『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第100回
『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載100回 辻元よしふみ、辻元玲子
※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。
◆ヴァルカナイズという名の共通点
東京・南青山に二〇〇九年、「ヴァルカナイズ・ロンドン」というお店がオープンして話題になった(二〇二三年現在も営業中)。英国を代表するブランドの商品が一堂に揃い、日本における「英国好き」の人たちにとって夢のようなショップとなった。このお店は英国の二つの老舗ブランドが中心となりスタート、その後、多くの英国ブランドが加わった。
初めに中心となった二つのブランドとは、トランクメーカーとして有名なグローブ・トロッターと、ゴム引きのコートで知られるマッキントッシュ(アップル・コンピュータではない)だった。
トランクとコートという、一見あまりかかわりがなさそうな両ブランドには、共通点があった。それが、店名の「ヴァルカナイズ」である。
◆靴のグッドイヤー・ウェルト製法とグッドイヤー氏
ここである一人のアメリカ人化学者の人生に立ち入りたいのだが、その前に、改めて靴の製法をご紹介しよう。かかわりが出てくるので遠回りながら触れるのである。
製靴法にも数々あるが、大きく分けてグッドイヤー・ウェルト式、マッケイ式、セメント式の三製法である、というのはファッションに関心のある人なら常識だろう。で、これらはいずれも靴底をアッパーの革にどうやってくっつけるか、の違いである。
セメント式というのが、今日どこにでも見られる一番、安くて普及しているやり方で、要するに接着剤で貼り付けるのである。買って数年もすると、突然、靴底がガバっと剥がれてしまう、という経験をした人は多いだろう。
グッドイヤー・ウェルトとマッケイというのは、ウェルトという細いヒモ状の革でもって縫い付けるため、とにかくいきなりガバっという悲劇は無い。縫い付ける革をダイレクトに靴底に通すのがマッケイ式で、イタリアの靴会社で多く使われ、比較的軽くて、履きやすいがちょっと耐久性に欠けるなどと言われる。グッドイヤー式の方はもう一手間、すくった革を外側でしばりつけることをするので、手間もかかるし、出来上がりも重くなる。しかし頑強で非常に味のある靴になる。ウェルトを解けば靴底を何度も張り替えることも可能だ。英国の靴はそもそも軍靴のために発展したのでグッドイヤー式が圧倒的に多い、という。
今回の問題は「グッドイヤー」という名前である。誰しも初めに聞いたときに、あのアメリカのタイヤメーカーの「グッドイヤー」社を思い浮かべるのではないか。結論から言えば靴の製法と、タイヤメーカーのグッドイヤーは直接のかかわりはない。が、まったくの無関係でもない。
タイヤメーカーのグッドイヤー社は、アメリカが生んだ偉大な化学者であるチャールズ・グッドイヤーにちなんで社名をつけた。しかし、グッドイヤー家と会社はまったく無関係という。チャールズ・グッドイヤーの子供にチャールズ・グッドイヤー二世という人がいて、こちらも父譲りの発明家だった。この二世が、英国で発達した靴の製造法を機械に応用して、大量生産できるような仕組みを考案した。それが現在の、靴のグッドイヤー・ウェルト式製法なのである。
◆薄幸の天才チャールズ・グッドイヤー
では、チャールズ・グッドイヤー(一世)氏と、グローブ・トロッターの鞄やマッキントッシュのコートはなんのかかわりがあるのか。この両社の製品の素材には「ヴァルカナイズド製法」という特殊な化学処理が不可欠なのだ。そのうちゴムに関する製法を発明したのが、チャールズ・グッドイヤーなのである。
チャールズ・グッドイヤー(一八〇〇~一八六〇)は、加硫ゴムを発明し、一八四四年に特許を取得した。それまで度重なる新製品の開発失敗で極度の生活苦に陥り、極貧の余り子供が栄養不良で餓死。債鬼に追われ数度の投獄まで味わった。
一八三九年の冬、ゴムに硫黄を混ぜたものが、誤ってストーブに触れた。するとゴムは溶けるのでなく焼け焦げ、弾力のある褐色の物体が残った。これが加硫ゴムの発明だ。それまでのゴムは熱に弱く、身の回りの実用品の素材にするにはほど遠い代物だった。
グッドイヤーは製法を秘密にしたままイギリスのゴム会社にサンプルを送付し売り込んだ。ところがこのために、一八四三年には英国で独自の加硫製法が確立され、翌年、グッドイヤーが慌てて特許申請をしたが、数週間の差で間に合わず、英国での権利は、得ることが出来なかった。
グッドイヤーは一八六〇年七月一日にニューヨークで死去した。負債は二十万ドルあったが、彼が得た多くの特許はその後、残された家族を潤した。こうしてその後、息子のチャールズ・グッドイヤー二世も発明家の道を歩み、グッドイヤー・ウェルト式の靴製造法を開発することになる。
実は息子だけでなく、チャールズ・グッドイヤー本人も靴の世界に貢献している。というのは、彼が発明した加硫ゴム製法でゴム底の靴、スニーカーが生まれたからだ。スニーカーの語源のsneakは「音もなくうろつく」という意味合いだ。
スニーカーの起源はブラジルの原住民の履物だが、一八三二年にウェート・ウェブスターという米国人がゴム底靴の特許を取り、グッドイヤーの製法の発明後に、加硫ゴムを使用したスニーカーの製造法を確立した。さらに、チャールズ・グッドイヤーの製法をゴム長靴に応用しようとしてフランスに渡った人物が起こしたのが、世界的なアウトドアブランドのエーグルである。
ヴィクトリア女王に雨の日用のブーツとして献上され、その後、男性用としても広まったサイドゴア(サイドエラステッド)ブーツも、ゴムが信頼性を増し、素材として幅を広げたことで誕生した。グッドイヤーの発明の副産物といえる。このように、チャールズ・グッドイヤーのおかげで、私たちの日常生活にはゴム製品があふれているのである。