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強すぎる思いがくだらない批評家を生んだ
こんにちは。見事にnoteを書くことが習慣化できていない男、つっち~です。今日は、お笑い(主に漫才やコント)を愛しすぎたことで・・・エライことになっちゃったって話です。
僕はサウザー?
あの有名なサウザーは、愛を極めようとした結果、愛を捨てるということを選択してしまいました。悲しきかな。
僕は、お笑いを好きになりすぎた結果、お笑いを捨てた(嫌いになった)わけではありません。
じゃあ、どうなったの?
タイトルの通り、偉そうに批評する謎の存在になってしまったわけです。
ふと気づいてしまったんですよ。お笑い賞レースやお笑い番組を見ている時の自分は、「ここはもっと間が・・・」「いや、このネタは古いよな」「一位はこのペアだけど、個人的には~」なんてことを考えながらテレビをずっと見ていることに。
だから僕は、M-1を見ていようが、キングオブコントを見ていようが、すべらない話を聞いていようが、基本的に笑わないんです。むしろ、笑えなくなってしまったと表現したほうがいいかもしれません。(イナガキってる)
なんで?
昔から大好きなんです。巧みな漫才も、没入感のあるコントも、うまいフリのあるエピソードトークも(ほらもう批評家感だしてる)。大好きで、大好きでたまらないんです。けれど、いつからか、それらを見るときに、「うまい芸人のテクニックを盗もう」「この展開だとおもしろいのか」「あー、そうきたか・・・勉強になるな」なんて考え始めて・・・。そうなったらもう楽しめない。好きだけじゃいられない。そんなことを繰り返しているうちに、勝手に審査員気取り。
お笑い芸人になるわけでもないのに。
思いの強さとフラットに向き合う気持ちは共存できないのか?
そんなこんなで、偉そうなお笑い批評家になってしまった僕。それを自覚し始めてからは比較的純粋に笑えるようになりました。(すべらない話の兵頭の話は思わず声出ましたねww)
結局自分はその現場のリアルな雰囲気や、芸人の生きてきた文脈、周りの人との関係性、気持ちなど、「見えていない部分」を知りもしないのに、勝手に言いたい放題言って、わかったふりをして、偉そうにして。
まさに、「じゃあ、お前やってみろよ。」ですよね。
好きは好き(自分の思い入れが強い)でいいんだけど、もうちょっとバランス感覚(偏りすぎないようにしたいという願い)を磨けば、もっとシンプルに物事に向き合うことも可能かな。と思った次第で。
時にその思いや言葉は人を傷つける凶器にも・・・
例えば、僕がしていたこと(思っていたこと)が過剰になり、SNSで好き放題言う、ライブまで足を運んで、出待ちして罵倒する(好きすぎるやろ)、皮肉たっぷりなファンレターを送る(好きすぎるやろ)・・・。なーんてことをしたとしよう。
そんな発信や振る舞いを見て、本人だけでなく周りも傷つく。
そんなこと起こってません?
終わりに(精一杯の皮肉と愛をこめて)
あ!そうそう。僕の関わっている教育業界もまさにね。(急に何)皆が皆、「こうだ!」ってのが結構強いなって思って。(特に僕のTLには教育関係者のツイートが流れてきやすいし)
多くの人が学校を通過して大人になっている以上「自分自身の体験」があるので、それをベースに語りやすいですしね。
もちろん、腹が立つこともあるだろうし、違和感がぬぐえず吐き出したいこともあるだろうし、見過ごせないこともあるかもしれないし、批評家になりたい時もあるだろうし。僕がお笑い番組を穿った見方をしてしまったように、TLをそんな見方で眺めてしまうこともあるでしょう。
それらの発信をみて、思考が促され成長することもあるだろうし、新たな価値観との出会いがあるだろうし、また腹が立つこともあるだろうし、傷つくこともあるだろうし。
どうぞ、それぞれの立ち方で、それぞれ向き合っていきましょう。だからこそ、全部背負う必要はないんです。全部自分が背負わなきゃって思わなくていいと思います。
なーんか、全然違うところに着地した気もするけど、まぁいいや。
終わり!明日から雪山に籠ってきます。
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