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自分の中にじんわり広がるあたたかさ

私にとっての《ゆたかさ》とは何か。

それは、自分がどんなことをしあわせと思うのか、自分でわかっていることです。わかっていれば、ゆたかになるチャンスをあげられるから。

実はこのnoteを書く前に、ひとつ書き上げたものがありました。
試行錯誤として、今話題になっているテーマから展開して書いてみたのです。でも、なんか居心地が悪くて投稿できませんでした。

そうしたら、「♯ゆたかさって何だろう」のお題を見つけてつらつら考えているうちに、さっき書いていたものは動機が「たくさんの人に読まれるため」だったんじゃないかと気づいたのです。自分の感情に突き動かされてやったわけではない、ということは、私にとって全然意味がなかった…。

方法として試すのはアリ。そして、導入は何であれ、落としどころが自分の思う内容であればよかったのでしょうが、たぶんなんだかよくわからないまま終わっていたのでしょう。

考えてみると、私にとっての《ゆたかさ》とは、
《まず動機が自分の中から起こったものであること(わざわざ言葉にすれば)。それによってこころの中がほかほかしてくるもの。無条件であー、これ好きだわ、と思える時間》なんじゃないかと。

山ほどあるモノや情報の中から選択し、実際に行動し、それが結果として自分を満たすことができた時、何にも代えがたいほどの自信となって私を支えてくれます。どんなに状況が変化しようと、満たされた気持ちがどんなものか知っている、ということが私にゆたかさを与えてくれるのではないかと思います。

お金とか仕事とか、関わっていく人たちのこととかは、そのゆたかさを叶えるために何が必要かを逆算して、整えていったらいいのかもしれません。

ちなみに個人的な《ゆたかさ》で言うと…美術館で東山魁夷の「道」を見た時と、林明子原画展で「こんとあき」を見た時。普段はあまり美術館とか行かないのですが、もう何時間でもじーっと見ていられると思いました。それから、アーサー・C・クラークの「歴史のひとこま」を読んでいた時。その結末に「巧い!」と唸り、文字通り?ひざを打ったシロモノです。世の中にはゆたかなモノもすごいこともたくさんあるけれど、こんな自分にとってのしあわせに突然遭遇すると、ああ生きててよかった…としみじみ思います。

うむ、さっきよりは言いたいこと言えた気がする。
こういうことの積み重ねも、私の《ゆたかさ》につながっているみたいです。


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