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応報縛荷(おうほうばっか)

 きっかけは些細な口論だった。

 とある映画作品の挿入曲についての賛否を話していたのだが、私は結末を是とし、友人である彼はそれを頑として認めなかった。

 互いに酒が入っていたのも良くなかった。

 小さかった些細なすれ違いが加熱していき、あっという間に燃え上がってしまった。互いに引くことが出来ず、譲れないまま口論となり、最終的には掴み合いとなった。店で飲んでいれば止めてくれる第三者がいてくれたかも知れないが、不幸なことに私の家で二人きりで呑んでいた。

 私たちは罵り合い、貶し合いながら揉み合い、ふとした拍子に相手がバランスを崩した。いや、事故のような言い方をするのはやめよう。恐ろしくなった私が彼を突き飛ばしたのだ。酔っていたこともあり、彼は大きくバランスを後ろへ崩して、テレビ台の角で後頭部をぶつけた。柔らかいものに固いものが突き刺さるような、酷い音がした。

「おい、大丈夫か」

 助け起こそうとして顔を覗き込むと、焦点の合わない瞳の奥にある瞳孔が、まるで花の蕾のようにゆっくりと開いていった。意思の火が吹き消されたように彼は死んだ。

 どろり、とした赤黒い血がフローリングの上に丸く広がっていく。見れば、鋭いガラス製のテレビ台の角が割れて、頸椎に突き刺さっていた。夥しい量の血が彼の体から出ていくのを、どうすることもできずに無感動に眺めることしかできない。

 私の部屋が酷く鉄錆臭くなってしまった。どうすべきか、などと考える余裕さえなかった。

 思わず、その場にへたり込んでしまった。

 こんなにも呆気なく人は死ぬのか。
 
 殺すつもりなどなかった。彼は同じ楽団の同僚であり、数年来の友人だ。これからずっと、この関係は続いていくものだと思っていたのに。

 そんな相手を私は図らずも手にかけてしまったのだ。取り返しのつかないことをした。しかし、彼の為にこぼれる涙は一粒もない。今の私の心を支配しているのは、己の保身だ。

「おしまいだ。何もかも」

 露見してしまえば、私の人生は終わる。演奏者として二度と公の場には立てないだろう。このまま理性に従って自首し、刑務所で罪を償って戻ってきたとしても、演奏者としての私は死んだも同然だ。まともに生きていくことなど叶わない。元犯罪者を受け入れてくれる楽団など存在しないだろう。

 そうだ。露見すれば、の話だ。幸いなことに目撃者もいない。隠蔽してしまえばいい。彼の遺体さえ出て来なければ、事件そのものをなかったことにできる。誰とも連絡がつかないまま失踪扱いになるだろう。

 不意に、脳裏をあの笛が過った。

 彼が海外へ留学した際に手に入れたという骨董品のフルート。昔から彼のことを知る人物によれば、あの笛を手に入れてから、彼の演奏は別次元のそれへと生まれ変わったという。
 あの繊細で美しい、味わいのある音色があればこそ、彼は多くの演奏家に認められたのだ。あれを自分のものにする千載一遇の機会ではないか。

「……そうだ。あの笛は死人にはもったいない代物だ」

 私は彼を放置したまま、手袋をつけて彼の鞄の中を物色した。
 今まで何度も彼に笛を譲ってくれないか、と頼んだことがあった。家財の何もかもを売り払ってでも欲しいと懇願する私の頼みを、彼は頑として聞き入れてはくれなかった。一度は諦めた。だが、あの笛のことがどうしても忘れられなかったのだ。

 しかし、幾ら探しても笛は見当たらない。昼間の練習では使っていた筈だ。夜までの間に一度、家へ帰って自宅へ置いてきたのだろうか。

「くそ、余計な真似を」

 思わず爪を噛む。

 とりあえず彼の遺体を隠すことを決めた。このままリビングに置いておく訳にはいかないし、万が一向かいのアパートの住人から見られたらすぐに発覚してしまう。

 ポケットに入っているものを確かめると、運転免許証と家の鍵、それから携帯電話が出てきた。免許証入れには保険証も一緒に入っている。

 既に頭からの出血は止まっているように見えた。
 半開きのまま閉じない彼の視線を遮るようにビニール袋を頭部に被せてから、口を軽く縛る。
 ぐったりと横たわる死体を、しばらくぼんやりと眺めた。
 それから頭の後ろと膝に手を入れて身体を抱え上げる。成人の男にしては小柄な部類だったが、死体になっているせいか。想像していたよりも遥かに重かった。まるで湿った土の詰まった人形のようだ。

 どうにかユニットバスの浴槽へと彼を下ろして、冷水を溜めていく。季節が冬とはいえ、少しでも冷やしておいた方が腐敗するのも遅くなる筈だ。

 頭に被せたビニール袋を、今更外す気にはなれなかった。口の中に水が注ぎ込む度にゴボリと鈍い音がしていたが、やがて肺に水が溜まったのか、それすらも聞こえなくなった。

「君が悪いんだ。あれくらいで転倒する方がどうかしている。おかげでこっちはいい迷惑だよ。まぁ、迷惑料は貰うから化けて出てこないでくれよ」

 ほんの少し前まで話をしていた友人が死体となり、私が普段使用している浴槽で冷たく横になっている。その奇妙な光景が、まるで現実を感じさせなかった。

 私は水が風呂の縁から溢れ出ていくのを確かめてから、蛇口を絞り、水が僅かに流れるように調整した。澱むとよくないような気がしたからだ。
 それからリビングへ戻り、彼の血液を全てバスタオルで拭きとっていった。念のため、アルコールでも消毒しておいたが、どれほどの効果があるのか分からない。血塗れのタオルをそのままゴミ捨て場に出す訳にはいかないので、洗濯機で一度洗ってから可燃物としてゴミに出すことに決めた。

 そうして、ようやくひと段落つく頃には、すっかり深夜を回ってしまっていた。いつもならとっくに床についている時間なのに、眼が冴えてまるで眠くならない。

 鞄の中身を改めて確かめると、彼が普段から使っている手帳とタブレット端末、長財布が出てきた。なんとなしに手帳にざっと目を通してみると、あちこちに督促状という文字が書きこまれていた。内容を読む限り、彼には多額の借金があったらしい。

 そういえば彼はしっかりしているように見えて、金遣いが荒いという一面があった。貸した金はまず戻ってこない、というのが仲間内での評価で、実際にお金に関しては酷くルーズだった。借りた金を返さないまま、人間関係を終えてうやむやにしてしまうのだ。楽団の後輩にまで金を借りるようになり、厳重に注意を受けたこともあった。

 そんなだらしない男なのに、彼のフルートの音色は抜群だった。彼の演奏に嫉妬しなかったフルート奏者はいないだろう。もっと大きな楽団で活躍していても不思議ではなかったが、なにぶん性格に難があったように思う。

 改めて手帳の内容に目を通してみると、スケジュール帳というよりは雑多なメモ帳のようだった。書き込んである字も走り書きのようで汚い。これほど大雑把な書き方では本人も後から見るときに困るだろう。簡単な日記も兼ねていたのか、楽団の上司たちに対する愚痴が目立つ。
 その中に、不穏な言葉が綴られている箇所を見つけて頁をめくる指が止まった。

『もう限界だ これ以上、逃げることはできそうにない』

『因果応報だろうか それでも私はまだ演奏家として生きていきたい』

『手放すべきだ』

 そんな中、今月のスケジュールの書き込みの中に気になるものを見つけた。一際目立つように蛍光色のペンで線引きしてある。

『笛を質に入れる 屋敷町の夜行堂』とあった。

 質に入れる、という言葉が矢印で今日の日付のスペースに書き込んである。酷く嫌な予感がした。まさか、という思い頭を過ぎり、手帳を放り捨てる。

 慌てて鞄の中を漁って財布を手に取ると、異常なほどずっしりと重かった。中を確かめると一万円札が財布いっぱいに詰め込まれていた。ざっと見ただけでも百枚以上あるだろう。鞄の外側のポケットからも折り畳んだ一万円札が大量に出てきた。

 私は信じられない思いで、鞄の中にあった全ての金をかき集めた。数えると二百万円ある。

「……冗談だろう。まさかたった二百万ぽっちで、あの笛を質に入れたのか」

 信じ難かった。演奏者にとって己の楽器以上に大切なものはない筈だ。自らの魂といっても過言ではない。それなのに、彼は唯一無二のそれを質に入れたのだ。取り戻す算段があったとはとても思えない。

「ああ、そうか。彼はあの笛に相応しくなかったのか。はは、そうだ。そうだろうとも。演奏家にあるまじき性根だ。死んで当たり前の人間だったわけだ」

 彼が今夜ここで命を落としたのは、定めだったのだろう。

 私は手帳を拾い上げて、改めて視線を落とした。どうやら屋敷町にある夜行堂という店に質入れしたようだ。無関係を装い、この金を持って買い取ってしまえばいい。そうすれば晴れて、私はあの笛の持ち主になれる。

 しかし、肝心の夜行堂という店の情報はいくらネット検索にかけても引っ掛からなかった。あまり有名な店ではないのか、あるいはネットにも載らないような古い店なのかも知れない。

 どちらにせよ、現地に出向いて自分の足で探すしかないだろう。

 あの笛を自らのものに出来るのだと思うと、堪らなく嬉しかった。

 廊下の暗がりに誰かが立っているような気がしたが、そんなことさえもどうでもいい。ベッドに横になって微睡んでいる内に、いつの間にか眠ってしまった。

        〇

 翌朝、降りしきる雨音に目が覚めた。

 時計に目をやると、既に時刻は昼前になっている。休日とはいえ、こんな時間まで眠るのも珍しい。昨夜のあれこれでよほど身体が疲れたのだろう。

 朝一で屋敷町へ出かける筈が、予定が狂ってしまった。そう思った瞬間、鋭い痛みが頭の奥を突き刺して、思わず目を瞑る。

「低気圧の日は頭が痛む。くそ、薬は切らすんじゃなかった」

 ベッドから降りて最初に浴室をそっと覗きこむと、ビニール袋を被った彼の顔が浴槽に半分ほど浸かっている。

「こっちも早く処置してしまわないと面倒だな」

 死体を遺棄する方法を幾つか考えてみたが、どれも現実的とは思えなかった。私は車も持っていないので遺体を運び出すことができない。山へ埋めることも、海へ沈めることも不可能だ。レンタカーを借りれば運べないこともないが、簡単に足が着いてしまうだろう。

「あとは小分けにして捨てに行く、か」

 彼を浴室で切り刻む様子を想像してみたが、とてもそんな面倒なことをしようとは思えなかった。そうした行為そのものに楽しみを感じられるような人間でなければ、まず実行しようだなんて思わないだろう。

「そうだ。ベランダから下へ落としてしまうのはどうだろう」

 事故死ということにならないだろうか。いや、検視をすれば死亡時間に狂いがあることがバレてしまう。おまけに二階から落としても、大した損壊にはならないだろう。

「面倒だな。ああ、面倒だ」

 とにかく歯を磨いて顔を洗い、身支度を整えた。彼のことをどうするかは、また後から考えるしかない。

 少しでも冷やしておこう、と思い、冷凍庫の氷をありったけ浴槽へ放り込んだ。彼は寒さに強い方だと普段から話していたが、どんな気持ちだろうか。やはり怒っているだろうか。だが、あれは不幸な事故だ。私が突き飛ばしても、彼が足を滑らせなければ死ななかった。自分が間抜けだったせいで死んだのだ。それでも、彼は私のことを恨むだろうか。

 一晩水に浸かっていたせいで、彼の手足は白くぶよぶよとしたものに変質しつつあった。このまま水ごと腐っていくのかもしれない。水を入れ替えるべきだろうか。

 玄関に鍵をかけながら、戻ってきたら綺麗さっぱりいなくなっていればいいのにと思わずにはおれなかったが、今更生きていても面倒だ。何もかも、あの笛を手に入れてから改めて考えればよい。

 昨日の天気予報が的中したらしい。明け方から降り始めたであろう雨が、未だに降り続いていた。

 傘を差してアパートを出て少し歩いたところで、背中に視線を感じて振り返ると、私の部屋の前にビニール袋を被った彼が立っていた。白く煙る雨の向こうに立ち尽くし、じっとこちらを見ている。

 息を呑んで瞬きをした瞬間、彼の姿が消えた。

 幻覚だろうが、なんだか妙に生々しい。私は眼鏡をかけていても視力はそれほど良くないので、普通ならあの距離に立つ誰かなどよく見えない筈だ。それなのに一目で彼だと分かったのは何故だろう。

 恨みを持って死んだ人間は化けて出る、というが、私は恨まれるようなことはしていない。あれは不幸な事故なのだし、笛についても彼が自分で質に入れたのであって、私ではない。質に入れたということは、返せなければ流れることを承知したということ。初めから質料を返す気があったとは思えない。

 それから屋敷町への道中、何度もひっそりと佇む彼の姿をあちこちで目にした。それは自動販売機とゴミ箱の間であったり、電信柱の影であったり、路上に駐車された車の後部座席だったりした。

 私は死者の幽霊なんて信じていない。こんな幻覚を私が見てしまうのは、きっと私自身でさえ自覚していない罪悪感からくるのだろう。

 だが、こんなものは所詮幻に過ぎない。

「そんなものがなんだというんだ。くだらない」

 文句があるのなら直接言えばいい。そう思った瞬間、昨夜の口論の内容が脳裏を過ぎった。

 アカデミー賞を受賞した映画のラストシーンに挿入された歌の演奏について、私たちは全く違う意見を抱いていた。思い返してみれば、実にくだらない内容だが、お互いに引き下がることができなかった。

 演奏家が自分の感性を疑うようであれば、もう楽器を扱う資格はないと私は考えている。何処までいっても演奏とは表現なのだ。私という演奏家の心を通して解釈し、フルートを用いて表現するのが私の仕事だ。それを否定することは、私自身を否定することに等しい。

 だが、彼にはそんなものはなかったのだ。

 不意に、目の前を黒猫が横切っていった。鍵しっぽの猫が狭い路地裏へと進んでいくのを眺める。濡れるのを嫌う猫が、こんな日に外へ出かけているというのは珍しいことだ。

 特に理由もなく、私は路地裏へ進路を変えた。表通りにあるような店なら、何らかの形で検索に引っかかった筈だ。それがないというのなら、人知れない場所で店を構えているという方がよほど理屈に合う。

 屋敷町へやってくるのは初めてのことではない。過去に数回、この武家屋敷が多く残る古風な町並みを眺めて歩いた。川下りも一度だけ経験がある。近衛湖疎水までは足を伸ばさなかったが、あちこちの古書店や古道具屋に入っただけでも十分な収穫があった。

 昼の賑わいはかつての城下町を髣髴とさせるような活気があり、夜には軒先に吊るされた妖しげな行燈の灯りが神秘的だ。

 その為、主な店の場所や通りの感覚などは把握しているつもりだったが、どうにも奇妙だ。さっきから裏路地を延々と真っすぐに進んでいるが、一向に路地が終わらない。分岐路もなく、ただ雨に濡れた石畳が続くばかりだ。

 左右の店も昼間は開いていないようで、息を潜めたように静まり返っていた。なんだか酷く嫌な予感がした。ぞわぞわと背筋が粟立つ。クスクス、とあちこちの薄闇からほくそ笑む声がする。

「やめよう。道を間違えたんだ。引き返すべきだ」

 そう独り言ちて、振り返った先に彼がいた。

 雨の降りしきる狭い路地、その帰り道を塞ぐように手足を奇妙に歪めて立っている。顔に張りついた半透明の袋に赤黒い血が滲んでいた。その奥で口元が微笑んでいるのが見える。

「うっ、うわあ、うわぁああッ!」

 いつの間にか私は駆け出していた。手足をめちゃくちゃに動かして、段差につまづいて何度も水溜まりに顔を突っ込みながら、とにかく懸命に走った。気がつけば、私は甲高い獣じみた絶叫を上げながら、降りしきる雨の中を傘も放り出して、ただただ駆けていた。

 幻覚じゃない。あの雨に濡れた様子は、本物だ。実体を伴って、目の前にある。まるで悪夢が現実に浮かび上がったかのような恐ろしさに恐怖した。

 走るうちに急に開けた空間へと出た。そこには一軒の店が軒先に提灯を灯していた。淡い明かりが辺りを照らし上げ、そこだけが唯一の逃げ場のようだ。店の硝子戸に張られた紙には毛筆で『夜行堂』と書いてある。
 
 目的の店を見つけても喜ぶ余裕などない。とにかく硝子戸を開けて中へ飛び込むと、後ろ手で戸をしっかりと閉めた。
 
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 呼吸を整えながら、手で顔を覆う。手の震えが止まらなかった。雨の匂いと腐敗臭が体に染み付いているような気さえする。

 ゆっくりと顔を上げると、店内は薄暗くあちこちから吊るされた裸電球が所狭しと並ぶ骨董品の数々を照らし上げていた。一見するとガラクタのような物ばかりだ。ただなんとなくどの品も薄気味悪く、なんだかこちらをじっと伺っているような気配がした。

 不意に壁にかけられた般若の面と目が合った。木彫りの面のようだが、彫り刻まれた憤怒の貌がみるみる壮絶な笑みに変わってゆく。慄いて息を呑み、悲鳴を上げようとしたその時だった。


「待った」


 若い男の声と共に視界を塞ぐように広がったのは、一枚の見事な扇だった。鱗紋様の金箔塗りのもので、よく見ると紋様の鱗が一枚一枚波打つように動いている。

「アレはやめとけ。アンタの手には余る」

 おい、と声の主が何処かへ声をかけると、店の奥から足音と甘い香りが近づいてくる。扇の向こうで若い声が「まだ見るなよ」と念を押した。

 ばんっ、という低い音が響いたかと思うと、扇がすっと視界から消える。すると壁にかかっていた般若の面がいつの間にかなくなっていた。

「あんなものを壁に飾ってんなよな。俺がいなかったらどうするつもりだ」

 忌々しげに言いながら、若い男が扇を畳んで棚の上へ置く。右腕がないのか、空っぽの袖が左右に揺れていた。

「ご苦労様。お手柄じゃないか」

 店の奥の薄闇から現れたのは煙管を咥えた線の細い女だった。長い黒髪に白い肌、瞳に妙な迫力がある。

「やぁ、いらっしゃい。悪かったね。恐ろしい思いをさせてしまって。うちは見ての通り、しがない骨董店だが、何か探しているものでもあるのかね?」

 さっきの面はなんだったのか、と問いたかったが、此処へやってきた目的を忘れてはならない。

「此処は、貴女の店ですか」

「ああ、そうとも」

 単刀直入にフルートについて尋ねようかとも思ったが、藪蛇になっては困る。この店の何処かにあるのは間違いないだろう。自分で見つけてしまう方がいい。

「……楽器の取扱いはありますか」

「ああ。幾つかあるとも。気に入ったものがあれば、好きに手に取ってみるといい」

「ありがとうございます」

 女は紫煙を細く天井へ吐きながら、値踏みするように私を見ていた。
 この女と若い男はどういう関係なのだろうか。店主と従業員という風には見えないが、付き合いは長いようで慣れた様子で話し込んでいる。

 長居は無用だ。視線をあちこちへ動かして目的のフルートを見つけようとするが、なにぶん道具が多い。おまけに乱雑に並んでいるので、おおよその位置さえ検討もつかなかった。

 あまり長居する訳にもいかない。しかし、店の外へ出るのは憚られた。彼がまだ表に立っているような気がしてならない。

「目当てのものが見つけられないようだね。因みに、どんな楽器を探しているのか、聞いてもいいかな」

 店主が助け舟を寄越したが、怪しまれる訳にはいかない。可能な限り自然にあの笛を手に入れてしまいたかった。

「そうですね。笛のような管楽器を探しています」

「笛か。それならば丁度いいものがある」

 店主はそう言ってから店の奥へと消えていった。ようやくあの笛を手に入れることが出来る。その期待に思わず胸が膨らんだ。あの笛さえあれば、私はきっと今とは比較にならないほどの演奏ができるようになるだろう。

「なぁ、表にいるのはアンタの知り合いか何かか?」

 唐突に頭から冷水をかけられたような思いがした。先ほどの若い男が入口の前に立って、僅かに開いた硝子戸の向こうに視線を投げていた。

「俺はアンタのことなんて知らない。でも、表にいる奴がアンタを訪ねてきたことは分かる。他でもない、アンタに報いを受けさせる為に」

 彼はこちらを一瞥もしないまま、表にいるという何かをじっと視ていた。その右目が青く揺らめいているように見えるのは、私の気のせいだろうか。

「……なんのことだか分かりませんが、表に誰かいるんですか」

「しらばっくれんなよ。顔にビニール袋を被ったお友達が迎えに来てるぜ」

 青年がこちらを振り返る。心の底まで見通すような右の青い瞳に、思わず後ずさっていた。咄嗟に棚の上にあった十手を手に取ろうとしたが、指が空を掴む。見れば、忽然とそれが消え失せていた。

「別にアンタを表のやつに突き出すつもりなんてねーよ。どうせ、あの笛が招いたことだし。そもそもこの店には境界がないから、入って来ようと思えばあいつの許しがなくっても入ってこられる」

 胸の奥に不安が広がっていくのを感じた。この男には何が視えているのだろうか。どうして何もかも知っているのか。

「……何が言いたい」

「命が惜しけりゃ、笛のことは諦めて大人しく警察に自首しろよ」

 私は大きく息を吸って、髪を掻き上げながら盛大に息を吐いた。ようやくあと一歩という所までやってきたというのに、今更、諦めることなど出来る筈がない。

「……邪魔をするんじゃない。あの笛は私のものだ。私だけのものだ。それがどうして、分からないんだ」

 目の前の男から殺してしまおう。私よりも若く上背があるとはいえ、体重は軽く、片腕しかない人間に負けるとは思えなかった。こちらさえ片付けてしまえば、あの女の方はどうとでもなるだろう。

「もう少し。もう少しなんだ。誰にも邪魔はさせない」

「そうやって、あの笛は人の手を渡って来たんだ」

「……どういう意味だ」

「あれさ、魔笛なんだよ。とても人の手には負えない。さっきの般若の面と同じだ。曰くつきの品の中でも、特に性質が悪い。持ち主を奪い合わせることで渡り歩くんだからな。それに気づいたから、あの人も笛を手放したんだろう。まぁ、売らずに質に入れていたくらいだから未練はあったんだろうけど」

 動悸が止まらない。もう少しで手に入るというのに。あの笛をこの手に出来るのに。私は今度こそ近くの棚にあった鋏を手に取ろうとしたが、まるで私の指から逃れるようにひとりでに動いて棚の向こう側へ落ちてしまった。

「俺を殺してもなんの意味もねぇよ。もしアンタが笛を手に入れたとしても、同じことの繰り返しだ。アンタよりも腕のいい奴が笛の前に現れたら、そいつがアンタを殺して笛を奪うさ」

「そんな間抜けはしない。誰がやってきても返り討ちにしてやる。俺の笛を盗むような奴は! 何度でも殺してやる!」

 怒りと興奮で頭がぐらぐらと湧き立つ。心底憐れむような表情でこちらを見ている若い男の顔面に狙いを定める。服の袖を捲り、拳を握りしめる。とにかく動かなくなるまで殴り続けると決めた。

「そんな目で俺を見るな!」

 男は怯えるでも、恐れるでもなく、痛みを堪えるような顔で私のことを見ていた。

「……馬鹿野郎が」

 どこか悲しげにそう溢したのを待ちかねていたかのように入口の所が音もなく開け放たれた。雨と風が顔に吹きつける。雨の匂いに混じって、浴槽の腐敗した悪臭がした。
 店の前に、彼が立ち尽くしていた。ビニール袋を被った口元が、凄絶な笑みを浮かべているのがわかった。耳元で彼の笑い声が聞こえる。

「っ」

 悲鳴をあげる暇もなく、黒く変色した手が私の腕を掴み、鋭い爪を立てた。ゾッとするほど冷たい手がぎりぎりと手首を握り締める。あまりの痛みに顔が歪んだ。

「私の方が優れている! 私の方が、あの笛に相応しいと思えも分かっていた筈だ!」

 一瞬、脳裏を疑問がよぎった。あれは本当に事故だったのだろうか。殺すつもりなんてなかったと思っていたが、実際にはどうなのだろうか。私は初めから明確な殺意をもって、彼のことを突き飛ばしたのだろうか。

 今となっては、もうそれさえ思い出せない。

 ぐい、と強引に腕を引かれる。店の外へと連れて行こうとしているのだと分かり、私は渾身の力を込めて踏みとどまろうとしたが、まるで歯が立たなかった。

 入口の戸にしがみつきながら、懸命にもがく私は涙ながらに叫んだ。もう少しで手に入る。あの笛を自分のものに出来たのに。それだけがただ悔しい。結局、私は一度もあの笛を吹いてさえいないのに。

 しがみついていた指が離れる刹那、私は絶叫した。一瞬の浮遊感があり、腕を引かれた身体が真横へ落ちていく。まるで地面の上を滑っていくようだった。夜行堂が遥か彼方へと見えなくなり、漆黒の闇の中を私はどこまでも落下していった。

 背後から手を回し抱きつく、私が殺した彼の顔は最期まで見えなかった。

       ◇
 店先には誰もいない。ただ雨が降りしきっているばかりだ。
 入口の硝子戸を閉めてしばらくすると、例の笛を持って店主がようやく戻ってきて、客がいないことに気づくと落胆したように肩を落とした。

「なんだ。もう追いつかれてしまったのか。せっかく持ってきたのに。惜しいことをする」

「まだ選択肢はあったさ。でも、それをふいにしたのはあいつ自身だ。色んな死に方があるけどさ、その中でも窒息は特に苦しいからな。さぞ恨みも深いだろうさ」

「全く。私には物と人の縁を繋ぐ役割があるのだがね」

 仕事の邪魔をするな、と言いたいのだろうが、この化け物にはそれ以外ないのだ。あの笛を手に入れた男が、奪われまいと一体どれほどの人間を将来その手にかけるかなど考えもしない。

「そういうタチの悪いものはとっとと喰っちまえよ」

「横暴だね。人とは違うんだ。物には善悪などというものはないのだよ。そうあるべく、他ならぬ人の手によって創られたのだからね」

「その笛をどうすんだよ」

 鈍い銀の光を放つフルート。数え切れないほどの人の情念が篭った魔笛。聴きたくなんてないけれど、きっとさぞ人の心を奪う音色を奏でるのだろう。

「当然、店に並べておくとも。いつの日にか相応しい持ち主がやって来るだろう」
「魔笛そのものをどうにかできないのか」
「簡単なことだ。主と認められた者の意思で壊してしまえばいい。ただの楽器だ。簡単に壊せるとも」
 何も難しくはない、と店主は紫煙を揺らして微笑む。
「それまでの間、ここで他の品物たちと共に眠りにつくだけだ。なに、数十年の年月なんて、星の瞬きのようなものさ」

 店主は妖しくそう囁くように言うと、煙管の煙を細く吐いた。白く甘い煙が辺りに広がっていく。

「化け物の時間感覚で語るんじゃねぇよ」

「ふふ。時間と言えば、そろそろ仕事の時間じゃないかい? また遅刻をすると大野木君の機嫌を損ねてしまうよ。私が引き留めたみたいに誤解されても困るからね」

 人を使いにやっておいて、よくもそんなことが言える。
 店の外へ目をやると、雨足は少し勢いを緩めたらしい。

「もう行く。ここにいると碌なことがねぇ」

「そうか。大野木君によろしく伝えてくれ」

 へいへい、と適当に相槌を打って店を後にする。鉛色の雲の切れ間に、ほんの僅かに光が差しているのが見えた。

「アパートの遺体もどうにかしねぇと。権藤さんにでも頼むか。また嫌な顔されるんだろうなあ」

 路地の真ん中に、ぽつん、と傘が転がっている。あの男のものだろうか。それとも前にやってきた誰かのものか。
 傘を手に取り、くるり、と回してから壁に走る配管の一つに引っ掛けておいた。誰か通りがかった奴が適当に使うだろう。

 どうせ、もう二度と持ち主が現れることはない。

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