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日記136:「wowaka、それがまだここに在るということ」

ありがとう。

来月wowakaに関する本が出版されると知ったのは偶然だった。twitterの趣味アカウントでフォローを解除しようと思っていたクリエイターがRTしていたことで気付き、だから反応が遅れて特典はすでになかった。そんなことは至極どうでもよかった。
wowakaのアクリルスタンドがヒトリエのCDだのTシャツだのと共に発売されると聞いたとき、これでもうwowakaに関するものはこの世に新しく生まれないのだろうと思った。3人体制になったヒトリエに、wowakaが抜けてもなおバンド名もなにも変えずにしらっと続けるヒトリエに、なんの興味もなかった。恨み辛み、怒りの感情すら、それのみがあった。それは今でも変わらない。それでも、今も昔も変わらず、彼をかたどるなんらかに、貪欲にしがみついて、命を見出す。

命を見出すということは、ここにはなにもないことを表しているのではなかろうか。
でも、だとしても彼がここには在る。居ないけど、在る。
生き死になんてものはAIが発達したこの世にはあんまり関係がなくなるのかもしれない。なくなってくれるのかもしれない。機械が語彙を、声色を、思考を、温もりを模倣する。それでまたこの世に在ってくれるのであれば、私はそれでなんら構わないと思う。
嘘だ。
構わない、どころではない。それであってほしい。
人が死んでも、この世に居てくれなくなっても、最新技術がここに在らせてくれるのであれば、私はそれに、汚く醜くしがみ付く。泣かなくても悲しまなくてもいいのであれば、私はそれを追いかけたい。ジェイルオルタナティブだし、鶴喰鴎だし、バックノズルを信じない。
代わりがあれば、それでいい。それがいい。質の高い偽物に救われたい。信心が真偽を昇華させる。

なあwowaka。
でも、やっぱり、本物に居てもらえたら、よかったよな。

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