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正しさを求めるイマジンとヒマジンたちへ

ロシアとウクライナの戦争は、日増しにその激しさを増している。先日も、地元に残って戦闘をサポートするという父親を、涙ながらに背にしながら、難民として外国に逃れる少年は、皆様もNHKのニュースを始めご覧になられたことだろう。

悲惨な光景としか言いようがない、偏見に満ちた意見と言われようが、これは一年730日は戦争をしているであろう中東の話では無いのだ。我が国でも、日頃は、外国の難民なんて海に追い落とせと叫んでいる面々が、途端に「ウクライナをサポートしよう」と叫びだしたことは、記憶にとどめておきたい。

以前の記事で「義勇軍に参加するような物好きなど、そうはいないだろう」と述べてしまったが、なんと日本からも、数十人はわざわざ戦火の中、報酬ではなく大義の為、義勇軍に身を投じる覚悟を決めたのだという。しかもその大半は、訓練された元自衛官だ。

そのような中、各国は軍隊を送ることはしなくとも、経済制裁を通じた圧力で、ウクライナ侵略を抑制しようと懸命な努力を見せている。

そこで、我々は問題に直面する。「どこまでが悪の大帝プーチン政府で、どこまでが善良なロシア人か」という難問である。現代経済において、あらゆる産業は密接に関わっている。ひょっとすると単なる趣味の動画サイトが、国家を支援する行政機関にコントロールされているかもしれないのだ。

ひょっとすると、単に新潟から中古車を持ち出している人の良いロシア人のおじさんの買っていったトラックが、侵略の物資補給に使われるかもしれない。回り回って、あなたの飲んでいるウォッカから、ウクライナの子供を撃ち殺す弾丸が作られるかもしれないのだ。

ミラノの名高いオペラ座の、監督の降板が決まったという。理由としては「ロシア人でありながら、悪の大帝に抗議を述べなかった」ことである。

政治的正しさの流れが一端設定された以上、とどめるものは、物理的に行使される、ロシアの核ミサイルぐらいであろう。才気ある音楽家は、一夜にして芸術の表舞台から撤去されたのだ。

とはいえ、一芸術家の立場で、暴君と名高い皇帝に逆らうことができるのか、という点では、疑問符が付く。プーチン大統領はイタリアにあまた居るであろうマフィアたちと違い、誰もが認めるロシアの最高権力者なのだ。逆らった人物のため、親戚友人にまで累を及ぼす話は後を絶たない。

しかしながら、西側諸国は冷徹に「暴力団と交際する人物」としての烙印をこの芸術家に押すこととした。すなわち、社会的名声を剥奪した上での、事実上の追放である。

正しさからの追放

これこそが、西ヨーロッパが今に至るまで、その文化的命脈を保ってきたレトリックだ。ひょっとすると、アメリカで進捗するポリコレトレンドの先を走ろうと、もがいた結果かもしれないが。

この判断において「能力はあるが、やましい国の出身で、自国の指導者を糾弾できなかった」ような、不適切な人間への人権は、簡単に止揚される。それは、もはや対立する概念では無く、完膚なきまでに打倒されるべき幻影だからだ。

実のところ、ポリコレEUは、別にウクライナを本腰を入れてサポートする気などない。ましてや、ポリコレの烙印を押して回る面々が、銃を担いでどこかの戦線に立つことなどまずもって無い。彼らは、わたしたちと同じ、安全地帯からわめいているに過ぎないのだ。

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace
イマジン、歌詞2番

かつて、多くの人々がこの歌詞を口ずさむことで、何かしらの平和を手にすると信じていた。だが、当時これを歌ったたった4人ですら、互いの争いから逃れることはできなかったのだ。今でもこの歌を神聖視し、何かの賛美歌として批判を許さない人間、それは単に暇な年金生活者だろう。

「想像してみよう、国というものがなかったなら」

私がウクライナ兵であれば、一行目の歌詞に対して、手持ちのマシンガンで返答したい。

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