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【小説】私の明日はどっちだ?9-①

これまでのおはなしはマガジンからどうぞ。

やっぱり何かは起きるもの

次郎さんは、娘さんに来てもらって床屋へ行ったらしい。トミさんのお化粧はいつにもまして気合が入り、そばにいるとギョッとしないでもない。今日は朝から、部屋のあちらこちらでみんながソワソワしている。子どもたちとの交流イベントの日が、ついにやってきたのだ。

そろそろ時間だな、と思って玄関のドアを開けると、ひやっとした空気が入り込んできた。12月ともなればさすがに寒い。あわててドアを閉め、ぐるっと周りを見渡す。まだ子どもたちの姿はない。じっとしていると足元からずんずん冷えてくるので、足踏みしながら、今日の段取りを何度も繰り返す。まずニワカさんにあいさつをお願いして、次に私が今日の流れを説明して、次に、子ども代表のリョウくんにあいさつしてもらって、その次に次郎さんにあいさつしてもらって…。いや待てよ。次郎さんが先か?昨日さんざんもめて、結局どっちが先になったんだっけ。帰るときには子どもが先だったような気もする、で、さっき確認したら違うよって言われて…え、どっちだっけ。子ども?次郎さん?うわ、すっかり忘れてる。ぎゃああ、どうしよう!

「こんにちはー」

びくっとして振り返ると、女の子たちがニコニコしながら立っていた。あずさちゃんが、薮田さんだよー、とみんなに紹介してくれる。大人らしく、でもフレンドリーに、と私はめいいっぱいの笑顔で答えた。

「こんにちは。今日はよろしくね」

第一関門突破。そして、女子チームを連れて部屋に案内して間もなく、男の子たちが入ってきた。3対6。今日の参加者は男子の方が多い。迎え撃つこちらは、5対3と女性の方がちょっと多いのだが、はたしてうまくいくだろうか。あいさつの順番でパニックになっていたことすらどうでもよくなり、ベテランファーストで次郎さんがあいさつ。リョウくんの掛け声で、よろしくお願いしまーす、と言い合うと、さっそくインタビューが始まった。トミさんの強い要望により男女別れて行われたのだが、女子グループの方は早くもえー!とかワイワイ盛り上がっている。

男子の方は。次郎さんが、にこりともせず、で、君たち何が聞きたいのかね、なんて言ってる。私はヒヤヒヤしながら見守っていた。

「子どものとき何が一番楽しかったですか」
「いやな宿題って何でしたか」
「大人になってよかったと思ったのはどんな時ですか」

私も、こんな風にいろいろ聞いてみたかったな。とどこかのんびりした気分で眺めていたとき、玄関のドアが開いてひと組の親子が入ってきた。

「おじいちゃん!」

次郎さんの娘・美香さんと孫のジュンくんだった。聞いていなかったので、本当のサプライズだ。身内が来たというのに、次郎さんの顔がどこかこわばっていくように見えたけれど、私は、緊張しているんだろうと思っていた。ジュンくんが男子のコーナーに加わると、また質問が始まった。

「何歳のとき自転車に乗れるようになったんですか」
「私は6歳ぐらいかなあ。周りの子もそれぐらいだったと思うよ」
シゲルさんが答える。あつしさんは、遠くの方を見ながら
「おれはけっこう早かったな。小学校上がる前から乗れてたよ」
順番からして次は次郎さんが話すのかな、と思ったが、それはなかった。一瞬、何となく気まずい雰囲気が流れた。
「くだらない…」と次郎さんがつぶやく。リョウくんがあわてて、じゃあ、おやつで好きだったのは…と切り出したが、それをバッサリ切り捨てるように、次郎さんはそっぽを向いた。緊張が走り、みんな黙ってしまった。

「自転車なんぞ、くだらない。誰でも乗れるだろうが。自転車に乗れないからって怒鳴られる必要なんてないんだ!」

自転車に恨みでもあるのか。シゲルさんが次郎さんの方を見やり、目で落ち着けよと言っている。あつしさんは、おれは関係ないから、と言わんばかりの空気を醸し出している。トミさんのサクラじゃないけど、こころの危険地帯は人によって違うのだ。確かに今日も油断していた。次郎さんには自転車がマズかったのだ。しかし、そう何度も同じ過ちは繰り返すまい。私は換気だ換気!と思いながら抜け道を考えていた。…が、何も思い浮かばなかい。ほかの誰かに助けを求めればよかったのだろうけど、その余裕もなかった。

「次郎さん、誰かに怒鳴られたの?」

ボンちゃんがそうっと聞いた。

「怒鳴られてなんかおらん!親父に用事を頼まれたとき、うまく自転車に乗れなくてヨタヨタしたら、何だ情けない、お前はこんなこともできないのかと怒られて…いや、こんなの大したことじゃない、別に」

「ふうん。ぼくだったら。そういうとき、なんて言われたいかなあ。こうすれば乗れるぞって教えてもらうか…練習につきあってもらうとか。あ、今度一緒に練習するか、でもいいな。うん。次郎さんは?」

ボンちゃんから逆にどうかと聞かれ、赤くなった次郎さんは黙ったままだ。

「次郎さんは、お父さんになんて言ってほしかったの?」

しばらく間があって、見えない緊張の糸がピーンと音をたてて張り詰める。

「そんなこと…。私は。私は…」

絞りだすようにそれだけ言うと、次郎さんはイスから崩れ落ちるようにして床にずるっと座り込んだ。そして、とつぜんオイオイ泣き出してしまった。離れた席で丸くなっていた女子たちが、びっくりしてこっちを見る。大人が急に泣き出してしまったのだから、驚くのも無理はない。

「…おじいちゃん、カッコ悪い…」ジュンくんが、隣にいたお母さんに言ったのが聞こえた。

シゲルさんが手を貸し、次郎さんをイスに座らせた。話を聞かないことには新聞が作れないから聞いておくか、と思ったかどうかはわからない。子どもたちの関心は残ったあつしさんへと向けられ、女子たちもまた、もとの会話に戻る。まるでこの不思議な時間はカットされ、編集されたみたいだ。

シゲルさんが次郎さんを抱え、ふたりは静かに部屋を出ていった。






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