【つながる旅行記#213】大野城の遺構に当時の必死さを想う
前回は見事水瓶山に登頂し、伝説を知った。
とはいえ実は水瓶山は登山スタート地点みたいなものである。
ここから更に山の中へ入っていく。
いやはや思った以上にしっかりと山だ。
というか松山城などの山っぽい場所を除けば、自分がまともに登山をしたのは#124の富士登山まで遡る必要がある。
そろそろもう少し高い山に挑戦するのもありかも……?
良い苔だ……!!
苔も調べたら楽しそうな世界なんだよな……と思いつつ、着実に歩を進めていく。
季節は3月なのだが、運動して暑いのでもうすっかり腕をまくっている。
そして唐突に視界が開けた。
目の前に広がっているのは福岡市とは逆方向の筑紫野市の風景だ。
この先には筑紫平野という広大な平野が広がっている。
そして筑紫平野はクリークという名の水路が有名らしい。
クリークは昭和初期以降に広まった「堀」を表す言葉なのだが、「水路」や「運河」でも用いるようなので使い方としては正しいようだ。
なお、自分はクリークと聞くと下町風俗資料館にあった南京虫捕獲器が浮かんでくる。
しかしまさか2023年になって、また日本で南京虫が猛威を振るう可能性が出てくるとは思わなかった。
そしてこの山には、『大野城』という古代山城が築かれていた。
戦国時代の山城とかではなく、もはや作られたのは日本書紀に書かれるくらい昔のことだ。
そう、この前愛媛県の卯之町で永納山城のジオラマを見てきたが、それと同じく白村江の戦いの後に作られた山城が『大野城』なのである。(665年)
自分は全然想像したこともなかったが、思えば確かに戦に負けた後は追撃に備えるのが普通なのだ。
そんなわけで白村江の戦いで敗北した後の日本は、その後の唐・新羅連合軍の日本襲撃に備えるため、防備の強化を迫られることになる。
特に福岡なんて朝鮮半島はすぐそこなので、相手が攻めようと思ったら間違いなくやってくる土地だ。(実際元寇でも来るし)
大野城の場所は筑紫平野への入り口のため、ここを抜かれたら敵軍に平野部に入り込まれてしまう。
そう考えると大野城はなかなかの重要拠点だったのかもしれない。
そんなわけで、日本は憶礼 福留(おくらい ふくる)や四比 福夫(しひ ふくぶ)などの亡命した百済人の協力を得て、大野城を始めとしたかなりの数の山城を作った。
この山城の数とあからさまに都までの防備を固める様を見れば、当時の日本がどれだけ唐・新羅の日本侵攻を国家存亡に関わる危機だと思っていたかがわかる。
とはいえ結果的には、新羅が朝鮮半島を統一した後に唐と仲違いしたため、唐・新羅の連合軍が日本に攻めてくることはなかった。
しかしこの一件によって日本の中央集権化が加速度的に進むのだ。
やはり危機感があるからこそ世の中は変わるらしい。
そんな大野城に残る礎石がこちら。
昔はこの辺りに建物も建っていて監視員が常駐していたのだろうか。
……なんだか妄想が捗る。
近くに城門の跡もあるらしいのでちょっと行ってみよう。
……なんだかぽっこりした2つの物体があるが、これが城門跡らしい。
今はこんな感じだが、当時はここに木で作った立派な門があったのだろう。
そして辺りをよくみてみたら、しっかり石垣もあった。
こんな感じで土塁と石垣で山をぐるっと取り囲んでいたのが古代山城らしい。めちゃくちゃ作るのが大変そうだ。
相手がいつ攻めてくるかわからなかった以上、当時の人達は必死に築城したんだろうな……。
さて、というわけで道路に出た。
いや実はこの大野城、バッチリ道路が整備されており、自分みたいに山道なんて登ってこなくても気軽に来れる場所なのだ。
では道路に感謝しつつ、大野城を更に巡っていくとしよう。
まだまだこの山には見どころがいっぱいあるのだ。
次回へ続く……!