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【つながる旅行記#65】下町風俗資料館 「クリーク」と規格外の名人「ツヤ子」
【前回のあらすじ】
新規開通した北海道新幹線にさっそく乗り込み、やってきたのは上野。
上野の桜を楽しむという目標は、人混みに酔って早々に崩れ去る。
逃げるように下町風俗資料館に向かったが……?
![](https://assets.st-note.com/img/1662370223247-ErBJNi1wba.jpg?width=1200)
下町風俗資料館に入った。
そして下町風俗資料館から出てきた。
中の雰囲気を知りたい方は、以下のサイトをご覧いただきたい。
中は東京の昔の駄菓子屋や一般家屋などが再現されていて面白かった。
一方で、自力健康器という複式呼吸補助器具で大概の病気は治るといっていたりなど、昔のハチャメチャな商品も色々展示してあるので興味深い。
(今の時代も、謎の理屈で病気が治ると言っているものはいくらでもあるので、昔を馬鹿にはできないが)
※自力健康器 参考↓
しかし自分の中で一番印象に残ったのは『虫事情』だ。
首都東京、めちゃくちゃ虫相手に困っていたらしい。
まずは南京虫。
南京虫はトコジラミのことで、昭和初期に貿易が盛んだった神戸で流行し、瞬く間に大都市の大阪や東京にも伝わった。
トコジラミは吸血してくるのに加えて、めちゃくちゃかゆくなるらしい。
しかもシラミとか名前についているが、実はカメムシの仲間なので臭い。
嫌がらせにもほどがある。
現代においてもかなり厄介な存在らしく、下手に薬剤を使うと隙間の奥に隠れてしまい、駆除が難しくなるらしい。
そんなトコジラミ対策として、資料館には『クリーク』というものが展示されていた。
細長い長方形の箱の蓋を開けた感じの形状で、中にはツルツルしてそうなシートが貼ってあるアイテムだ。
展示の説明書きにはこうある。
クリーク
昭和10年代
南京虫除けの道具。敷布団の縁に差し込み、布団全体を取り囲むように置く。内側に落ちた南京虫が這い上がれないようになっている。
説明書きを読んでも正直よくわからない。
敷布団の縁に差し込む……?
布団を取り囲むように置く……?
あまりにわからないので、動画でもないかとYoutubeで検索するも、最近のトコジラミ退治動画しか出てこない。
昭和初期のトコジラミ対策グッズの動画なんてニッチすぎるか……。
仕方がないので文字ベースの何かがないかを検索するも、自分の貧弱な検索スキルのせいなのか、ろくにヒットしない。
かといってクリークだけではワンピースのドン・クリークと、ウマ娘のスーパークリークだらけになる。
そんなこんなで苦労しつつ、どうにか見つけた「うたのすけの日常」にある文章を以下に引用する。
【南京虫をご存知ですか 2006-12-8記】
もちろん戦前の話です。あたしがまだ小学校に就学する前のことです。夏のことで、最初は蚊に刺されたぐらいに、両親もみな軽く考えていたのですが、かゆみが尋常ではない、刺されたあとがペアで残る。夏のことで浴衣の寝衣の手足の露出した部分がおもに刺される、そんなことから母が物識りでとおっている客にきいて、それは南京虫の仕業であると判明した。
(中略)
それはともかく対策をこうじねばならない、(中略)蚊帳を吊ったあとに、その周りをぐるっと50センチほどの細長い箱ですき間をつくらず囲むのである。その箱はクリークという名前で市販されていたのだから、南京虫は住宅の密集したところでは、その発生は日常のことだったのだと思う。
その箱だが外側はなんの変哲もない白いボール紙、中側に工夫がある。といってもそんな大層なものではない。つるつるとした紙が貼ってあったか、塗料が塗ってあったかどちらかである。
(中略)
夜中に進入してきた南京虫は、箱の外側を伝って中に落ちます。後は行くにも戻るにも滑ってクリークの中に、身動きを封じられ、翌朝水の入ったバケツに投げ込まれるといった案配です。
どうやら確かにクリークは使われていたし、機能していたらしい。
ちなみにクリークの名前の由来は「堀」。
トコジラミが落ちて出られない機構を思えば、ベストな名前と言える。
使い方の「敷布団の縁に差し込む」というのは未だになんなのか自分は理解できていないが、布団の周りに置いて、近づいてくる南京虫を堀(クリーク)でガードしている様子はなんとなく想像できる。
しかしこんな守勢に回る商品があったということは、当時はトコジラミはなかなか本格的な駆除ができなかったのかもしれない。
今でもかなり厄介という話もあるし。
そして次はハエだ。
昭和初期の東京では「蝿取りデー」が毎年夏に開催されていた。
デーとか言っているが実際には一週間行われる。
こんなことを開催しなきゃならないレベルで蝿だらけだったということだ。
市民には蝿入袋が配られ、その中に蝿を入れて提出する。
今そんなことをやったらと考えると、かなり異常なことのように感じるが、当時はそこまでの事情があったのだろう。
昭和14年開催の蝿取デーで見事捕獲数一位に輝いたのはツヤ子夫人。
捕まえた蝿の総数はというと、
『32万匹』
さ……さんじゅうにまん……?
ちなみに一週間でこれなので、一日に4万5000匹捕まえている。
1時間に2000匹。60秒で33匹。周囲に死骸でもあるのか?
ハエ取り名人、ツヤ子夫人の話では「どこにでもあるガラス製のハエ捕り器に、石鹸水を入れて魚のはらわたを入れておくとこうなる」という。
(なるかなぁ……?)
![](https://assets.st-note.com/img/1662375262715-MbC0JefVTT.png)
このハエ取り器を庭の2箇所に置くと、
たちまちのうちに真っ黒になるほど捕れるとのこと。
あまりに捕れてるので警視庁が調べに来たらしい。
当時の東京、どんだけハエまみれだったんだろう……。
しかし新聞記事を見ると、ツヤ子夫人の家は清潔な街の中にあり、家にもハエはいなかったとのこと。
ツヤ子夫人が捕りすぎて街のハエを消滅させたのか?
しかしツヤ子夫人は”毎年”20万匹ものハエを警視庁に持ち込んでいるという。
……謎は深まるばかりである。
でも正直ちょっとコブラ効果かなと思わなくもない。
実はハエを育てていたんじゃないかとかそういう。
東京と言うと、江戸時代のリサイクル社会だの、世界最大の人口だの、なんだか江戸メインのいい感じの話ばかり仕入れていた自分だが、戦後の東京はかなりカオスなことになっていそうだ。
人が集まればゴミも出るし、なんかこう色々出る。
日本にもそういう時代があったんだなと気付かされた。
今の環境に感謝だ。
自分はトコジラミとハエに悩まされる生活は耐えられそうにない。
そして今回は書かなかったが、ネズミやら蚊やらの被害も当然ある。
過酷すぎないか? 昭和初期の東京……。
なんにせよ、良い学びの機会になった。
下町風俗資料館に感謝を。
次回へ続く…!
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