見出し画像

[ためし読み]『ブラック・ライヴズ・マターから学ぶ アメリカからグローバル世界へ』より「序章」

〈黒〉から想起せよ

黒人への圧倒的な暴力や差別が続くアメリカで、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動はいかに立ち上がり、うねりとなり、国境を超えて世界へと共鳴を広げていったのか。

BLMからの告発に、レイシズムが蔓延る現在を生きる私たちは、何を学ぶべきなのか。

歴史、政治経済、文学、思想、教育、芸術、ジェンダー、国際法などさまざまな分野の専門家が、BLMから学んだことを、それぞれの立場から発信している本書。アメリカの黒人の歴史や、植民地主義についてなど、本書を読むための基礎知識がまとめられている「序章」を公開します。

画像2

【目次】
はじめに

序章 ブラック・ライヴズ・マターから学ぶ……武内進一(←公開)

第1部 基本をおさえる
第1章 「アメリカの黒人」とは ―文学を通して考える……荒このみ
第2章 人種差別撤廃条約と日本の人種差別問題 ―BLMが示唆するもの…… 佐々木亮
第3章 教育の公正と平等のはざまで揺れるBLM……岡田昭人
第4章 #BLM と#MeToo ―インターセクショナリティと共生のコミュニティ……小田原琳

第2部 アメリカ社会に踏み込む
第5章 格差と没落 ―抑圧者の恐怖心……出町一恵
第6章 エメット・ティルの死 ―ブラック・ライヴズ・マター運動における記憶のモチーフ……大鳥由香子
第7章 BLM、AAPI、アメリカ革命……友常勉
[コラム] 大学町からみたブラック・ライヴズ・マター……高内悠貴
第8章 〈外〉に向かって奏で踏み出した人。〈共〉演の予感を聴く者。 ―Eric Dolphy, Thelonious Monk 違いながら人と音が繋がる……橋本雄一
第9章 Black Lives Have Mattered! ―BLM運動とジェイムズ・ボールドウィンのリヴァイヴァル……加藤雄二

第3部 自分の足もとを見つめる
第10章 『差別を支えてきたもの』は何か……山内由理子・中山裕美
[コラム] 対話の入り口に立つ ―アフリカにルーツを持つ若者とのトークイベントから……森聡香・奥富彩夏・大石高典
第11章 BLMを芸術につなぐ ―差別が意味すること……藤井光・西井凉子

第4部 世界への広がりをまなざす
第12章 グローバル・サウス・ユートピア? ―資本主義分析の視角から……中山智香子
第13章 民主主義とネクロポリティクス……岩崎稔
第14章 ポストコロニアル時代フランスの人種主義と反人種主義 ―エティエンヌ・バリバールを手がかりに……太田悠介
第15章 植民地主義の見直し ―ヨーロッパとアフリカ……武内進一

終章 「黒」を軸に立てる……中山智香子
おわりに 私たちのなかのBLM……中山俊秀


◇   ◇   ◇

序章
ブラック・ライヴズ・マターから学ぶ

                              武内進一

一. はじめに

 ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter:BLM)は、二〇一三年にフロリダ州で黒人の少年トレイヴォン・マーティンを銃で殺害した自警団員に無罪評決が出たことをきっかけに、アリシア・ガーザ、パトリース・カーン=カラーズ、オパル・トメティの三人の女性を中心に立ち上がった運動である。二〇一四年、ニューヨークでエリック・ガーナー、そしてミズーリ州でマイケル・ブラウンがいずれも警察官に殺害された事件によって、運動はアメリカ合衆国全土へと広がった。そして、二〇二〇年にミネソタ州でジョージ・フロイド殺害事件が起こると、BLMはアメリカを超えて、世界へと拡散した。BLMは、特定の指導者を仰ぐ制度化、組織化された運動ではない。それはむしろ既存の政治組織を疑い、コミュニティから自律的に立ち上がった新たな形の運動である。

 新たな形の運動とはいえ、BLMは長く複雑な歴史を背負っている。アメリカで奴隷制が成立し、黒人差別が社会に組み込まれるのは一七世紀後半である。奴隷制の背景には、ヨーロッパによる新大陸の征服と支配、そしてアフリカとの奴隷貿易がある。一九世紀の南北戦争を経て奴隷制が廃止された後も黒人差別は根強く残存するのだが、そこには白人が優れており黒人が劣っているという人種観があり、それは同時期のヨーロッパにおける人種観や植民地主義と密接に結びついている。BLMはこうした歴史のなかで生まれ、それに関わる幅広い問題群に目を向けるよう、私たちを促す。

 本書はBLMの重要性に着目し、それが提起する幅広い問題について多面的に分析した。BLMに関してはすでに少なからぬ数の出版物があるが、本書には二つの特徴があると考えている。第一に、分野的な包摂性である。BLMは、アメリカの黒人が置かれた状況から生まれた運動であり、彼らが日常的に直面する問題を社会に訴える。そうした問題を理解するには、政治経済はもとより、歴史、文学、思想、教育、芸術といった多面的な知識が欠かせない。本書では、多分野にわたる研究者にとどまらず、映像作品を通じてレイシズムを考えてきた藤井光監督など、多様な側面からBLMに接近している。第二に、地理的な包摂性である。BLMはアメリカ発の運動だが、アメリカを超えた運動へと発展した。ジョージ・フロイドの殺害に対する怒りの声がアメリカに広がったとき、それに呼応し、共鳴する動きが世界各地で起こったのはなぜか。本書では、アメリカ以外の状況にも分析を加え、この問題をグローバルに捉えようとした。

 本書は各章が独立した内容を持っており、好きなところから読んでいただいて差し支えない。とはいえ、BLMがなぜこの時期にアメリカや世界で大きな共鳴を得たのかについて理解するための基礎情報は、あったほうがよいだろう。次の二つの節では、いわばBLMの前提となる、アメリカの黒人、そして植民地主義をめぐる状況について、大まかな歴史の見取り図を提示する。それらは各章でも触れられるだろうし、いずれも巨大なテーマであるからごく概説的な内容にとどまるが、参考文献案内として読んでいただければ幸いである。

二. アメリカの黒人

奴隷制の成立から南北戦争へ

 のちにアメリカ合衆国となる地にアフリカ出身の黒人が初めてやってきたのは、一六一九年とされている。彼らは当初、ヨーロッパからの不自由移民と同じく、年季奉公人の扱いでプランテーション労働に従事し、年季が終わると解放された。しかし、一七世紀後半になると、黒人を恒久的な奉公人とし、母親の身分に基づいて自由身分か不自由身分かを決める法律が制定された。この段階で、人種差別に基づく奴隷制が確立した(和田 二〇一九)。奴隷制の下で、黒人は動産として扱われた。

 動産として扱われるとは、具体的にどういうことなのか。トニ・モリスンが紹介するトマス・シスルウッドの日記は、その意味を的確に示している。シスルウッドは、一八世紀のイギリス上流階級出身の人物で、一旗揚げようとジャマイカにやってきてプランテーションを経営する。そして、そこでの日常生活、とりわけ性生活を克明に日記に書き残した。その日記では、性行為の相手や場所に関する詳細が記されているが、その部分がラテン語で書かれている。それは、例えば次のようなものだ(モリソン 二〇一九:三七。斜体はラテン語部分)。

午前一〇時半頃。フローラとクム(一緒に)。コンゴ人、サトウキビ畑のスーパー・テラム(地面の上で)。……女はクレソンを摘みに来た。四ビッツ(硬貨)をやる。(一七五一年九月一〇日)
午前二時ごろニグロの娘とクム(一緒に)。床のスーパー(上で)。東の客間にあるベッドの北側の脚もとで。(一七五一年九月一一日)
              *ここでは斜体部分を太字で示しています。

 性行為の相手に人格はない。イギリス上流階級出身の男性が、何の疑問も持たずに今日ではレイプとしかいいようがない行為を繰り返し、それを淡々と日記につける。人が動産として扱われるとは、そして奴隷制とは、そのような状況なのである。

 一八世紀の独立戦争に際しては、当初イギリスが黒人を忠誠派の兵力として利用した。反乱を恐れて黒人に武器を与えなかった愛国派側も、戦争が進むにつれて自由黒人を中心に動員を開始し、最終的には兵員の一・六パーセント程度を占めた。独立戦争を共に戦った経験もあって、一八世紀後半には北部州を中心に奴隷制への批判が高まり、一八〇七年には奴隷貿易が公式に禁止された。とはいえ、プランテーションに依存する南部で奴隷制は不可欠であり、独立直後のアメリカ合衆国は北部の自由州と南部の奴隷州のバランスをとることに腐心した。議員選出の基準となる人口の算出に際して、黒人奴隷一人を白人の「五分の三」と勘定する条項が憲法に盛り込まれたことで、奴隷制はアメリカ国家に公式に組み込まれた(本田 一九九一、和田 二〇一九)。

 一八六五年の南北戦争開戦に至る経緯は、アメリカ南部の綿花経済の発展と関わる。南部産の綿花は短繊維のため商品価値が低かったが、一八世紀末の綿繰り機(繊維から種子を取り除く機具)の発明によって問題が解決されると、急速に綿花経済が拡大し、奴隷に対する需要が高まった。奴隷制への依存を強める南部の特権的支配層とは逆に、製造業に基盤を置く北部は自由労働イデオロギーを唱え、新たなフロンティアである西部を奴隷制ではなく「自由な労働」によって開発することを主張した。ここに建国以来維持してきた自由州と奴隷州のバランスが崩れ、南北戦争の契機となる(貴堂 二〇一九)。

奴隷制廃止後の苦難

 エイブラハム・リンカンによる一八六三年の奴隷解放宣言、そして一八六五年の南軍降伏によって、アメリカ合衆国の奴隷制は廃止された。黒人の参政権が憲法で保障されて、議員になる者も出てきた。しかし、黒人市民権の実質的拡大は進まなかった。黒人解放を推進しようとした共和党急進派が力を失い、南北の政治的妥協によって旧来の南部指導者層が再び力を持つなかで、黒人たちは奴隷制の補償も得られず、分益小作制度の下で白人のために過酷な労働に従事せざるを得なかった。一九世紀末以降、黒人の参政権を実質的に奪う法律が制定され、「分離すれども平等」の論理の下で人種隔離を正当化する司法判断が下されるなど、黒人差別制度が再構築され、解放されたはずの黒人は「どん底」の時代に落ちていく(上杉 二〇一三)。

 この時期クー・クラックス・クラン(KKK)に代表される暴力とリンチが急増するが、その背景として、社会的ダーウィニズムに代表される優性思想の浸透によって、黒人男性と白人女性の「混交」を恐れ、拒否する心性が広まっていたことが指摘できる(貴堂 二〇一九)。さらにこの時期、軽微な罪で黒人を囚人に仕立て上げ、企業に貸し出すという囚人労働制度が南部で確立した。これは奴隷制以上に過酷だった。私有財産であった奴隷と違い、白人雇用主が囚人を大切に扱うインセンティブはなく、文字通り死ぬまでこき使ったからである(デイヴィス 二〇〇八)。

 この厳しい時代に、黒人指導者が本格的に登場する。特に重要な人物として、漸進主義を説き、黒人への職業教育普及運動(タスキーギ運動)を率いたブッカー・T・ワシントンと、それを批判して黒人知識人の役割を重視し、一九〇九年の全米有色人種地位向上協会(NAACP)結成に加わったW・E・B・デュボイスがいる。人種隔離政策が公然と行われるなか、そして自らも人種差別主義者であった南部民主党出身のウッドロー・ウィルソン大統領の下で、アメリカが第一次世界大戦への参戦を決めると、NAACPなど黒人指導者は戦争協力の方針をとった。軍事的献身を通じた統合を希求するがゆえの決断だった。しかし、政府は黒人の武装を恐れる白人世論に配慮して、徴兵した黒人の大多数を鉄道建設や港湾労働などに利用した。実際に戦闘に参加した黒人兵は、約三七万人の動員総数のうちわずか四万人程度だった。戦後、デュボイスは、自らの判断を悔いている(上杉 二〇一三)。

 第一次世界大戦前後の特筆すべき現象として、ジャズの広がりがある。第一次世界大戦中にフランスに滞在した黒人部隊所属の楽団の演奏によって、ジャズはフランスで大いに人気を博した。戦後の好景気のなかで、白人中産階級にもその人気が広がっていった。デューク・エリントンやルイ・アームストロングといった音楽家が人種を超えて大衆の心をつかむのも戦間期である。ただし、ビリー・ホリディが歌った有名な曲「奇妙な果実」が示すように、黒人に対する暴力やリンチは依然として激しいままだった。

 枢軸国との衝突が不可避になると、黒人たちは第一次世界大戦時の過ちを繰り返さぬよう、戦争協力を取引材料として政府に人種差別状況の改善を迫った。一九四一年六月、黒人側の圧力に屈する形で政府は大統領行政命令八八〇二号を発出し、国防産業における差別的扱いを認めてその改善を約束した。これは、その後の黒人差別解消措置の嚆矢となる。一九五四年のブラウン判決によって、一九世紀末の「分離すれども平等」判決がようやく否定され、一九五五年のモンゴメリー・バス・ボイコット事件から実質的平等を求める黒人たちの権利運動が盛り上がり、暴力と流血を伴いながらも、一九六四年の公民権法、翌年の投票権法が成立する過程はよく知られている。これらは白人からの暴力を恐れぬ勇気ある市民運動の成果だが、純然たる国内問題ではなく、国際関係が大きな影響を与えていた。アジアやアフリカから留学に来ていた学生が、帰国後に独立国の指導者として活躍する姿はアメリカの黒人にも勇気を与えたし、冷戦下で厳しく東側と対立するなか、国内の人種差別や黒人に対する暴力が自国のイメージを傷つけ、東側陣営に利用されることをアメリカ政府は恐れていた(上杉 二〇一三、中野 二〇一九)。

 公民権運動を通じて、アメリカの黒人は奪われた市民権を取り戻したのだが、その後の歩みは平坦ではない。黒人の貧困は改善されず、ロナルド・レーガン政権の下でアファーマティブアクションは骨抜きにされた。一九九〇年代にグローバリゼーションのなかで貧富の格差は一層広がり、「麻薬との戦い」や治安対策の名の下に刑務所への収監者数が急増した(古矢 二〇二〇)。アメリカは人口当たりの収監者数が世界でも突出して多いが、そのなかで最大の割合を占めるのが黒人である。警察官が黒人を狙って尋問したり(「人種プロファイリング」と呼ばれる)、黒人には軽微な罪でも長期刑が科されるといった慣例のためである(中條 二〇一六)。タナハシ・コーツが我が子に向けて語るように、アメリカで黒人として生きるには、今日にあってなお、過酷な運命が待ち受けていることを覚悟しなければならない(コーツ 二〇一七)。BLMは、アメリカ内のこうした状況のなかから立ち上がってきたのである。

三.植民地主義の展開と批判

植民地主義の語法と起源

 BLMの世界的拡散を考えるとき、植民地主義の問題を避けて通れない。アメリカの人種差別に対するBLMの怒りや告発は、世界各地で植民地主義への怒りやその見直しの動きと共鳴し、広がっていった。本節では、この植民地主義について、より深く考えてみよう。

 オックスフォード英語辞典(OED)によれば、「植民地主義(colonialism)」という語には大別して二つの意味がある。第一に、「植民地のやり方」や「植民地に特徴的な行為やイディオム」の意味である。第二の意味として、「植民地のシステムや原則。今日では、大国が後進的あるいは脆弱な人々を搾取する政策を含意して軽蔑的に用いられることが多い」とある。ここで問題にするのは、第二の意味での植民地主義である。

 この用法の最初の文例として、「イギリスの植民地主義は十分うまく機能している(English Colonialism works well enough.)」というイギリスの憲法学者アルバート・ヴェン・ダイシーの著書(一八八六)からとられた文章が挙げられている。つまり、今日我々が普通に用いる意味での植民地主義という言葉が使われるようになったのは、一九世紀後半にすぎない。ダイシーは植民地主義を肯定的に使っているが、先の説明にあるとおり、OEDに挙げられた六つの文例のうち、四つは明らかに植民地主義を否定的に使っており、それらはすべて一九四九年以降のものである。植民地(colony)という言葉はギリシャ、ローマに由来し、OEDにおいても一六世紀以降の用例が数多く掲載されているが、植民地主義という言葉はずっと新しい。それは大航海時代以降のヨーロッパのグローバルな対外進出、植民地帝国の形成、その崩壊と脱植民地化といった近代における一連の過程を含意し、反省的に捉える言葉として今日流通しているといえるだろう。

 植民地主義の端緒と呼べる出来事として、スペインによる新大陸の征服を挙げることができる。コロンブスのエスパニョーラ島到達(一四九二)から時を置かずして、スペインはアメリカ大陸での征服活動を本格化させ、一六世紀前半にはアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼして先住民(インディオ)を服属させた。この行為を当事者はどのように捉え、どのように正当化したのだろうか。この議論は、一五五〇〜五一年のスペインで、バルトロメ・デ・ラス・カサスとファン・ヒネス・デ・セプールベダとの間で行われたバリャドリード論争に典型的に示されている。

 現地の悲惨な状況を踏まえて、スペイン人による征服の非人道性とインディオの擁護を訴えたラス・カサスに対して(ラス・カサス 二〇一三)、アリストテレス哲学を学びローマ教皇庁に仕えたセプールベダは、スペインによる征服の正当性を正面から主張した。彼によれば、キリスト教世界の護持や拡大を目的とする不信仰者に対する戦争は、「神に対する不正」を正す観点から正当なものである。インディオは、キリスト教徒の支配に入るまで、偶像崇拝や人身供儀などの野蛮な慣習に耽り、文字もなく、思慮分別を欠いていた。彼らのような自然奴隷(注1)を征服し、キリスト教化することは、多少の犠牲を大きく上回る恩恵を与えることになる。このように主張したのである(セプールベダ 一九九二)。ここでは、インディオが異教徒であることが征服と使役の根拠とされた。

 一九世紀において、植民地主義は人種主義と結びついて展開した。アミダヴ・アチャリャとバリー・ブザンは、国際政治の現実と国際政治学の展開との関係を歴史的に分析した近著(Acharya and Buzan 2019)の表紙に、アーサー・ドラモンド(Arthur Drummond)の一九〇一年の作品『大英帝国の寓意画』を用いている。大英帝国の絶頂期ヴィクトリア朝の最後の年に描かれたこの作品には、中央に鎮座するヴィクトリア女王の左手にほとんど全裸の黒人二人が、右手にはインド人と思われる二人が跪き、忠誠を示している。明らかに、人種主義と植民地主義とが合体したモチーフである。アチャリャとブザンはこの本で、一九世紀を特徴づける四つの国際関係思想として、自由主義、社会主義、ナショナリズム、そして「科学的」人種主義を挙げている。ヨーロッパの植民地支配がアジアやアフリカで面的に広がり、イギリスやフランスの植民地帝国が形成されるなかで、「社会的ダーウィニズム」のように科学的な装いをまとった人種主義が、統治を正当化するイデオロギーとして確立されていった(ムーア 二〇〇五)。優れた人種であるヨーロッパ人は、劣った人種に属する人々を保護し、正しい方向へと導かねばならない。植民地支配を正当化するこうした論理は、二〇世紀前半に至るまで、国際社会で公に流布していた。

 この認識は、一九一九年の国際連盟規約にも垣間見ることができる。第一次世界大戦で敗北したドイツやオスマントルコの領域を、国際連盟委任統治領として戦勝国に移譲する規程では、次のような説明がされている。

 今次の戦争の結果従前支配したる国の統治を離れたる植民地及び領土にして近代世界の激甚なる生存競争状態の下に未だ自立し得ざる人民の居住するものに対しては、その人民の福祉及び発達を計るは、文明の神聖なる使命なること、及びその使命遂行の保障は本規約中に之を包容することの主義を適用す。(国際連盟規約第二二条第一項)
 この主義を実現する最善の方法は、その人民に対する後見の任務を先進国にして資源、経験又は地理的位置により最もこの責任を引き受くるに適し且つ之を受諾するものに委任し、之をして連盟に代わり受任国として右後見の任務を行はしむるに在り。(同条第二項)

 ここには、旧植民地の住民を「近代世界に激甚なる生存競争状態の下に未だ自立し得ざる」、そして「後見」が必要な半人前の人々とみなし、彼らの「福祉及び発達を計る」ことが「文明の真正なる使命」だと称揚するパターナリスティックな視点が明確に見て取れる。アジア、アフリカの人々を劣ったものとみなし、植民地主義を是認する態度は、第一次世界大戦終了時、国際連盟成立時の欧米諸国に共通しており、それらは公的に認められていた。ヴェルサイユ条約を成果文書とするパリ講和会議を主導したのがウィルソン米大統領だったことは示唆的である。彼は南北戦争後に初めて南部民主党から選出された候補で、「人種隔離を支持しクー・クラックス・クランの騎士道を信じる南部人であった」(中野 二〇一九:三八)。かつてウィルソンが総長を務めたプリンストン大学は、彼が人種差別思想をもって黒人の入学を阻害したとして、BLM運動が盛り上がる最中の二〇二〇年六月、大学の建物からその名前を撤去することを決めた。

植民地主義への批判

 第二次世界大戦を境として、植民地主義に対する国際社会の公的な姿勢は劇的に変化した。植民地主義は早期に脱却すべきもの、そして否定されるべきものという認識が一般化するのである。その点を端的に示す文書を挙げておこう。まず、国際連合憲章(一九四五)における信託統治領に関する条文である。国際連盟の委任統治領は、国際連合では信託統治領として引き継がれた。その条文(第七六条)では、信託統治制度の基本目的として次の三点が挙げられている。

一.国際の平和及び安全を増進すること。
二. 信託統治地域の住民の政治的、経済的、社会的及び教育的進歩を促進すること。各地域及びその人民の特殊事情並びに関係人民が自由に表明する願望に適合するように、且つ、各信託統治協定の条項が規定するところに従って、自治または独立に向っての住民の漸進的発達を促進すること。
三. 人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように奨励し、且つ、世界の人民の相互依存の認識を助長すること。

 いずれも、国連憲章第一条にある国連の目的に合致し、それを確認する内容である。特に注目されるのは、第二項にある「自治または独立に向っての住民の漸進的発達を促進すること」という一文で、ここでは信託統治(すなわち外国による統治)が自治や独立を前提としてなされるべきものだと述べられている。この段階で、植民地主義に対する見方は、条件つきの是認へと変わった。

 それがさらにラジカルに変わるのは、一九六〇年一二月一四日に採択された国連総会決議一五一四「植民地諸国、諸人民に対する独立付与に関する宣言(植民地独立付与宣言)」である。全七項からなるこの宣言では、冒頭に「外国人による人民の征服、支配及び搾取は、基本的人権を否認し、国際連合憲章に違反し、世界の平和及び協力の促進の障害になっている。」(第一項)として、植民地支配の不当性、違法性が確認される。第二項では「すべての人民は、自決の権利を有する。」として、人民の自決権が認められる。そして、第三項では「政治的、経済的、社会的又は教育的基準が不十分なことをもって、独立を遅延する口実にしてはならない。」として、可及的速やかな植民地の独立を求めるのである。この決議がよって立つ原理は、ヴェルサイユ条約のそれと一八〇度異なる。植民地独立付与宣言は、賛成八九、反対〇、棄権九の圧倒的多数で採択された。

 ヴェルサイユ条約から植民地独立付与宣言までの約四〇年間に、植民地主義に対する国際社会のまなざしは大きく変わった。とりわけ、第二次世界大戦後の一五年間の変化は劇的だった。この動きは、国際政治の変化から説明することができる。第一次世界大戦直後にあって国際政治の中心を占めていたのは英仏を中心とするヨーロッパ諸国であった。イギリスもフランスも植民地帝国であったから、そうした国際政治のパワーバランスのなかで、植民地主義の維持が合意されたことは当然である。そうした時代にあって、ウィルソン米大統領はごく「普通」の人物だったということだ。パリ講和会議において、日本の代表団が国際連盟規約に人種差別撤廃に関する文言を盛り込もうとしたが、議長のウィルソンに退けられたことはよく知られている。ただし、ウィルソンだけを責めるのは筋違いであろう。日本の行動はアジア、アフリカの植民地の立場を代表したものではなく、アメリカなどでのアジア系、日系移民への差別措置に対抗するというのが主たる理由だった。そもそも日本は一九一〇年に韓国を併合し、国内に朝鮮人、中国人に対する強い差別が蔓延していたことは、改めて指摘するまでもない。

 第二次世界大戦後の変化は、国際政治の中心の移動と新たなアクターの登場が引き金になっている。戦争で疲弊した英仏に代わり、アメリカ合衆国とソビエト連邦が新たな超大国として国際政治の中心に躍り出た。日本の敗戦によってアジアに多数の新国家が誕生し、一九五〇年代になるとアフリカにも独立国が誕生する。新たに独立した国々は国連に加盟し、総会で議席を得た。そして、そこで植民地解放を訴える声が強まっていく。なかでも、「アフリカの年」とも呼ばれる一九六〇年には、一七のアフリカ諸国が一挙に独立を勝ち取った。植民地独立付与宣言は、こうした国際情勢の下で採択された。国際政治の巨大なうねりが、植民地主義をめぐる国際社会の考え方――すなわち国際規範――を一八〇度変化させたのである。

 今日、植民地主義を公的に是認する声はなくなった。しかし、植民地主義をめぐる問題が解消されたわけではない。そこでの問題は、単純化すれば、「新植民地主義」をめぐるものと、「ポスト植民地主義」をめぐるものとに整理できるだろう。いずれも、植民地こそほとんどなくなったけれど、植民地主義の影響は形を変えて残存しているという認識に基づいている。新植民地主義という言葉は、植民地の独立が進展した一九六〇〜七〇年代以降聞かれるようになった。新たに独立した新興国と旧宗主国や先進国との間に、経済や軍事同盟を通じて、植民地期と同様の支配・従属関係が構築されることへの批判、警鐘であった。

 ポスト植民地主義は、植民期のさまざまな遺制(レガシー)に注意を向ける。植民地統治は、政治、経済、社会、文化の幅広い領域に影響を与え、レガシーを残した。民族対立が植民地統治に起源を持つことは珍しくないし、逆説的だが植民地支配がなければ生まれなかった国家も少なくない。インドとパキスタン、そしてバングラデシュという三つの国家は、イギリス領インドから切り分けられる形で誕生した。スペインの支配から独立を遂げたラテンアメリカ諸国も、英仏の広大な帝国から独立した数十のアフリカ諸国も、植民地帝国を統治するためにつくられた行政単位が脱植民地化の過程で主権国家に転化したものである。国家の誕生そのものが植民地統治の帰結であるという状況にあって、植民地が消えても植民地主義が簡単になくならないことは、いうまでもない。

 BLMとの関係で指摘すべきは、植民地主義の見直しが近年新たな形で進んでいることである。第二次世界大戦を契機として、植民地主義が公的に否定され、従属国の独立が進んだたことはすでに述べた。しかし、ちょうどアメリカで奴隷制が公的に廃止された後も黒人差別が残存したように、植民地が独立しても植民地のレガシーはさまざまな形で残っている。そうしたなか、一九九〇年頃から、植民地支配への謝罪や補償を求める動き、それに応える動きが世界各地で少しずつみられるようになってきた(このうち、ヨーロッパとアフリカの関係については第15章を参照(注2))。容易に想像できるように、植民地主義の見直しは簡単な作業ではないし、直線的に進むものでもない。日韓関係をみれば、そのことは一目瞭然であろう。とはいえ、少しずつ進んできた見直しが、二〇二〇年にBLMとシンクロし、多くの人々を動員した事実は確認しておくべきであろう。

四.BLMから学ぶ

 BLMには三つの側面がある。それはまずもって、現状に対する告発である。黒人の命が粗末にされていること、黒人をはじめとするマイノリティへの差別がまかり通っていること、それが当然のようにやり過ごされていることへの告発である。BLMは、黒人に暴力をふるう警官や、差別を前提とした社会構造から利益を得ている人々、そしてそこに自覚的であれ無自覚的であれ安住している人々を告発する。ただし、BLMは必ずしも、被害者による加害者に対する告発としてのみ捉えられる現象ではない。

 BLMは同時に、歴史に対して目を向け、そこから学ぶことを私たちに促す。アメリカで黒人奴隷制がいつ、どのようにつくられたのか。奴隷はどのように扱われたのか。奴隷解放宣言の後も黒人への制度的差別がなくならず、暴力がむしろ増えたのはなぜなのか。民族自決を唱えた理想主義的なウィルソン大統領はなぜ人種差別主義者でもあり得たのか。他者に対する仮借なき征服や支配がどのように正当化されたのか。植民地主義へのまなざしが二〇世紀の前半から半ばにかけて劇的に変化したのはなぜなのか。今日の諸問題は、こうした歴史とどのように結びついているのか。なぜ差別はいつまでもなくならないのか。BLMは絶え間なく、私たちにこうした問いを投げかける。

 そしてBLMは、未来について考えることを私たちに促す。はたして和解は可能なのか。どのような和解が可能なのか。そのために何ができるのか。過去から何が学べるのか。BLMに対する共鳴が広く世界でみられるのは、現在まさに多くの国でこうした問題が真剣に問われているからにほかならない。過去の過ちを認め、それを乗り越えて、どのような未来を切り拓くことができるのか、日本を含め、世界各地でそれが喫緊の問題として浮上している。BLMはそうした時代状況を反映した運動である。

 BLMから学ぶことは無数にある。この章は、筆者の専門領域(アフリカ研究、国際関係論)に引きつけた問題の整理になっているが、多様な専門領域から異なった学びができるはずだ。本書を手に取った皆さんが、それぞれの問題関心に即して何かを学び、未来へとまなざしを向けてくださることを切に希望する。

―――――

(1)アリストテレスは、主著『政治学』で、人間のなかで「自然本性的に」自由人たるものと奴隷たるものが存在すると論じた。セプールベダはその議論を念頭において、インディオを「自然本性的に」奴隷だと主張したのである。
(2)近年における植民地主義の見直しは、幾つかの関連した動きと並行して進んできた。アメリカ合衆国では、第二次世界大戦中の日系人強制収容に対する補償(一九八八)、一八八三年のハワイ王国転覆事件への謝罪決議(一九九三)、奴隷制に対する州議会での謝罪決議(二〇〇七〜〇八)といった動きがあった。また、一九八〇年代以降、アルゼンチンやチリ、そして南アフリカなどで、過去の政権が行った虐殺、誘拐、拷問、また人種差別政策に関して、真実を明らかにし、記録し、可能であれば裁く試みがなされた。これらは、植民地主義の見直しとはいえないが、過去になされた著しい人権侵害の処理という点で共通する。こうした「過去の克服」の動きについては、永原編(二〇〇九)も参照のこと。

【執筆者紹介】
武内進一(たけうち・しんいち) ※編者
東京外国語大学現代アフリカ地域研究センター/大学院総合国際学研究院教授
専門:アフリカ研究

中山智香子(なかやま・ちかこ) ※編者
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
専門:グローバルスタディーズ(現代経済思想、社会思想)

荒このみ(あら・このみ)
東京外国語大学名誉教授
専門:アメリカ文学・文化研究

佐々木亮(ささき・りょう)
聖心女子大学現代教養学部国際交流学科講師
専門:国際法学・国際人権法、特に多文化共生社会における人権問題等

岡田昭人(おかだ・あきと)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
専門:比較・国際教育学(教育改革・異文化理解)

小田原琳(おだわら・りん)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
専門:イタリア史、ジェンダー史

出町一恵(でまち・かずえ)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
専門:国際経済学、開発経済論、国際金融論

大鳥由香子(おおとり・ゆかこ)
東京外国語大学世界言語社会教育センター講師
専門:アメリカ研究、歴史学、子どもの歴史

友常勉(ともつね・つとむ)
東京外国語大学大学院国際日本学研究院教授
専門:日本思想史、近現代部落史

高内悠貴(たかうち・ゆき)
弘前大学人文社会科学部助教
専門:アメリカ史、ジェンダー史

橋本雄一(はしもと・ゆういち)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
専門:中国文学、植民地社会事情

加藤雄二(かとう・ゆうじ)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
専門:アメリカ文学・文化、批評理論、比較文化論、音楽論など

山内由理子(やまのうち・ゆりこ)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
専門:文化人類学、オーストラリア先住民研究

中山裕美(なかやま・ゆみ)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
専門:国際政治学、国際制度論、移民難民研究

森聡香(もり・さとか)
大学生

奥富彩夏(おくとみ・あやか)
大学生

大石高典(おおいし・たかのり)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院/現代アフリカ地域研究センター准教授
専門:人類学、アフリカ地域研究

藤井光(ふじい・ひかる)
アーティスト

西井凉子(にしい・りょうこ)
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授
専門:文化・社会人類学

岩崎稔(いわさき・みのる)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
専門:哲学、政治思想

太田悠介(おおた・ゆうすけ)
神戸市外国語大学総合文化コース准教授
専門:思想史、フランス思想

中山俊秀(なかやま・としひで)
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授
専門:言語学(消滅危機言語、言語システムの形成と変化、言語類型論)

画像1

【書誌情報】
ブラック・ライヴズ・マターから学ぶ アメリカからグローバル世界へ
[編]武内進一・中山智香子
[判・頁]四六判・並製・384頁
[本体]1800円+税
[ISBN]978-4-904575-94-9 0036
[出版年月日]2022年3月15日発売
[出版社]東京外国語大学出版会

※肩書・名称は本書の刊行当時のものです。

書籍の詳細はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?