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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第54回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載54回 辻元よしふみ、辻元玲子

クロアチア兵、フランスに現る

ところで、クロアチア兵がフランスのブルボン王家に仕えるまではどういう経緯があったのだろうか。ここを分かっておかないで、フランスにやって来たクロアチア兵のスカーフがどうのこうの、といっても腑に落ちないのではないだろうか。
クロアチアは古くから王国として独立していたが、十三世紀にはハンガリーの同君国家、つまり同じ王様をいただく国となり、ハンガリーの属国のようなものになった。ただし、高度の自治権を与えられ、その支配者としてクロアチア太守(バン=BAN)が置かれた。
十六世紀にハンガリーはオスマン帝国の侵略を受ける。一五四一年に首都のブダが陥落。ハンガリー国家はほとんどがオスマン領に、一部がオーストリアに分割されてしまい、クロアチアはオーストリアの支配下に置かれた。クロアチア太守は自らの主権を守り、オーストリアから離れようと考えた。やがて独立を果たすべく、それまで長らくオーストリア・ハプスブルク家の宿敵であったブルボン家のフランスに身を寄せる決心をするのである。
一方、そのころのフランスはカペー家、ヴァロア家の王統が相次いで断絶し、遠縁から王家として擁立されたのがブルボン家である。だが、九歳で即位した二代目のルイ十三世(在位一六一〇~四三)の治世、という状態で、まだ安定した政権とは言えなかった。
実権はルイ十三世の母親、イタリアのメディチ家から乗り込んできたマリー・ド・メディシスが握り、スペイン・ハプスブルク家から政略結婚でやってきた妃アンヌ・ドートリッシュ(スペイン系であったが、ドートリッシュ=オーストリアの、と呼ばれた)には世継ぎが生まれなかった。有名な豪腕宰相リシュリューの登用はあったが、あの「三銃士」の時代である。宗教がらみのゴタゴタや諸外国の干渉で波乱含み、混乱した状況だった。
そんな時代に、最初のクロアチア連隊が乗り込んできたのが、書籍によって一六三三年とも三五年ともいう。傭兵というが、クロアチア太守自らが部隊を率いてきたのだから、賞金稼ぎや山賊上がりのような傭兵ではない。先述したように、国ごと挙げて正規軍が放浪しているようなものだった。
クロアチア兵がどれほど精強だったかというと、後のオーストリア継承戦争(一七四〇~四八)の際、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍の猛攻に耐えかねたオーストリア女皇マリア・テレジアのたっての懇望により、かつての行きがかりを度外視してクロアチア兵が参戦、見事にオーストリアの敗北を食い止めたほどである。おや、クロアチア兵にとっても、フランスにとってもオーストリアは仇敵だったのでは、と思われるだろうが、欧州の天地は複雑怪奇である。プロイセンが台頭してきた十八世紀半ば、それまでずっと仲が悪かったオーストリアとフランスは急速に接近し、ロシアも巻き込んで三国同盟を結び、プロイセンに対抗したのである。その蜜月関係から、後年、オーストリア出身のマリー・アントワネットがルイ十六世の妃となったわけだ。
そんな先のことはとにかく、まずはルイ十三世である。勇猛かつ精強で知られたクロアチア人部隊が、説によると六千人もやってきて「お味方いたします」というのだから、まだ政権基盤が不安定だった時期のルイ十三世は喜んだはずだ。
そのルイ十三世は、なかなか子供に恵まれなかったが、妃アンヌがついに妊娠して、待望の世継ぎであるルイ十四世が生まれるのは一六三八年のこと。となると、クロアチア兵が到来した一六三三年ごろ、後の太陽王はまだ影も形も無い。「ルイ十四世に仕えるためにやってきたクロアチア傭兵」などという記述は、上記の事実に照らせば間違いだろう。
従って「あれはなんじゃ」「クラヴァットでございます」というようなやり取りが実際にあったとしたら、話の主はルイ十三世、という結論になるはずだ。だが、近年の研究によれば、史実としてはそんな王様の一言で、クラヴァットという言葉が定着したわけでもないらしい。


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