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「東京混声合唱団第260回定期演奏会『闇から光へ』に行って人生が変わってしまったかもしれない」という話。

はじめに

これは演奏会を聞きに行ったことをつらつらと綴るものだ。最終的に5000字超のお気持ち表明文となってしまったが、今日はなんだかたくさんのお目怪我し0いいねツイートをしてしまいそうだったので、ノートにまとめることにした。演奏会に行って曲を聴いていない人には共感されないだろうし、そもそも専門家でもなんでもない外野の人間なので皆目見当違いのことをつらつらと書いてしまっているかもしれない。それでもはけ口として、そして今日もしかしたら人生が変わってしまった場合に変わってしまった日の記録として書くしか無かったので仕方なく書いている。本当にだれも読まなくていいが、最後のまとめの部分には自分なりの今の段階での音楽に対する思いを書いているので興味がある人だけ読んで貰えたら、そして万一それを伝えてくれる人がいれば怪物的に肥大している私の承認欲求が満たされてとてもいい気持ちになります。

それではまず、曲目を振り返っていくことにします。関係者の方には皆目見当違いなことを語ってしまっていたら申し訳ないです。呼んでくれている皆様もなんかほざいてるなぐらいのつもりで読んでください。

闇の中から徐々に手繰り寄せる「光」

1   "LUX AETERNA"  comp: Ivo Antognini
2   "Immortal Bach" comp: Knut Nystedt
3   "A Thanksgiving" comp: Bob Chilcott

最初の三曲については正直に言うと初めて聞く生の学校の合唱コンクール以外の合唱の響きにただうっとりとしていてあまりしっかりと聞けていなかったので語れることが少ない。もし自分がもっと合唱に精通していたのならばここも注目して聴けただろうことがとても悔しいが、音に浸るだけでも初めて感じる心地よさでこの演奏会に来てよかったと思えた。

一曲目Lux aeterna(永遠の光という意味らしい)は遠くにある光のようだった。そこから2曲目immortal bachはJS Bach作曲の「シュメリ歌曲集」から「Komm süßer Tod (来たれ、甘き死よ)」より初めの三行を用いて編曲されたものだった。

Komm süßer Tod       来たれ、甘い死よ
Komm sel’ge Ruh!      来たれ 祝福された休息よ
Komm, führe much in Friede.  来て、私を平安へと導きたまえ

プログラムノーツより

初めにバッハの原曲通りにこの初め三行(7小節)を演奏し、その後冒頭に戻り各声部が最初にKommを保つ時間を徐々に長くしながら2行目で全員で一旦収斂し、その後各声部が少しづつ遅れて最後の行を歌いきるという構造。短い曲だが祝福された休息(=死)をじっくりじっくり味わっていく感覚で強く印象に残った。

本当の曲の内容と合っているかは分からない(というか多分違っているが)、初めの3曲は様々な種類の「光」(永遠、死、感謝の祈り)を見せながら1曲目では闇の中にいる我々から遠くに小さく見えていた光を2曲目でじっくりと手繰り寄せて広げ、3曲目で暖かい感謝と祈念の光に包まれそうになるような感覚を持った。

1つ目の衝撃:Ecoute

4   "Ecoute" comp: Misato Mochizuki

3曲目が終わったところで一度合唱団と指揮者がはけ、会場が暗転した。合唱って気持ちいいな、次は何が来るんだろうーと思って待っていると黒服の方が舞台袖からバスドラムをころころと転がしてきた?!つぎにウィンドチャイム、そしてさっきまではなかったいくつもの譜面台と小物打楽器。一体何が始まるんだ?!

長めのセッティングが終わると舞台上ではなく客席の一番前あたりに置かれた指揮者譜面台のまえに指揮者が、そして男性の合唱団員二名がバスドラムの近くに立ち、指揮者とアイコンタクトと軽い頷きを交わした。

四拍子の予備拍がはじまる。すると1拍目でドンっとバスドラムが。数小節それが続くと側方から残りの合唱団員が「Ecoute (フランス語で「聞け」)」と囁きながら入場し始め三拍目裏(多分?)にライターをカチッ、様々な小物楽器による音数が増えていく。

しばらくして楽器の音だけでなく声も厚みを帯びると楽器の音は止み、歌のみの表現が続く。この曲はビラゴ・ディオップによる以下の内容のフランス語の詩を元に作曲されている。(長いので第一連だけで失礼します)

聞くのだもっと
存在よりも物たちを。
火の声が聞こえる、
水の声を聞き取れ、
風の中で聴くのだ
嗚咽する茂みを。
それは先祖たちの気のそよぎだ…

プログラムノーツより「Souffles」の作曲者による訳詩

「実在のものよりも、あらゆるものの中に潜む先祖の気のそよぎ・息遣いを聴け」ということらしい。日本では八百万の神と言われてよくある神道的な発想ではある(し、実際作曲者はそこに日本との親和性を感じ作曲に至ったらしい)が、海外では珍しい発想だと思われる。

原詩は第1連が最終連とほぼ同じ内容になっていて、ほぼ左右対称な構造となっており、楽曲自体も最初Ecouteと囁きライターなどを点けながら入ってきた合唱団員が最後長いdecrescをしながらフェードアウトしていく。合唱だけの盛り上がりが続きどんどんフレーズの絡みと和音が複雑になっていき、ちょうど真ん中辺りで一瞬だけ音が全て収斂し、短い長三和音が鳴り響き、また対称的に音がだんだん静かにシンプルになっていく。余談だが、私はこういう大きい一本の流れが見える音楽がフェチ的に好きで、例えば私が一番好きな吹奏楽コンクールの課題曲Vは2017年川合清裕作曲の「メタモルフォーゼ〜吹奏楽のために〜」も似たような構造である。

話の流れの中に上手く含められなかったのであとがき的に書くが、ほかにも特筆したい点が2点あった。ひとつは、初めて聞くウィンドチャイムの使い方。さらさらと魔法にかけるような音で使うのが一般的だが、鷲掴みにしてガラスが割れるような音で使用されるのを聞いたのは初めてだった。固定観念って良くないですね。もうひとつは、特殊楽器のほかにも照明が使われていたことだ。
実は私はこの類の「飛び道具的演出」を含んだ楽曲をあまり好まない。特殊楽器や特殊奏法は初めて聞く分には面白いかもしれないが、多くの場合「面白いことをするためだけ」に含まれているように感じられる。それだけなら必要性がないだけなんだからやればいいじゃんと思われるかもしれないが、私はノイズになる場合が多いと感じるのであまり好まない。しかし、この曲(そしてまとめでも書くと思うがこの演奏会全体を通して)照明や飛び道具的演出がノイズになっていることが一回もなかったように感じた。

一つ目の衝撃は好奇心をくすぐるものだった。これまで主に吹奏楽とオケを見てきた自分にとって合唱ってこんなに新しいことが沢山できて、しかもそれがノイズにならないのか!!なんて無限の可能性を秘めているのだ!!!

二つ目の衝撃:二つの祈りの音楽

5  二つの祈りの音楽 混声合唱とピアノ連弾のための
comp: 松本望

休憩時間私は前半を聴き終えた感動が抑えきれずソワソワしていた。息を荒らげながら0いいねツイートをし、ロビーをウロウロしていてかなりの不審者具合だったと思う。後半がはじまる5分前にやっと多少落ち着きを得て席に戻り、後半の分のプログラムノーツをまだ読んでいないことに気づいて急いで読み始めた。

当時のプログラムノートを読み返してみると、この曲を作曲する数年前から"祈りの音楽を書きたい"という思いが自分の中にあったようだ

プログラムノートより

なんだかわからないが、この書きぐさだけですごく期待感が高まった。なんというか、嘘がない感じ。ものすごく高い理想を持っていてもそれを嘘0にするのは難しいことだと思うがなんだかこの言い方は全部本当に聞こえるし、この人の言うことなら信頼出来るという感じがする。(俺だけかな?)

曲の構造は至ってシンプル。1. 夜ノ祈リ 2. 永遠の光の二曲からなる組曲でわかりやすく闇→光、そしてそれぞれの中での祈りを描いている。この曲の演奏についての話をメインに書こうと思ってこのノートを書き始めたのだが、自分の文章力が足りなくてどうやっても感動を言葉にできる気がしない。何を書いてもこの気持ちに対するノイズになってしまうように感じる。(じゃあなんで書いているんだよというツッコミはさておき)、あえて言語化するとするならこの曲で感じたのは好奇心の衝撃のその先にある感情の衝撃だったと思われる。

ということで、曲の説明にかえてプログラムノートに掲載されていた作曲家の言葉から抜粋

現実世界に、闇の先の光はあまり見えてこないが、音楽によってその光を想像してささやかな希望を持てるならば、それもまた音楽にできる大事なことの一つなのだと思う

松本  望

まとめ:演奏会とはなにか、名演とはなにか。

今回私がどうしてもこの気持ちを記さなければならないと思ったことには理由がある。それは自分が漠然とと想像していた良い演奏会、名演というものを具現化されたような気持ちになったからだ。

ブラアカで指揮者になり、アマチュアながら演奏会を作る側の立場になり、どういう演奏会では自分は良い気分で帰ることができ、どういう演奏会はそうでは無いのか、ということを考えるようになった。そして7月に初めて新国立劇場に足を運び、『ペレアスとメリザンド』を観劇した際、演奏自体ももちろん素晴らしかったが、新国立劇場という場自体の魅力も感じ、演奏会とは演奏だけでなく、そこに関わるあらゆるものが絡み合ってひとつの大きな場としての、音源にはない魅力があるべきだと漠然と考えてきた。

今回の演奏会はまず、プログラムが非常に一貫性がある。前述したように最初の3曲で徐々に遠くの光を手繰り寄せ、4曲目の一発目のバスドラムで一気にもう一度闇の中へ突き落とされ、闇について考えさせられる。休憩後の二つの祈りをちょうど谷折り線として、闇→光をみせ、最後の曲(字数が長くなりすぎて詳述していなくて申し訳ない)で若者/戦後という光に焦点を当てた楽曲でしめくくる。
また前述したEcoute以外の曲でも照明や体や動きを使った様々な演出がなされていたのも非常に効果的だった。楽曲の意味合いともリンクしており惹き込まれるものになっていた。監修の信長先生には頭が上がらない。

私はあまり飛び道具的な演出を伴う演奏会を好まないと書いたが、今回は一切ノイズになっていると感じず、むしろ全てが魅力的に感じた。その要因は全ての演出に必然性があったからだと思う。ただ曲にあった色の照明や動きがなされていたのではない。その演出がないとこの演奏会というひとつの大きな作品の意味合いがフルに表現しきれないからそこにその演出が加えられていたのだ。

これが私の追い求めていた、場全体として楽しめる演奏会だと思った。曲目の中に一貫した理念とストーリーがあり、演出もそれをフルに表現するために必要なものとして加えられる。プログラムの言葉やデザイン、もっといえばその分厚い紙質さえもこの演奏会の魅力に寄与しているように思えた。これは本当に良い演奏会だと思った。

そして演奏自体にも力があった。それは単に美しく感動するものでは無い。人生観が変わるような感覚になる演奏だった。まだいまの段階で具体的に何が変わったかは言語化出来ないが、少なくとも自分の中での良い演奏の中に求めるもののレベルは格段に上がったような感覚になっている。

良い演奏とはどういうものかを指揮者になってから断続的に考える時間があるが、これが今の中での自分の答えだと思う。本当に良い演奏会に行った時はなにか人生観が変わった感覚になる。これまで覚えたことの無い種類の感情の動き方をする。そして一瞬だけなにか本質的なもの・音楽/人間の核に触れられたような感覚になる。

この感覚はもっと多くのひとに味わって欲しいとその度に思う。自分にその力があるのなら一度でも良い、ほんの些細なことでも良いから人生観が変わったと思われるような演奏がしたい。それが出来たらいつ死んでも構わない。なにか世界に自分の存在意義を残せたような感覚になるから。

帰り道は音楽も聞かず、読書もせずに帰った。この感情に対する雑音を1ミリも感じたくなかった。

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