【つながる旅行記#216】水城の中にあったものとは…?
前回は大城山の山頂へ行き、水城に興味が湧いた。
というわけで、水城を近くで見るために山を降りていこう。
そんなわけで水城に到着。
いや、歴史を知らないとなんかもう木が生えてるだけの場所である。
しかしここは大野城と同じく、国の特別史跡なのだ。
見ていこう。1400年前の日本人の遺構を……!!
・・・まあ近くに来ても林は林だ。それ以上でもそれ以下でもない。
そう思いつつ水城の横を歩いていると、水城の中に入れそうな道があった。
おいおい……
こんなの入るしかないだろ?
自分の中の冒険心が疼くのを感じる。
(少し前まで引きこもりニートだったのに)
一体この中には何が……!?
お墓があった。
な、なにがどうなってそんなことに……?
……いや、思えば古墳だって小規模なものはなんか小さな丘というレベルの扱いだったりして、個人の土地に組み込まれた古墳は大量にあると聞く。
そんな感じで水城も時が流れるうちになんか直線に盛り上がった変な場所というだけの扱いになり、土地の販売もされ、今に至るとかそういうことか……?
これは経緯が気になるぞ……!!
しかしこんなお墓がしっかり建てられるくらいの幅の広さを持っていたというのはすごいな。
こんな土塁をかつては何kmにも渡って作り上げていたのか。
この土塁の前(博多側)には深い堀もあり、水で満たされていたという。
水城の内側には外堀へと水を供給するための内堀があったこともわかっているそうで、全体を見るとかなり大規模な防御施設だったようだ。
そんな水城周辺は現在でも発掘作業が行われている。
古代日本に関する新たな発見に期待したい。
そんな水城の情報を知ることが出来るらしい資料館が近くにあるのだが、まだオープン前のようだ。(※2017年の旅行記なので)
近くには展望台もできるようなので、オープンしたらまた来てみたいなと思う。
結局のところ、水城は戦闘で使用されることはなかった。
白村江の戦いのあとに唐・新羅の連合軍は来なかったし、その後の元寇でもここまで攻め込まれることはなかったからだ。
その後の水城は軍事施設としての役目をいつの間にか終えたのである。
土塁には木が生い茂り、名所図会に書かれるような場所になっていった。
……しかし水城が無駄だったわけではない。
大野城や水城で筑紫平野への守りを固めたかつての日本人は思ったのだ。
「この硬い守りの奥側で政治やるべきだよね?」と。
そういうわけで水城の先に設置されたのが、九州を統括する行政機関として500年機能することになる『大宰府政庁』である。
ここまできたのだからそれも見ておかねばなるまい。
まだ足はいけそうだ。
これが最後のひと踏ん張り。
行こう。大宰府政庁に。
次回へ続く……!!
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