takahoueno

NZ在住23年。会社経営。一児の父。少しでも多くの人がHappy になれればいいと思う。

takahoueno

NZ在住23年。会社経営。一児の父。少しでも多くの人がHappy になれればいいと思う。

最近の記事

他人からの自分への評価は、しょせん過去の自分に対するものだから

他人からの評価は誰もが気になる。 今から何かをやるときに、それに対する他人からの評価を想定して、その評価を高めるために、今からやることを決めることもあるくらいだ。 これは一見、未来の自分の行動を、未来の他人の評価で決めているように見える。 けれど実は、他人からの自分の評価などというものは、全て過去の自分の対するものだ。 あたりまえだ。まだ何もしていない未来の自分に、誰も評価を下すことなどできない。未来の他人からの評価など想像に過ぎない。 他人から自分への評価が全て過

    • やっぱり「変」は誉め言葉

      やっぱりどう考えても「変」は誉め言葉なんです。 そういうと戸惑う人もいるけれど、 「あなたは、みんなと違うところがなくて、同じことを考え、同じことをして、同じ反応で、同じ感じ方をしている」 と言われるのと、 「あなたは、他の人とは違っていて、独特の考えを持っていて、行動も違っていて、反応も独自で、あなたらしい感じ方をしている」 と言われるのでは、どちらが褒められているだろう。 でも後者は、社会では「変」と言われる人だ。 けれど、前者も実は社会では「変」と言われる

      • NZに移住するまで その2

        オークランドからロトルアに移動しても、当然いろんな仕事を探して歩いた。バックパッカーズホステルに泊まって、そこでスーツとネクタイ姿に着替えて、飛び込みでCVを持って行ったり、アポイントをとって面接を受けたりした。 どこに行っても話は聞いてくれたけれど、採用どころか手ごたえさえもなかった。 ある日ロトルアで、日本食レストランの求人が出ているという話を人伝えにきいた。いそいで電話をかけてアポイントをとって面接を受けに行った。 オーナーは日本人だった。 最初は夫婦のうち一人

        • NZに移住するまで その1

          自分の記録としても、ニュージーランドに移住したときのことを何回かに分けて書いておきたいと思う。 最初にニュージーランドに降り立ったのは、1995年。新婚旅行だった。オークランド、ロトルア、ウエリントン、クライストチャーチ、クイーンズタウンと、メインの観光地を2週間余りで足場やに周った。 ビデオもたくさん回して撮っていたけれど、後で見返すと、日本に帰国する前日オークランドの最後の宿で、「ここに残りたい」ということを私はカメラに向かって言っていた。 それから夏休みのたびにニ

        他人からの自分への評価は、しょせん過去の自分に対するものだから

          過程がならんでいる

          ニュージーランドに移住してきた1997年当時は、まだインターネットもほとんど普及しておらず、何もかもが手探り状態だった。 それから23年あまり。振り返ってみると、「あのときのあの人との会話」とか「あのときにこれを選んだ」とか、そんなことで、今いる場所が全く違っていることがわかる。 現在の自分は、今までに自分で選んできたことすべての結果なのだ。 でも考えてみると、これからも生きていくのだから、無数の選択をするだろう。そして、今日のこの選択が、この判断が、この出会いが、未来

          過程がならんでいる

          間違っている

          何かが間違っているように感じることがあるけだろうれど、世の中が間違っているのか、自分が間違っているのか、わからない。 中学生なら世の中全てが間違っていると憤ることもできるだろうけれど、自分がいままで築いてきたことがほとんど間違っていると、どうすれば受け入れることができるだろうか。 自分を正当化し、指摘してくる人を否定し、暖かい自分だけの常識のなかに閉じこもる。 一緒に同じ船に乗っているだけならいいけれど、舵を握っている人を選ぶことはできないのなら、降りるしかない。

          間違っている

          私とあの人との間にはラインなどない

          何かが苦手だという方も多いだろう。きっとみんな何かしら苦手なことがある。 人付き合いが苦手だとか、楽器は全くひけないとか、運動は一切ダメだとか。私も、音階はまったくわからないし、中学数学で出てくる空間図形などはいくら考えてもわからなかった。 楽器がひけないとか、運動ができないとか、音痴だとか、そんなことが苦手な人は、ただそれが苦手だと言われるだけだ。でも、文字がよく読めないとか、左と右がわからないとか、いろんな音が一緒に聞こえるとか、そんなことが苦手な人は、専門家に相談し

          私とあの人との間にはラインなどない

          上から目線という言葉は下から目線の強力な攻撃

          日本で最近流行っている言葉や、少し前に流行りだしてすでに定着している言葉の、微妙なニュアンスがわからないことがある。 たとえば、上から目線という言葉などもそうだ。 「あいつは上から目線でものをいう」「なにあの、上から目線は」などと使われる。意味と状況はわかる。 でもどうも気になるのが、たとえば田中さんが、「鈴木のあの発言は上から目線だ」と言った瞬間に、その言葉の内容は関係なく、鈴木は悪いことをしていて田中は善人だ、というポジションが出来上がるように感じることだ。 もっ

          上から目線という言葉は下から目線の強力な攻撃

          今自分がここにいるのは偶然に過ぎない

          先日も、人間、自分では選べない状態で生まれてきて、自分では選べない状態で死んでいく、と書いた。 なんとなく、自分の人生は自分で選んでここまで来たと思い込んでいるけれど、あたりまえのように、自分が及ばない力や偶然で今ここにいるのだろう。 たとえば地震や感染症などは自分ではコントロールできないけれど、自分の目の前の生活に大きな影響を与えるし、望まない方向に人生を進めていく。 いろんな意図しないことが、今の自分の居場所を作っているのだ。 そう考えると、いろんな力に抗うのでは

          今自分がここにいるのは偶然に過ぎない

          気がついたときにはもう生きている

          人間だれもが、気がついたときにはすでに生まれて生きている。 生れていて生きていて、でもその場所も、家族も、自分の身体も、内面も、自分で選んではいない。 あたりまえのように、そこでそのように生きなさいと、放り出されている。 あまりにも不条理だけれど、でもまずはそのことを受け入れて生きていかなければならない。 生れてきた状態が、そして生きていることに気づいたときの状態が、あまりにも不条理だから、それを終わらせる「死」の状態も、自分で選べないという意味で、とても不条理だ。

          気がついたときにはもう生きている

          その日がいつかくるのを待っている

          いつか死ぬことはもう決まっているのだから、生きていくうちに、残り時間はだれもがどんどん少なくなっている。 子どものころは、将来の時間なんて無限にあるかのようにそれを感じずに、自分の人生がいつか終わることなど想像もせずに、永遠に生きると信じていた。 それがあるとき、最後の日が見える。そこで行き止まりで、ある日以降の「無」が見える。 でも、私はなぜか最近、将来のプランを立てるとき、ある日以降の「無」の中まで入り込むような計画を立てていることに気がつく。子どものころのように、

          その日がいつかくるのを待っている

          世の中にはすごい人がたくさんいる

          世の中には、ほんとうにすごい人がたくさんいて、高い能力、すばらしいスキル、多くの経験、深い思慮などを持っている。 若いころはそんな人たちをみると、うらやましくて、嫉妬して、負けた気がして、落ち込んだりしていた。 けれど自分自身もいろんな経験をして歳を重ねてくると、そんなすごい人たちに対して、心の底から、単純に、すごいなぁと思う。 そこには、羨望も嫉妬も敗北感もない。その上自分ももう少し何かをやってみようという気になるから、ありがたいとさえ思う。 年齢を重ねてなにが変わ

          世の中にはすごい人がたくさんいる

          人生基本何でもあり

          人生基本何でもありだと思う。 じゃあ、人を殺してもいいのか、という方もいるけれど、世界中で実際にそうしている人もいて、その人の中では「あり」だったのだ。 ルール、法律、倫理などが求められるのは、逆に何でもありだからだろう。ルールや法律や倫理でそれに制限をかける。 見通しのいい絶対に車が来ないとわかっている真夜中の交差点で横断歩道の赤信号を守るかどうかは、その人次第だ。信号を無視して道路を渡るとその人が決めたのなら、そうすればいい。 一旦何でもありのところまで戻って、ル

          人生基本何でもあり

          お互いに傷つけあい、お互いに苦手で、お互いに大嫌い

          誰かのひと言で傷つくことがあるのなら、自分のひと言で誰かを傷つけていることもあるだろう。 この人苦手だと感じる人がいるのなら、自分のことを苦手だと感じている人もいるだろう。 こいつは大嫌いという相手がいるのなら、自分のことを大嫌いと感じている人もいるだろう。 そんなことをいちいち気にしなくてもいいという人もいるけれど、まったく無視して生きていくこともできない。 お互いに傷つけあい、お互いに苦手で、お互いに大嫌い。 とりあえず、そこから始めるしかないのだろう。

          お互いに傷つけあい、お互いに苦手で、お互いに大嫌い

          いったいどこからまちがった方向に進んできたのだろう

          毎日毎日の生活の中で、ほんのすこしずつ受け入れてきた変化が、気がつけば、全く望まない、意図しないところに自分をつれてきたことに、ある日、ひとりでくつろいでいるときに、ふと気づく。 いったい何が、どこから、まちがった方向に進んできたのだろう? 大きな変化を必要とするのだろうけれど、果たして今から自分にそれができるのか? 後悔とは違う、焦燥でもない、羞恥とも違う。そこに目を向け続けるべきなのかもわからない。「今ならまだまにあう」というかけ声も有効ではなさそう。 これを無視

          いったいどこからまちがった方向に進んできたのだろう

          いつまでたっても

          この歳になって、自分のダメさや、バカさ加減、できることの少なさや、感情の欠如に、毎日のように気がつく。 若い時に、自分はいい人間だとか、頭がいいとか、何でもできるとか、感情豊かだとか、そんなふうに思っていたのは、心底ほんとうにダメでバカな人間だったのだろう。 いい気になって人に説教したり、自分のわずかな知識をひけらかしたり、自分だけが正しいと信じ込んでいたり、わかったような気になっていたり。 「ああそうですか、それはよかったですね。ほんとうに、お疲れさまでしたね」と当時

          いつまでたっても