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あした吹く風~ポッポのいない世界で~
風が好きだ。
「頬を撫でるような ゆるやかな風」
「洗濯物をはためかせる すがすがしい風」
「木々をざわめかせる ちょっと遠くに吹いている風」
風を感じるのも、風を見るのも好きだ。
しかし、あの日を境に、何も感じなくなった。
それは、世界で一番愛したうさぎが死んだ日。
うさぎのポッポには、もう二度と会えない。
夫は、「ひなたぼっこ」のことを「ひなたぽっぽ」と言う。
わざとなのか天然なのかわからないが、それがあまりにも可愛くて、うさぎの名前に採用したのが7年前。
うさぎが我が家にやって来てから、生活がガラリと変わった。
休日のたびに出かけていた私たちは、ほとんど出かけなくなった。
外で遊ぶよりも、ポッポとまったりしているほうが幸せだから。
朝起きた瞬間から、生活の中心がポッポになる。目が覚めると、目の前でポッポが待ち構えていて「エサくれ」といってブーブー言う(ブーブーはうさぎの鳴き声である)。
あわててエサを持ってくると、二足歩行のままジャンプする奇妙なうさぎが私の手元を凝視している。
一秒でも早くエサを食べたいポッポは、口を開けたまま突進してくるもんだから、エサ箱に歯がぶつかってカツンと音が鳴る。それを見て私は、「歯は大丈夫かな」といつも心配していたものだ。
お腹がいっぱいになり、満足したポッポは日の当たる窓辺に行き、うとうとと眠りはじめる。行動範囲は制限されているものの、半分は放し飼いにしているため、好きなところで眠ることができるのだ。
ポッポのお気に入りの場所は、窓辺に置いたチェストの上。そこにクッションやらタオルやらを敷いて、ポッポが快適に眠れるようにセッティングしている。
しばらくすると夫も起き出して、眠っているポッポにちょっかいを出す。気持ち良さそうにくつろいでいるポッポの邪魔をする夫に、私はいつも冷めた視線を送る。たとえ夫であろうと、ポッポのためなら私は何だってできるのだ。
そんな夫も、私と同じようにポッポを溺愛している。うさぎには毛が抜ける「換毛期」があるため、ブラッシングが欠かせない。これを怠ると、お腹をこわして死んでしまううさぎもいるほどだ。
しかし、うさぎはブラッシングを嫌がる。抱っこして場所を移動してからブラッシングをするのだが、抱っこするとポッポは暴れ出すのだ。危うくポッポを落としそうになったとき、夫は瞬時に身をよじり、ポッポが布団の上に着地するように手を放した。
そのせいで体勢を崩した夫は、ポッポの上に倒れ込みそうになる。しかし、それではポッポがつぶれてしまう。夫は、できるだけポッポから離れた場所をめがけて派手に倒れ込んだ。
そのあと夫は自慢気に、「俺はポッポのためなら骨の1本や2本折れても惜しくない」と私に言った。
私たち夫婦は、うさぎのポッポのためなら何だってできるのである。
それほど愛したポッポが死んだ日、私たちは途方に暮れた。正直、生きる気力を失った。これから何のために生きていけばいいんだろう。仕事も手につかず、我が家から笑顔が消えた。
文字通り、心にぽっかりと穴があいたような気分だった。
それでも日々は過ぎていく。生活のためには仕事をしなければいけない。でも、何をやってもうまくいかなかった。
あれから2年。
少しずつ人生を立て直してはいるが、順風満帆にはほど遠い。しかし、笑顔を取りもどすことはできた。ポッポの写真はいつも私たちの隣にいて、何かあるたびに話しかけている。
夫に腹が立ったときは、「ムカつくよね」とポッポに向かって話しかけ、「ポッポに嫌われるよ」と夫に向かって言う。そんな日常を、少しずつ楽しめるようになった。
今思えば、私が風を感じるのも、風を見るのも好きだった理由は、そこにポッポがいたからだった。
窓から入ってくる風が、ポッポのお腹の毛を揺らす様子が好きだった。
気持ちよさそうに風を感じているポッポを見るのが好きだった。
ポッポがいつもそばにいたから、どんな風景を見ても美しいと感じた。
もうポッポはいないけど、ポッポと過ごした日々が私たちを幸せにしてくれる。
そう思うと、あした吹く風が少しだけ楽しみになった。
そして今、私の心はゆたかさに満ちあふれている。
私に愛を教えてくれた、うさぎのポッポに感謝をこめて……。
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