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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第80回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載80回 辻元よしふみ、辻元玲子

※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。
 
 
クールビズの定番「ポロシャツ」と「アロハ」
 
スーパー・クールビズでも、Tシャツはオフィスで着るにはカジュアルすぎるとされる。それに代わって推奨されるポロシャツは、スポーツウエアが出自のものだ。フランスの名テニス・プレーヤーのルネ・ラコステが一九三三年に作り出したテニスウエアで、その後、ポロ競技の選手にも採用されてポロシャツの名で有名になった。第二次大戦後はゴルフやその他の競技でも用いられるようになり、今のように広まった。今でも元祖のラコステ社では、オリジナルに忠実な製品「L1212」を販売している。
さらに中央省庁などで、夏場にお奨めの服装がアロハやかりゆし。
夏と言えば付きもののアロハシャツは、元来、ハワイに移住した日本人が持ち込んだ和服の生地で仕立て始めた開襟シャツが原点といい、一九三〇年代にアロハシャツの名が記録に登場している。五〇~六〇年代の普及活動で完全に定着し、今ではハワイの正装として冠婚葬祭でも使用される地位にある。
「かりゆしウエア」は七〇年代に「沖縄シャツ」として沖縄の観光関係者が製作したのが原形で、当初は沖縄のアロハシャツ、と呼ばれ、あくまで観光促進目的のご当地アイテムだった。九〇年代になって、琉球語の「めでたい」の意味である嘉例吉(かりゆし)シャツと命名、沖縄のビジネスウエアとして普及した。
 
「中国渡り」のチノパン
 
節電ビズの推奨ボトムスの一つ、チノパンも相応の由来があるものだ。
十九世紀末の米西戦争の際、フィリピンでスペイン軍と戦った米軍が、防暑用衣服として、中国経由で入手した明るいカーキ色のコットン生地の軍服を採用。中国(チャイナ)渡りと言うことで、スペイン語なまりでチノーズと呼ばれたのが最初。以後、米軍では熱帯地服として正式採用した。
日本で広まったのは、一九四五年の真夏、マッカーサー元帥がサングラスにパイプ、チノーズ軍服の夏服姿で来日してから。以来、チノーズのパンツであるチノパンは、代表的なカジュアルパンツとして定番化したのである。
 
かつては正装だった「短パン」の復権
 
夏のパンツの決定版といえばショートパンツ、短パンだが、クールビズ運動の中でも、これはくだけすぎのため、ビジネスには不向きとされてあまり推奨はされていない。
しかし、本書でも見た通り、中世まで欧州ではタイツ姿が一般的で、ズボンを用いなかった。十五世紀頃からドイツ傭兵を中心にズボンが広まるが、これは半ズボンだった。以来、十八世紀まで、欧州では半ズボンが基本で、正装とされてきた。上流階級ほど半ズボンを穿き、高級な靴下と脚線を見せつけるのが常であり、長ズボンは農民の作業着と見られたのである。
ところが十八世紀末のフランス革命で、半ズボンは貴族的という理由で否定され、半ズボンを穿いているだけで迫害や逮捕の対象にすらなったため、急速に廃れた。その後、ナポレオンのフランス帝国では半ズボンが復活し、ナポレオン本人も帝位に就いてからは、公式の場で決して長ズボン姿は人に見せなかった。
こうしてしばらく半ズボンと長ズボンが混在する時代が続くが、十九世紀前半の英国で紳士の長ズボン、トラウザーズが定着したため、ここで完全に、男性が半ズボンを穿く習慣が廃れてしまった。
しかし二十世紀初め、在インド英軍が防暑服としてショートパンツを採用し、第二次大戦のアフリカ戦線で英独両軍が正式に採用、これを契機に復活することとなる。英領バミューダ諸島では正装扱いのため、ネクタイやジャケットと共に着用し、バミューダパンツの名でも知られる。
カジュアル的な着こなしとしての半ズボン、短パン姿が大っぴらに復権したのは戦後も一九六〇年代以後のことと言えるだろう。だが、今もって、公式の場で正装として着用するまでの復権は果たしていないことになる。
 


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