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【つながる旅行記#217】大宰府政庁跡に古代日本を想う
前回は、大野城と対をなす古代の防衛機構である「水城」を間近で見ることが出来た。
そしてこの旅のラストは、大野城と水城で守っていた大宰府政庁の跡を見て締めたいと思う。
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住宅地の景色から一転して自然が増えてきた。
この辺りが大宰府政庁跡のようだ。
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おお……!
なんと爽快な空間だろうか!!
ちなみに後ろに見える山は、さっきまで登山&下山をしていた四王寺山である。
あんな場所からよく歩いてきたもんだなとちょっと感動だ。
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今は広い公園として家族連れの人たちが楽しんでいるこの大宰府政庁跡だが、500年の長きに渡ってここで九州全域の統治が行われていた。
白村江の戦い後の成立初期は軍事拠点的な意味合いが強かったようだが、後の世になるとこのあたりは碁盤の目状(条坊制)に町が形成されていき、平城京みたいな構造になっていったらしい。
まさか大宰府にそんな都市が出来ていたとは……!
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振り返ると、確かになんとなく昔は大通りあったんだろうなという雰囲気は感じなくもない。
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そして大宰府といえば、『令和』の元号の誕生に関わることでも有名だ。
当時の大宰府の長官であった大伴旅人が邸宅の庭で開催した梅花の宴。
そこで読まれた歌が万葉集に収められたのだが、その序文から「令和」が抜き出されたという。
(この旅行記は2017年なので、そんなことは知る由もないが)
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そんな碁盤の目の都だし歌も詠むしで栄華を誇ってそうなこの大宰府は、「大君の遠の朝廷(おおきみのとおのみかど)」なんて呼ばれたりもしていた。
古代日本でこんな構造の都市は主要な都くらいだろうし、そう呼ばれるのもわかる気がする。
だが……
そんな大宰府政庁は、田畑になった。↓
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大宰府政庁が活躍したのは7世紀~12世紀と以前言ったが、なんかもう12世紀前半には荒廃していたらしい。
その理由は、武士の世の中になったからである。
朝廷の直属機関としての大宰府政庁は、武士の台頭でその権威を喪失したのだ。
荒廃して建物がなくなった後の政庁跡は、そりゃもう良い感じに田畑が作れそうな広い場所だった。
なので見事に農業に活用されることになったようだ。
そしてそのまま田畑の状態で時が流れ、高度経済成長期になってようやく遺跡の再評価の機運が高まり、遺跡を保存しようという意見が出てくることになる。
だがもちろん田畑の所有者は反対した。
発展する博多から10km程度のこの土地は、どう考えても住宅地としての需要があるのはわかりきっているのだ。
(実際、大野城市はめちゃくちゃ住宅が増える)
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しかし住民と一緒に発掘作業をしたり、遺構の意義について説明し、どうにか理解を得た結果、こうやって大宰府政庁の辺りは残されることになったらしい。
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昔のものをどれだけ残すかというのは難しい問題だなと思うけれど、500年に及ぶ外交の中心地だったことを考えると、こうやって当時のことに想いを馳せる場所が残されたのは良いなあと思う。
大野城も水城も大宰府政庁も、遺構がこうして残されたからこそ、自分にとって思い出に残る場所になったわけで。
当時の住民の方の選択には感謝せねば。
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そして近くには太宰府展示館もある。
知識面の補充もすぐできるよう配慮されているのだ。
しかも無料!
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……まあ時間外で入れなかったんだけども。
いや、もう一回来いってことだなこれは。
そう思うことにしよう。
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そんなわけで、1日かけて大宰府の歴史を満喫することができた。
歴史の授業で「大宰府」という単語しか覚えてなかった自分だったが、この旅行で相当理解が深まったように思う。
そしてそれと引き換えに、もう足はボロボロである。
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相変わらず休暇中に体をボロボロにしていく。
これもまた良し。
しかし本当に旅行をしていて思うが、もはや自分の地元より他の地域のことのほうが地理も歴史も詳しくなっている。
果たして自分が地元愛を深める日は来るのだろうか……?
(現状は地図を見ても微妙に実家の位置がわからないレベル)
なにはともあれ、ありがとう太宰府。
そしてまた逢う日まで。
次回へ続く……!
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