ、はっきり聞こえないように耳栓をする。本当にそうだ。私も若い頃には感じなかった痛み、重さ、だるさ、はっきり見えない目、聞こえずらい耳。

老いという重りを抱いている感じが、若い頃の閉塞感とよく似ている気がするのだ。

そんな すかっとしない自分を、今の自分を、やはり 短歌で 正直に これからも書いていきたい。

短歌誌の編集+余談

2020年より『長流』の編集に携わっているが、まだまだ 本当にまだまだと実感している。

旧仮名遣い、漢字、文法、歌の読み取り、送り仮名、様々な言葉を疑ってかからなければならない。長く短歌をやってきたけれど 正字、という言葉も最近知った。辞書によって送り仮名が違ったり、まして旧仮名である。古語の知識、文法も勿論必要で、正直?????が並ぶ。

はね、には三種類。翅(昆虫)、羽(鳥、飛行機)、羽根(鳥から抜けた)
最近覚えた。

私は役にたっているのだろうか、いつも思いながらそれでも人員不足なのだから仕方がない、少しずつでも頑張ろうと思っている。

余談だが
短歌の同人誌が次々廃刊となる。それは会員の高齢化による。今まで短歌誌を担ってくれた方々が高齢になってしまった。高齢を理由に止める方も多いから、廃刊はいたしかたないのだろう。

私が初めて短歌の講義を受けたのは地域の公民館である。そこで講師をされていた方に『長流』を勧められ入会したのだが、その師も亡くなって久しい。公民館活動、というとなんだか大した事ないような、おばちゃんおじちゃんたちの集まりと思う人もいるかと思う。しかし一度市や町の文化祭に足を運んでみてもらいたい。そのレベルの高さを。その熱意を。正直下手な人もいる。でもそこもいい。そのごちゃごちゃした感じが公民館活動(派生したグループ活動)にはある。大事なのはいろんな人が参加出来ることだ。ことに十年ほど前までは活動が活発で、色々な文化を支えてきたといってもいい。書道、日本画、洋画、篆刻、工芸、俳句、カメラ、俳句、短歌などなど。今はその活動も人数が集まらないので解散したグループも多いと聞くが。

まっ私も今はそこ(公民館活動)に属していないから偉そうな事は言えないが

短歌の同人誌がなくなろうと、公民館活動がおしまいになろうと、形を変えて文化活動は続いていくのだろう
それは地域といった狭い範囲ではなく、もっと広いものなのだろう
表現方法が紙でなくても異なるものがあるのだろう
私には分からないことが多すぎて言葉にならないけれど

趣味の大事なところは
プロとは違う プロのように出来る必要はない 下手くそでいいところだ
でもたまにそこからプロが出る
この緩やかな くくり を失くさないで欲しい 

ちょっと本題からずれてしまったが、要は、高齢の方々が担ってきた功績は大きいということだ。その事を忘れないでいたい。

② 今日の花は

ガーデニングが趣味である
と言いつつ
夏は暑いから、冬は寒いからと手抜きばかりしているので大した庭にはならない いつも草がそこそこ生えていて 花に肥料をやってるつもりが草がやけに勢いづいている 道に沿っている西側はワンちゃんのマーキング場所になっているようだし。 

当たり前のことなのだが
Aという草が終わるとBという草が生えて来るから こと春からは草むしりが必要だ そしてCという花が咲き終わるのを待たずにDが咲く こうして一年中草と花が入れ代わり立ち代わり 変わっていく 一日では大した変化はないけれど三日家を留守にすると なんだか庭はよそよそしく変わっている

今日も今日とて
黄金虫がもみじの木に止まっているのを見て、思わず近くにあったGスプレーをめがけてかけてしまった(部屋の中から) すると 一匹だと思っていた黄金虫が 落ちる 落ちる
私の方が戦意喪失になるほどだった
落ちついてから ユーチューブ動画で 黄金虫トラップの作り方を検索した

最近購入したり、頂いたりして薔薇が増えた。

薔薇は いや薔薇に限ったことではないのだが
見ていないとすぐ病気になったり 虫が付いたりしてしまう
水のやりすぎ、肥料の与えすぎもだめだけれど

毎日の変化をよく見る 

③ 物を作る 売る

上の娘を妊娠中に始めたのがパッチワークである。
パッチワークに限らず、娘とお揃いの服を縫ったりすることが楽しかった。

作った物を 買いたい という人に譲ったとき
私の作ったものでもいいんだ、と 売ること に目覚めた

もう三十年以上前のことである。

その頃は 自分が作りたいと思う物を売る、大した腕ではないのだから安くて当たり前、という気持ちだった。欲もなかった。だから売れたのかもしれない。けれどだんだん 売れる物を作らなくては売れない と思うようになった。そこそこは売れたのかもしれないが。

今はなんだか作る事に目が、気持ちがいっていない。『長流』の編集に携わり 書く 時間が増えて実際針を持つ時間が持てない

なーんて昼寝は欠かさないのに

作らなくなって思ったことは、針を持たないと進まない進まないと出来上がらない出来上がらないと出品できず売れない、と言う事だ。とにかくやる気を持て、じゃない。まず針を持て、

って命令形でどうする。趣味なのに。

趣味は 趣味だから という甘えも含めて趣味
だから大成できないんだよ つきつめないからと怒る人もいるだろうな

それでも自分を諦めない

子育てに夢中だった頃は 安く上げるためにも 料理やお菓子作りも頑張った、と思う。ところが今になって 味 が決まらない。仕方がないので
ググって定番の味付けをする。なんだか情けない。
腰の痛みや 老眼 聴力の低下 加えてやる気の衰え 暑さ寒さがこたえる
このような 老化 といわれるものがどんどん襲ってくる。
もちろん頑張る 頑張るけれど

ちょっと誰かに頼りたい

そう思う時がいずれ来るかもしれない。
いや、絶対その時は来る。
が 子供は三人とも遠方で頼りにはならない(そりゃ大病するなどといったら来るには来るだろうけれど)

大事なのは ちょっと 頼りたい時だ

ちょっと買い物をしてもらいたい
ちょっとパソコンやスマホを教えてもらいたい
ちょっと家具を動かしたい
ちょっと

そういう時若い人が欲しいなあと思う。
もし若い人と高齢者がペアになることが出来れば心強いだろうな、と思う
ご近所を見渡しても 年齢を重ねれば重ねるほど 外 と遮断してしまいいつのまにか来るのは介護関係の車だ。

私自身も自分の子供以外の知っている若い人は 生協のお兄ちゃんとご近所の方数人くらいだ。先日電話で話した保険会社の女性は声だけだったが 若かった。

一週間に一時間だけでもいい

でもペアとなるとお互いの人物保証が大事だ。つまらない事件のもとになっては仕方がない。
それに若い人のプラスにならなければいけない。

まっ 思いついたから書いただけであるが。

  矛盾するようだが、

人に任せない

この歳になって医者に行くと 黙っているとどんどん薬が増えていく。
以前父母の薬がなぜこんなに多いのかすごく疑問だったが最近はよくわかる。血圧、コレステロール値、骨密度から始まる。個人を診るというよりこの歳にはこれって決めてるのではないか、と思う位薬を飲みましょうと言われる。私も素人だから心は揺れるのだが、ギリギリのところでまだもらわずに踏ん張っている。

パソコンやスマホの技術力がない。
しかしまるっきり出来ないではすまされない世の中になってしまっている。
誰かにやってもらう部分はもちろんあるのだけれど
基本とか常識という範囲は自分でやる

これからも『長流』の編集に関わり、勉強する。
少しだけ見てもらうためのガーデニングを意識する。
初心にかえり「作る」事を見直す。

身体も心も少しずつ変わっていく。
マイナスのほうが大きいかもしれないが、

自分の頭で考え、人に任せない。
ここに行くあれを食べる、という小さな日常の選択を大切にしようと思っている。

❤拙い、長い自己紹介を読んで下さりありがとうございました。


























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