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紫煙

 敷地の端に追いやられた喫煙所。灰皿も撤廃され、今はボロボロになったベンチが二つ並んでいるだけの空間に立ち上る紫煙を見つめながら、ピーマンみたいな会議で挙がった話題を思い浮かべた。
「五年目を対象とした研修の内容は何が良いですかね? 皆さんは五年目の時何を思っていましたか?」
 僕にとってのその時期は四年前、僕は右も左も分からない場所で一人で仕事をしていた。引き継ぎなんて名ばかりで本質を抜け落ちた資料を読み込んで、現場の現状を鑑みてため息をこぼしていた頃だ。あの時期には仕事以外の出来事も多すぎて、振り返ると激動であり、ある意味、転機だったのかもしれなかった。
 座り心地の悪いベンチに腰掛けて、公用車が並ぶ駐車場に吹く風は湿気が含んでいて気持ちが悪い。ようやく夜は暑さは遠のき始めたのに、今日は熱帯夜の様相を呈している。
 ため息を吐き出すように、口からタバコの煙を吐き出す。夜空に溶け込んだ煙は、二度と戻らない時間に目には映った。
「何してんのさ?」
 不意に声を掛けられた。僕は声の聞こえた方向に視線を移した。そこには懐かしい立ち姿があった。その顔は子供ぽくって、それでいて大人っぽさが共存していた。
「会議終わりの一服」
「あっ、そう。横いい?」
 そんな風に問いかけながら、僕が返事する前に横に座るあたり変わっていない。
「返事してないけど?」
「どうせ、良いって言うでしょ?」
 彼女は手に持っていた飲みかけのペットボトルをベンチに置き、スマホを弄り始めた。
「まぁ言ったね」
「時短、時短」
「お前こそ、何してんの? タバコでも吸い始めたか?」
「自販機で飲み物買おうとした時に、この世の終わりみたいな顔した奴が歩いてたからさ。ちょっと懐かしくなってね」
「この世の終わりみたいな顔してる奴なんか、その辺にうようよいるだろ?」
「そういうとこ、変わってないな。だから暗いとか言われるんだよ」
「暗いか明るいか、そんなのは他人の価値観だろ? 何度も言うけど、オレは暗くない」
「人生終わってるって顔は治らないのか?」
「もう三十、変わるには時間が経ちすぎた。それにオレには見えないから、どうでもいいけどさ」
「相変わらず歪んでるな。歪みすぎてアンタのとこだけ、地盤がへこんでるよ。そのうち、ブラジルにでも行けるんじゃない?」
「行く前に地球のコアに当たって、存在が消えるよ」
「避ければいいじゃん?」
 生産性なんてないし、それこそ会議よりも中身のない会話。でも色々な体裁や仮面を外して戯いのない会話をするのは久し振りだった。
「どう、新しい職場には慣れた?」
「慣れたかな。色々、気になることは多いけどさ」
「それは仕事内容? 環境? 人間関係?」
「後者二つ。一人だったからこそ、違和感を覚えるよ」
「アンタはずっと一人だったもんね。そりゃ違和感も覚えるか」
「お前はどうなのさ?」
「私はもう長いからね。楽しくやってるよ」
「その割には疲れた表情浮かべてるけど?」
「そりゃ仕事途中だからな。仕事って言うか趣味かな、もう」
「たいそうな趣味だな。明日は土曜日だろ? 早く帰れよ」
「アンタには言われたくないな」
 人の少なくなった職場。その空間に生まれた僻地で僕らは互いに悪態を口にしながら、時間を編んだ。四年前、僕らは初めて互いの存在を認識した。同期なんて知らなかった彼女は、嵐のようにやってきて、僕を振り回して、そして嘘みたいにあっさりと目の前から消えていった。
 別に色っぽい話があったわけではない。互いが無害であることを承知した上で、精神安定剤を服用するかのように夜な夜な言葉を交わしていただけだ。
 僕はくわえタバコで彼女の横顔を伺った。童顔な顔には、あの頃にはなかった皺が見えた。互いに歳を重ねたことに自覚的になる。
「アンタの顔見ると、色々と思い出す」
「ノーコメントだな」
「だから思うよ。アンタとの縁は切れないんだろうなって」
「かろうじて繋がっているか細い糸だけどな」
「細かろうが太かろうが、繋がっていることに意味がある。でもアンタが結婚して付き合いが悪くなったら、怒るけどな」
「ずいぶん横柄だな。それとも相手がいないオレへの皮肉か?」
「アンタはアンタが思ってるよりも良い奴だよ。そろそろ、表舞台に立ったら?」
「表舞台は眩して失明するからな。それに誰かの物語の端役に慣れすぎた」
「勿体ないな。アンタは表舞台に立てる奴なのに」
「生粋の脇役だけど?」
「それは勇気がないだけ。本当は表舞台に立てるのに脇役を演じてるだけ。そろそろ物事じゃなくて、自分に正直になったら?」
 彼女はいつもそうだ。頼んでもいないのに土足で心の柔いところに踏み込んできては、消えない傷を残していく。あの頃と変わらない。
「痛いとこを的確に突くなよ。呼吸が苦しくなる」
「人工呼吸でもしてやろうか?」
 悪戯な笑みを浮かべる彼女は、あの頃よりも表情が良い。それは救いであり、ちょっとした安堵感を抱いた。なんだか保護観察者の気分になったみたいだ。
「旦那に怒られるぞ」
「確かに」
 彼女が結婚していることは風の噂で知っていたし、その上で何年か前に報告を受けていた。嫉妬とか後悔とかそうした感情は不思議と芽生えなくて、素直に良かったと思ったことが懐かしい。あの期間を乗り越えてから彼女は変わっていた。本質のキャンバスに無理矢理カラフルな色を塗り殴ったかのように。今でも鮮明なのは、多分、人が変わる瞬間をハッキリと目の当たりにした初体験だったからだろうな。それと短い期間にしては詰め込みすぎた密度のせいだ。
「ホント、勿体ないよ。アンタには良いとこいっぱいあるんだから」
 社交辞令ではないのは言葉のトーンと、表情を見れば明らかだった。そうだった。彼女はいつも僕を過剰評価する。
「今や独居老人一直線、孤独死すら射程範囲だよ」
「本気で言ってる?」
「十年後には本気で言ってると思うよ」
「まだ若いんだからやり直せる。けど、残り時間は少ないよ。自覚してる? そうだ、婚活でもすれば? 街コン行け、街コン」
「参加するのすら億劫だ。この前のゴールデンウィーク、誰とも話さずに過ごしたしな」
「それはヤバいな。声の出し方、忘れそう」
「部屋の中であー、あーって声出して、チューニングしたよ」
 それやべーな、なんて言いながら彼女はベンチに身体をもたれながら声を出して笑った。
「そんな奴が行ったところでだろ?」
「アンタ、女性の前だと緊張して良いとこ出ないもんな。街コンがダメなら、一人で居酒屋行ってカウンターに座れば?」
 また土足で踏み込まれた。僕の柔いところに踏み込んでくる奴なんて何人いるのだろうか。数え始めて、すぐに止めた。
「やったことはあるよ。店に馴染みすぎて、空気になってたけどな。オレの存在を消すの得意だからさ」
「あー、忘れてた。存在消さなきゃいいのに」
「楽だろ?」
「楽するなよ」
 気付けば携帯灰皿には吸い殻が幾つも並んでいる。時計を見るなんて野暮なことはしなかったけれど、結構な時間が過ぎていることはすぐに分かった。静かな職場には、かすかに蝉の声と名前を忘れたけれど秋によく聞く虫の鳴き声が聞こえている。もう夏も終わって、季節がゆっくりと移ろいでいる。そんな変化の中で、変わった強い彼女と変わらない弱い僕が顔を見ずに同じベンチに腰掛け、ただ同じ方向を見ながら話をしている。変な構図だなと思った。でもあの頃を含んだ懐かしさが年号が変わったけれど漂っていることは新鮮だった。
「アンタ、逃した魚は大きいな」
 暫しの沈黙を破ったのは彼女だった。
「釣りは苦手だ」
「自分の良さとか誰かの好意を自覚してないのはアンタらしいけど、そろそろちゃんと向き合ったら?」
「自分の良さなんて分かんねぇーよ」
 皮肉を込めて言う。見上げた空には星が幾つか光って浮いている。
「私はアンタの良いとこ、いっぱい知ってる」
「例えば?」
「言うのは簡単だけど、自分で実感しないと意味がない」
 LINEの通知音が響く。何度も何度も、珍しく僕のスマホからも。彼女はスマホに触れる。僕は触れないまま、夜空に向けて紫煙を伸ばした。
「旦那からだ」
「んじゃ帰るか」
「せっかく同期とじゃべってるのに」
「帰るぞ」
 僕は吸っていたタバコを地面に落として、靴のかかとで火を消してから携帯灰皿に汚れて曲がった吸い殻を入れた。
「出口まで行くよ。コンビニに買い物行きたいし」
 僕らは並んで出口を目指した。話している間、綺麗な月明かりが差し込んでいた夜空には、不気味な雲が幾つも生まれていて、いつ雨が降り落ちても不思議ではない状態だった。
 出口を越えて、現れた丁字路。別れの瞬間はもうすぐだ。
「私はこっちだから」
「これ、貸してやるよ」
 僕は持っていたビニール傘を彼女に差し出した。
「何これ?」
「多分、帰り道は雨が降る。風邪でも引いたら困るだろ?」
「自分の傘は?」
「カバンの中に入ってる」
「準備が良いな。それじゃ借りとく。ありがとう。アンタ、ホント良い奴だな」
「脇役には脇役の所作があるんだよ」
「これは主役の所作だけどな」
 そう笑顔で言い残した彼女はゆっくりと僕に背を向けて歩き始めた。コンビニまで一緒に着いていった方が良いかと一瞬よぎった。でも僕も彼女に背を向けて歩き出すことにした。
「おーい」
 少し歩いたところで後方から彼女の声が聞こえた。夜の静けさにはうるさいくらいの声の大きさだった。
 振り返ると彼女は僕をまっすぐ見つめていた。
「なんだよ」
 滅多に出さない声の大きさで返事をする。
「言い忘れてた。誕生日おめでとう」
 忘れていた。今日は僕の誕生日だったことを。
「ありがとう、気をつけて帰れよ」
 彼女は僕が手渡したビニール傘を持った手を大きく振る。それに応えるように手を振った。彼女が踵を返した姿を見送って、僕も歩き出した。
 雨が降り出したのは、そのすぐ後だった。

文責 朝比奈ケイスケ

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