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『AIR』を観て、「”ループもの”の功罪」について考えた

 タイトルにある通り、今更ながら往年の名作アニメ『AIR』を観たので、感想を述べつつ、それに付随して「ループもの」に関する考察を展開したいと思います。

 さて、『AIR』ですが、ゼロ年代初頭に隆盛を極めた、同タイトルの「美少女ゲーム」が原作です。二十年近く前に発売されたにも関わらず根強い人気を誇る作品で、「不朽の名作」という惹句をひしひしと感じさせられます。
 アニメのop「鳥の詩」はYoutubeやニコニコ動画によくある『聴かなきゃ人生八割損! 超名作アニソン集』みたいなタイトルの動画には必ずと言っていいほど入っている曲なので、作品自体に触れたことはなくとも、消える飛行機雲を追いかけそうになった人は多いのではないでしょうか。誰しもが抱える子供時代へのノスタルジーを掻き立てられるような、美しく繊細でいて、力強さをも感じ取れる曲です。これだけで本編に対する期待値が跳ね上がります。なんというか「夏」って感じ。「感動」とか「泣きゲー」といった言葉を付されることも多く、更にはボーイミーツガールとも来ればさぞかし視聴後には滂沱の涙が……

 というのが本編試聴前の大雑把な印象でした。
 
 前置きはさておき、まず最初に『AIR』の感想を端的に述べます。

 本作を最後まで観て私が感じたものを一言に圧縮するのなら、

 《《やるせなさ》》。

 もっと踏み込んで言うのなら、ある種の寂寞感、虚無感でしょうか。
 
 …………。

 恐らく、恐らくですが、薄幸病弱ヒロインをラストに死なせる安易なお涙頂戴話や、タイトルに「きみ」が入ったよくある青春恋愛ものを期待して『AIR』を視聴すると、少なからず心の奥底に深い爪痕を残されることでしょう。いや、私はそういうのを望んで本作を観たわけではないのですが、「今でもこういう話はなかなかないな」と感じさせられる、下手したら「感動もの」というジャンルそのものを壊しかねないような、挑戦的な作品だと思いました。
 感動しなかったのかよ、と言うとそういうわけでもなく、感動したのですが、その「感動」の仕方は他に類を見ないような、独特のものでした。

 十把一絡げに「感動もの」と表現するのもあれなので、私が思う「感動もの」の条件やパターンを(半ば露悪的に)箇条書いてみます。

①ヒロインが何らかの事情により主人公を絶対的に承認または必要とし、主人公の側も自覚的にその愛情を受け入れている。(二人のどちらか、もしくは両方は孤独な人物であることが多い)

②友情や恋愛、学園生活など、殊更に「絆」を強調する一方で、「君さえいれば他の何も要らない」と言わんばかりの代替不可能で排他的な関係性が描かれる。(所謂「きみとぼく」の世界)

③ラストで主人公かヒロインのどちらかが消え、残された方は涙する。視聴者がその喪失に感情移入し、「泣ける」ように物語の随所が設計されている。(ご都合主義的かつ人工的な「感動」)

『AIR』の内容……特にラストシーンは、誤解を恐れず表現するなら、これらの「お涙頂戴ポルノ」とでも言うべき安易な感動ものの法則をきちんと抑えながらも、内部から破戒……いや粉砕しかねないほどの代物です。踏み躙る、とまではいかないまでも、このような構造に条件反射的に快楽を覚える人種に対するアンチテーゼ、とでも呼ぶべきものを意識的に内包していることは間違いないと思われます。

 いつまでもふわふわとした議論を続けていてもアレなので、ここらで『AIR』の具体的なあらすじを簡易に纏めてみます。(完全にネタバレなので未試聴の方は気を付けてください)

 旅の青年・国崎往人《くにさきゆきと》は、海辺の田舎町で、病弱で周囲から孤立している少女・神尾観鈴《かみおみすず》と出逢います。直接触れずに対象を操ることが出来る法術《ほうじゅつ》という力を有し、幼い頃に母親に聞かされた「空にいる孤独な女の子」を助けることを目的に旅を続ける往人は、観鈴の保護者である晴子の家に居候しながら、観鈴と穏やかな日々を過ごします。
 そんな前半から一転、中盤にして「人と仲良くなれそうになると癇癪を起こし病んでしまう」という観鈴の気質が明かされ、彼女だけではなく往人まで、共にいることで病んでいくことが示唆されます。観鈴も「夢を観る」と言って寝込みがちになり、物語に仄暗い雰囲気が漂っていきます。
 そして遂に第7話「ゆめ~dream~」終盤では「もう側にはいられない」と思い、往人は観鈴の許を去ろうとします。時を同じくして晴子も暫く外出してしまい、観鈴は完全に独りぼっちになり、部屋の片隅で蹲ります。
 家を出て、改めて観鈴を案じた往人は来た道を引き返しますが、観鈴は目を覚ましません。観鈴の側にいて彼女の笑顔を観られるのならそれだけでよかった、「観鈴との出逢いをもう一度やり直せたら」と往人が強く願うと、彼の身体は光に包まれて消滅してしまいます。観鈴は目を覚ましますが、往人は何処にもいません。
 往人は何処へ消えたのか……と思案する間もないまま、続く第8話、9話では物語は1000年の時を遡り、往人の遠い祖先である武士・柳也《りゅうや》と翼を持つ少女・神奈《かんな》の縁起話が始まり、現在の往人と観鈴を苛む「呪い」の由来が明かされます。 
 そして、第10話では「観鈴との出逢いをやり直したい」という往人の願いの通りに物語は再び冒頭へと戻るのですが、大きく異なる点が。《《往人は鳥へと生まれ変わっていたのです》》。何も知らない観鈴に拾われ「そら」と名付けられた「往人」は、「かつての自分」が観鈴と出逢い、日々を送り、彼女の許から去るまでの第1話から第7話までを第三者の視点から改めて見届ける(追体験する)ことになります。

 事実上の「二回目の第一話」とも言うべき第10話「ひかり~light~」は、個人的には本作の白眉でした。
 これまでの往人(人間)の視点からは気付くことが出来なかった、登場人物たちの隠された苦悩や関係が明かされていき、「あのシーンはそういうことだったのか」とミステリー小説で良質な伏線回収を経験した時のような感情が呼び起こされます。
 たとえば観鈴に冷たい態度をとっていた晴子ですが、彼女なりに観鈴との関係に思い悩んでいたり、観鈴を連れ戻そうとする実の父親に「連れて行かないでくれ」と懇願したりと、観鈴を巡って痛々しいまでの人間模様が繰り広げられていき、大いに心を抉られます。前半と後半の恐ろしいまでのギャップよ……。
  
 ループ後の世界が舞台となる残り三話では、往人のセリフや内面描写は極力排除され、「鳥」として朧げな記憶を頼りに街を飛び回る様子がロードムービーのように描かれます。このパートの演出がとても秀逸で、視聴者は小説で言うところの「神の視点」(俯瞰的な視点)を持つ「往人≒そら」として物語世界と融け合い一体化したような感覚を覚え、愛する少女が衰弱していくのをただ傍観しているしかない絶望的なまでの無力感を共有することになります。

 往人の喪失を受け入れた観鈴は、「往人さんは大切なモノをくれたから」、「これからはひとりで頑張るから」と、実の母親になるべく努力する晴子を拒み、いじらしく孤立を深めていきます。彼女は目に見えて衰弱していき、遂には自力では歩けなくなってしまいます。
 そして最終話「そら~air~」では、観鈴と晴子は母娘として一定の信頼関係を築くことには成功したものの、観鈴は夏を振り返り、私は十分に幸せだった、だから「もうゴールしてもいいよね」と呟き、
 晴子の静止を振り切って車椅子から立ち上がり、
 ふらふらと覚束ない足取りで晴子の許へ歩み寄り、
 晴子とそらに見守られながら、静かに息を引き取ります。  

 この夏は特別だって思ってた……というセリフが、胸に突き刺さります。

 見計らったように流れ出す挿入歌「青空」に演出の妙を感じ取りながらも、涙を誘われました。

…………。

 さて、『AIR』のループ構造を解説し終えたところで、満を持して「ループもの」について考察していきたいと思います。

 念のため簡易に解説させてもらうと、「ループもの」とは、登場人物たちがタイムトラベルや時間跳躍など、何らかの理由により「同じ、あるいは似たような状況」を繰り返すシチュエーションのことを大まかに指します。有名どころなら涼宮ハルヒの『エンドレスエイト』、SFアニメなら『Steins;Gate』などでしょうか。どちらかというと「過去(未来)改変もの」の範疇に含まれるかもですが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なども当て嵌まるかもしれません。

 《《状況に対する状況》》という自己言及的な構造は作品内にメタ的な視点を持ち込みやすく、ヒロインのルートが複数存在し、疑似的なパラレルワールド的な世界観を持つ美少女ゲームではよく用いられている印象があります。
 登場人物たちの行動や心情如何によって、理想的なユートピアにも、閉鎖的なディストピアにもなり得るのが、ループものの面白いところではないでしょうか。

 そこで、同じくループものであり、筆者が気に入っている『魔法少女まどか☆マギカ』、『未来日記』の二作品(どちらも数年前に触れて以来、いつか論じてみたいと思っていました。どちらもネタバレありです)を引き合いに出しながら、『AIR』のループの優れた点を考察してみようと思います。

『魔法少女まどか☆マギカ』でループするのは、暁美《あけみ》ほむらという魔法少女です。彼女は登場人物の中で唯一「黒幕」の意図を知り得る物語のキーパーソンであり、親友である鹿目《かなめ》まどかを助けるため、時間を巻き戻す魔法によってループを繰り返し人知れず奔走しています。物語で描かれるほむらの目的は終始一貫して「まどかを救う」であり、他の登場人物は必要とあれば蔑ろにしかねない冷徹さを秘めています。 
『魔法少女まどか☆マギカ』のループを簡易に纏めると、

 ループする人物:暁美ほむら
 ループの仕方:能動的
 目的:まどかを救うため
 
 次に、『未来日記』でループするのは、ヒロインの我妻由乃《がさいゆの》。主人公の天野雪輝《あまのゆきてる》の恋人でありながら、最大の敵でもあります。物語終盤になって明かされるのは、「実はこの世界は神である由乃によって改変された二週目の世界だった」という衝撃的な事実。由乃は滅びゆく世界に見切りをつけ、また新たな世界へとループすべく、今の世界の雪輝を見限ろうとします。「狂っている」と雪輝に糾弾された由乃は「狂っているのはこの世界の方だ」と、重たすぎる愛を叫びます。
『未来日記』のループを簡易に纏めると、

 ループする人物:我妻由乃
 ループの仕方:能動的
 目的:雪輝と過ごすため

 上述した二作品のラストシーンでは、暁美ほむらは鹿目まどかから、我妻由乃は天野雪輝から……つまり執着の対象から「救い」を与えられ、抱えてきた苦悩や葛藤に区切りをつけることで、堂々巡りな価値観から脱却し、「ループをやめて一度きりの現実へ回帰する」ことによって物語の幕は閉じます。
 この二作品は「登場人物の苦悩や葛藤」あるいは「ネガティブやヤンデレという気質」をループという構造にうまく落とし込み、彼女らの抱えてきた問題の解消をループからの脱却という形で二重に示すことで、強いカタルシスを呼びます。物語の構造と登場人物の心情が綺麗にシンクロすることで、私たちは虚構の中の彼ら彼女らに一体感を覚え、感情を揺さぶられるのです。
 
 では、『AIR』の場合はどうでしょうか。

 AIRのループは、極めて受動的です。
 往人は「以前の」国崎往人としてでなく、あくまで鳥(そら)として転生します。
 また、「ループする目的」も「観鈴との出逢いをやり直したい」と、曖昧で消極的なものです。その結果として、生まれ変わった後の世界でも「もう一人の自分」が観鈴と過ごすのをただ観ていることしか出来ないのです。
 そして、上記二作品との最大の違いは、ループ(生まれ変わり)をしたにも関わらず、往人は最後まで観鈴を救うことが出来ない……それどころか《《救おうとすることすらも出来ない》》という点でしょう。人に非ざる「往人≒そら」は、もう以前と同じようには観鈴と触れ合うことは叶わないのですから。

 観鈴は、本当は側で見守っているはずの往人に気付けず、ゴールして死んでしまう。
 ほむらのようにまどかから感謝の言葉を告げられるわけでももなく、由乃のように雪輝から許しを得られるわけでもなく……。最終話まで、観鈴と往人はすれ違ったままで、結ばれることはありません。これは、純然とした「悲劇」でしょう。
  
 結局「そら」として転生した往人に出来たのは、物語前半で自身が犯した過ちの結果として起こる悲劇—―観鈴が徐々に弱って死んでいくのを、話すことも出来ない無力な鳥として為す術もなくただ観ていることだけなのです。(弱っていく観鈴の側で悲しげに鳴いたり、孤独を深めていく彼女を止めようと翼を広げたりする様はもの悲しくなりました)
 そう、生まれ変わりという形でループしたにも関わらず、往人はあくまで「いないもの」として、残り三話で観鈴たちの問題から蚊帳の外になってしまうのです。
 側にいるのに何もできず、愛する人の死を傍観することしかできない「そら」の様子は強い喪失感と無力感をもたらし、観鈴と仲良くなって恋愛関係になることを期待していた視聴者に強い飢餓感を与えます。
『AIR』は容赦なく、「やり直したところで、どうしようもできない」という残酷なまでの現実を私たちに突きつけます。
 勿論それだけではなく、ラストにはもう一段回上の「示唆」があるのですが、それは最後に述べたいと思います。

 さて、ここから敷衍して、「何故、ループという構造は斯様なまでにオタクの心を掴むのか」について、持論を展開してみたいと思います。
 アニメ漫画ゲーム、ラノベ、アイドル、コスプレ、同人誌……。以前と比べオタク趣味のカジュアル化が進み、一定の市民権を得たとはいえ、依然としてオタクという人種は得てして日陰者です。某青い鳥SNSでは○○界隈~~とか群れを作って今日も元気そうですが、それはネット世界や同人誌即売会など、同好の士が集まる場だからこそ可能なこと。至極まっとうな人生を歩んできた人に二次元美少女や擬人化されたイケメンの魅力を語ろうものなら「ええ……(困惑)」となるのが関の山でしょう。

 思うに、オタクの憧憬の対象であるループとは、彼ら彼女らが抱える《《成熟拒否の現れ》》ではないでしょうか。
 変わりたくない、ずっとこのままでいたい、という願望の形は「同じような状況を繰り返す」というループ構造と親和性が高く、寧ろそういった願望の結実そのものと言っていいでしょう。日常系漫画でよくあるサザエさん時空(誕生日やお正月など、作中で明らかに季節や年月が経過している描写があるのに、登場人物は一向に年を取らない摩訶不思議な空間のこと)なんかは好例です。
 オタクとて永遠に同じ場所に留まることは出来ない(幻想の世界に機械的に逃避しているだけでは何も変わらない)ことを心の奥底ではわかっているはずなのですが、半ば飽和状態とも言える昨今の豊富なコンテンツ産業は容易にそれを許してはくれませんし、SNSやサークルなどで同好の士と繋がる心地良さを知っていればその楽園から脱却するのは著しく困難でしょう。
 その結果としてしばしば考えても仕方のないことに囚われ、目下の問題を素通りしてしまい、周囲もそれを咎めないために捻じ曲がった価値観を深めてしまう。
 この安住の地に、二次元キャラクターたちへのやり場のない欲望や願望が合わさることで、リアルと幻想の境界が融解したような、奇妙な空間が形成されるのではないでしょうか。ここ数年のTwitterの雰囲気とか特にそう思います。私は耐えられずに辞めてしまいましたが……。
  
 私自身まだ二十前半の青二才なんてこじゃれた表現を使うのも烏滸がましい人間ですが「過去に戻りたい」「あの時ああしていれば」なんて後悔や煩悶は尽きません。
 ですが、繰り返せども繰り返せども、
 やり直したい〈でもどうやってもやり直せない〉
 戻りたい〈でもどう足掻いても戻れない〉
 という自己矛盾に陥り、その度に自立は促されず、成長の芽を自ら摘んで、閉じた関係性の中に埋没していたような気がしてなりません。

『AIR』はこのようなどうしようもない思考のループからの脱却、堂々巡りな価値観からの解放を、「往人≒そら」からの極めて内省的な視点を通して語ることで、最後に示してくれます。
 その考察を裏付けるのが、最終話の晴子のそらに対するセリフ「まだこんなとこにおったんかい」です。これは観鈴の死後月日が経っても、「往人≒そら」が未だにその場に留まっていたことに晴子が気付いた時に発せられるのですが、これは私たち視聴者にとっても重要なメッセージでもあります。
 というのも、このセリフは観鈴の死から立ち直った晴子の解放を示すとともに、往人と同一化して観鈴ロスをいつまでも引き摺っている未練がましい視聴者たちに、
「いつまで同じ場所にいるんだい、もう物語は次のステージへ行っているんだぜ?」と、嗜めているように感じられるからです。
 晴子に促され、飛ぶことを知らなかった鳥は抱えてきた懊悩から解き放たれ、青空へと羽搏いていく……。
 そして生命の畏敬を感じるような神秘的な映像が流れ、いよいよラストシーン。

 浜辺で遊んでいた少年が少女と手を繋ぎ、出逢う直前の往人と観鈴に「さよなら」と告げて去っていく場面で、『AIR』の幕は閉じます。
 この別れの言葉が、往人と観鈴の一連の日々に終止符を打ち、今を生きる少年と少女の愛おしい日々も「いつか必ず終わってしまう」ことが暗示されます。何処か幻想文学的な趣を醸した、余韻のあるラストでした。(実際に、シナリオライターの麻枝准さんは影響元として村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を挙げています。確かに、複数の視点や時間を並行する語りや、女子とのウィットの利いた会話の端々に影響を感じました。こちらもお気に入りの作品です)
 
 『AIR』のラストは、「二次元ヒロイン(≒自己あるいは他者への身勝手な理想像)に耽溺する」読み手への「警句」を孕んだ、批評性の高いものだったからこそ、普段美少女ゲームを嗜まないような、より広い層へ波及したのではないでしょうか。言うまでもなく、名作中の名作です。高い評価にも納得の、素晴らしい出来栄えでした。思わず昔購入したものの積んでいたゲーム版にも手が伸びてしまいそうです。

 更に掘り下げるのならば、純真無垢《イノセンス》な処女性を帯びた少女と交流し全幅の信頼を得る、という現実では限りなく達成困難orお縄になりかねないような願望を満たす美少女ゲームという媒体において、リセットボタンを押すようにいくらでもやり直しが可能なループへ逃避するのではなく、敢えてその流れを断ち切ることで、「どう足掻いてもやり直せない」故に「大切な」日常の尊さを私たちに説いているように思いました。『AIR』のループ構造は、やるせない感情を私たちの心に置き残すだけでなく、私たちの人生の一回きりの超越性を逆説的に証明するのに一役買っているのです。
 取り返しのつかない過ちと、それに対する自己反省を鳥への転生というメタ的な視点から取り入れ視聴者と往人の一体性を誘い、ループ構造からの脱却として昇華させたという点において、『AIR』はジャンルそのものに対する批評性を秘めています。
 痛みを伴う想い出が、夏の田舎町の情景や郷愁を誘うBGMを伴って語られることで「もう帰れないあの頃」として美化される点は、好きな小説の一つでハンドルネームの由来ともなった、吉本ばななの『TUGUMI』を思い起こされました。(病弱少女との交流、海辺の田舎町のひと夏の想い出、という点で何処か似通っています)
 このような要素が京都アニメーションの巧みな映像技術によって絶妙なブレンドで調和されることで、唯一無二の雰囲気や世界を醸成しているのだと感ぜられました。

 誰しもが一度は、子供時代の夏の日の記憶に想いを馳せたことがあるでしょう。
「終わってしまった時代≒青春」に対する憧憬が時代を越えた共感を呼び、今なお支持を集めているのだと感じました。近年の物語……特にオタク向けコンテンツでいうと、どうも「キャラクター消費」的な側面が強いと思うのですが、『AIR』は単なるキャラ消費に留まらない、時の風化にも耐え得る強度を持った作品だと思います。

 最後に、往人との出逢いで「大切なもの」を得て、強くなったはずの観鈴は何故、生きられなかったのか……、ゴールしてしまったのかについて考えたいと思います。
 死の直前に「この夏は特別だって《《思ってた》》」と吐露する通り、往人と巡り合えたこの夏の日の記憶は、ずっと孤独だった観鈴にとって精神的支柱となり得るものでした。
 ですが、人は想い出だけでは生きていけません。「過去」はもう不変の事実であり、人は「今」を生きるしかないのです。
 往人がいなくなってしまった「今」と続く「未来」からは、観鈴は希望を感じ取れなかったのでしょう。
「もうゴールしてもいいよね」というセリフからは、往人との想い出が色褪せない内に、「一番いいときに終わらせたい」という諦観にも似た淡い願望が感じ取れます。

 観鈴は結局、《《往人なしでは生きられなかった》》のでしょう。

 夢想主義の崩壊とそれに伴う喪失感を描いた本作は、試聴後にボディーブローのような、鈍い痛みが後になってじわじわと襲ってきました。
 切なさや感動とはまた違う、心の隙間にそっと入り込み蟠りを残すような、そんな作品でした。

 余談、というか完全に自分語りですが、一年ほど前から「あっオタク趣味って流石にもう潮時だわ」と思い立ち、長年コレクトしてきた漫画やアニメの円盤、グッズ等の断捨離を進めています。今日も50点ほど売り捌きました。もの寂しさを覚えないと言ったら嘘になりますが、これも一つの区切りなのでしょう。いつまでも夢だけでは生きていけない。
 『AIR』……夢から覚め、現実へと回帰しようとしている今だからこそ、触れてよかった作品でした。良い作品は時代を超えて心を打つのですね。
 
 夢の世界にも終わりはありますが、虚構の涯《はて》を越えて現実へ影響を与えられるような、単なる逃避に留まらない、現実にも耐え得る強度を持った作品を読み、書きたいものです。

 関連楽曲である『鳥の詩』や『夏影』の歌詞に「超えていく」とある通り、叶わなかった願いに見切りをつけ、ラストで観鈴への届かない執着を諦めて手を離したことにこそ、『AIR』の物語としての美しさはあるのだと思います。いつまでも同じ場所にはいられない。
 
 消えかけのオタクの拙文をここまで読んでいただきありがとうございました。
 間違い、解釈違いなどありましたら遠慮なくご指摘ください。

 最後に、『AIR』第6話「ほし~star~」より、本編中で一番気に入った台詞を。

「夢が覚めても、想い出は残るから」


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