【つながる旅行記#274】『フェルケール博物館』で知る清水港と静岡のお茶
前回は靖国神社に立ち寄り、遊就館の圧倒的な展示の量に驚愕しつつ、ソフトクリームをいっぱい食べた。
沼津から伊豆、さらにそこからの東京観光という盛り沢山な旅行を終えた自分だったが、その後実家へ帰って色々とゲットしてのんびり過ごしていた。
そして……
今は謎のイケメンを見上げている。
そう、自分はまた博物館に来ていた。
いや実家はとてものんびり出来ていいのだが、自分は帰省したとしても家に引きこもってネットをして終わる習性があるのだ。(外へ出ろ)
田舎はどこへ行くにも車が必須なため、ハイパーペーパー免許の自分はその環境に全く適応出来ておらず、自然とそうなってしまう。
そして自分はそれが勿体ないと一応思ってはいるし、だからこそあまり実家に帰省しようというモチベーションが湧かない。
……あぁ、自転車で動ける範囲に博物館があるって良いなあ。
(まあ自分が車を使うようになればいいだけなのはわかっているのだが)
それはともかく、ここは『フェルケール博物館』。
静岡県清水区にある博物館だ。
どんな博物館なのかというと、元の名前が「財団法人 清水港湾博物館」というだけあって、清水港に関するものを中心とした展示が行われている。
清水といえばサッカーの「清水エスパルス」だったり、「ちびまる子ちゃん」の世界の舞台であることや、景勝地の「三保の松原」などが有名だ。
だが自分はあえての清水港である。
展示を見ると、江戸時代の湊について書いてあった。
この頃は千石船での廻船業が主体だ。
清水からは炭や薪、そしてお茶などが移出され、甲斐や信濃の年貢米が富士川を下って清水湊に運ばれていたらしい。
しかし徳川家康に与えられたこの廻船業の特権は、明治維新とともに廃止されることになり、目線は海外へと向くことになる。
どうやら生糸に次ぐ輸出品として、お茶は重要な立ち位置を占めていたらしい。
ちなみにお茶は清水港から横浜港に船で持っていき、そこから海外へ輸出していたそうだ。
だがこの横浜を介したお茶の輸出というのは、現地のお茶農家が全然儲かってないという大きな問題があった。
当時お茶の輸出を担っていたのは外国人の貿易商社であり、静岡のお茶は一旦この貿易商社に売られ、外国資本の工場で仕上げされたあとに輸出するという流れになっていた。
だが外商にお茶を売る際にも問屋がマージンを取るし、
外国との間には不平等な関税もあったし、
外商は粗悪茶を混合して利益を増やそうとするし、
外国資本の工場で働かされる女工は凄まじく過酷な労働状況だったり…
なんかもう多方面でろくでもない状況だったのである。
そして明治22年(1889年)に東海道線が敷設されると、静岡のお茶は鉄道輸送で横浜に運ばれるようになってしまい、清水から横浜へ向かう船の積み荷の量は3分の1に減少してしまう。
もはや港としてもヤバそうということで、清水町議会の若手議員が頑張った結果、なんやかんやで清水港は「開港外貿易港」の指定を獲得。
そして茶の再製やらあれこれの問題をどうにか解決し、港も整備して、明治39年(1906年)に念願の清水港からの直輸出が始まった。
なお3年後の1909年には、日本茶に関しては横浜の輸出量を凌駕するほどになったという。
いやはや、まさかお茶の輸出でこんな物語があったとはね……!
しかし今の状況を思うと、日本のお茶が海外向け商品として人気だったというのはなかなか意外な感じがする。
いまや日本の緑茶は国内消費が主体で、そのうえ輸入緑茶が圧倒的に多い時代なのだ。
……現代に生きる人間の思い込みをなにげなく解除してくれるのも、博物館のメリットなのかもしれない。
そんなことを思いつつ、次回へ続く!
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