【つながる旅行記#135】十和田と新渡戸家(新渡戸記念館)そしてバラ焼き
前回に引き続き、十和田市をゆく。
……もう夕方だ。
夏なので日は長いが、今から行く場所がラストだろう。
たどり着いたのは巨大な鳥居。
では中に入ろう。
『太平洋の橋』……?
説明板を読むと……
札幌農学校を卒業した新渡戸稲造が東京大学に進んだ際、
「太平洋の橋になりたい」と言ったらしい。
そしてその後実際に国際人として活躍し、著作の「武士道」を通して日本人の精神性を海外に伝えた新渡戸稲造。
確かに国を繋ぐ橋になったのだ。有言実行である。
あと、これを見るに東京女子大の初代学長だったらしい。
今まで時計台や北大博物館で新渡戸稲造情報には触れてきたはずだろうに、初めて知ったぞ……?
教育関連においては他にも色々な学校の校長にもなっており、次の五千円札になる津田梅子の津田塾の顧問として関わってもいる。
新渡戸稲造は日本における女性の教育に深く関わりがあるといえそうだ。
というわけで、ここは新渡戸記念館。
前々回でチラッと紹介した、十和田市(三本木)と新渡戸家の関係を伝えるための場所だ。
中に入ると、銅像が何体か見えた。
こちらは先程エピソードを紹介した、新渡戸稲造。
なんだかシュッとしてかっこいい。
お次は……
こちらは新渡戸十次郎。
三本木開拓の祖である新渡戸傳(つとう)の長男であり、新渡戸稲造の父。
軍事に秀でており、あの函館台場にも携わっている。
傳と共に三本木の開拓に尽くした。
しかし開拓に伴うあれこれで悪化した領内の財政再建のために絹をフランスに売ろうと提案したところ、「国内のものを外国に渡すなんてけしからん!!」という理不尽な理由で蟄居させられ、失意のあまり47歳で病死する。
その後の日本は、絹の輸出で莫大な外貨を得るというのに……。
では、最後は……
こちらが三本木開拓の祖、新渡戸傳(つとう)。
生まれは岩手県の花巻。
14歳から毎日、死の直前まで日記を書き続けたという。
そのおかげで三本木開拓の様子やその時の心情などが今に伝わっている。(新渡戸傳一生記)
若くして十和田湖周辺の木材を江戸に売って大きな利益を得たりと、傳は商売人としての才覚があったようだ。
だが三本木の開拓は一筋縄ではいかなかったようで、息子の十次郎、そして孫の七郎が中心となってどうにかこうにかやりぬいた。
特に資金難はもう大変だったらしく、回収不能になった不良債権を個人で代弁したのが、あの新1万円札になる渋沢栄一だったりする。
思えば十和田には北里大学のキャンパスもあるので、新千円札の北里柴三郎にも関わりがあることになる。
今回のエピソードでまさかの新紙幣のメンバーをコンプリートだ。
思えば、一族三代の銅像が並ぶなんてなかなかない光景だ。
それほど十和田市にとって重要な人物ということなのだろう。
しかし残念ながら記念館に入ることは出来ない。
さらにいえば……
2015年に十和田市は建物の耐震強度不足という理由で、市の施設としては廃止することを決定した。
その後、記念館の廃止を巡って最高裁まで裁判が行われたりと、なんだか凄いことになっているらしい。
果たして記念館はどうなるのか……。
(そして今はどうなったのか)
というわけで、観光を終えてスマイルホテルに到着。
いやはや、芸術と歴史を楽しんだ一日になった。
あ、そういえば食事の無料券をホテルから貰ってたな。
シャワーを浴びたら指定の場所に食べに行ってみよう。
指定の店、めっちゃ居酒屋だった。
あの、自分一人なんですけど……。
まあ入るか。(タダだし)
チケットを渡して頼んだのは、「十和田のバラ焼き定食」。
どうやらこれが十和田のご当地グルメらしい。
まあでも牛バラ肉を焼いただけだし、めっちゃうまいわけでも……
ウマーーーーーーイ!!!!
なんでか知らんがこれめっちゃ美味いな!!
さっきまで周りの大所帯の視線が気になっていたたまれなかったが、そんなことがどうでも良くなるくらいに美味い!!
思わず食べたあとに写真を撮ってしまったくらいだ。
思えばここは居酒屋なので、酒を飲まない自分は無料券でも貰わないと近づくことはなかっただろう。
しかし入ったらこういう美味しいものに出会える可能性もあるのだ。
うーん……これは孤独のグルメのゴローちゃんのように、酒が飲めなくても食事目当てに居酒屋に入るべきなのか……?
いやでもお通しがなぁ……。
……そんなこんなで、十和田の夜は更けていく。
明日は早起きしないと。
次回へ続く…
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