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こわくないよ、たのしいよ

私の所属する企業はたいへん大きく、従業員が8000人くらいいる。いわゆる日本の、それも比較的古くからある産業の、いわゆる大企業というのは、旧態依然としていて融通の利かない、静的で澱んだ空気の支配するところなのだろうと思う人もいる。実際そういうところもある。

でもやっぱり、何百人という規模を超えてくると、人間集団は一枚岩ではなくなる。いろんな人が中にはいるし、外からは見えなくても確実に変わってきている部分というのもあるのだ。

私は仕事で使うきわめて真面目なスライドの中に、ファンであるところのでんぱ組.incの紹介を挟むことがよくある。私が会社に入った頃であればともすれば、滑るどころか怪我をするレベルの寒々しいことになったかもしれない。しかし今は違う。クスリと笑う人、あとでその話に質問をしてくる人、後日私に新曲聞いたら好きだった!と言ってくれる人がいる。いろいろだ。「ファンファーレは僕らのために」が頭の中に流れてくる。それも1サビ後のセリフのところ。

こわくないよ/たのしいよ/でやわっしょい/えんじょいやー!

自己内多様性、という言葉が好きだ。平たい言葉なら、「キャラが散らかっている」が似つかわしい。大企業の会社員だろうがなんだろうが、仕事以外の部分があってその人の仕事ぶり、出来栄え、人となりが生まれるのだから、どんどん前面に出したらいいと私は思うし、自分からそうするべきだと思うのでそうしている。愛のこもった推しの話は、節度さえ外さなければ案外と疎ましがられないものだ。


久米宏と池上彰が「ラジオなんですけど」で対談した際のテキスト起こしを最近読んだ。そこで面白くも気になっていたのは、「ニュース番組で何かを理解してもらうことはできない。わかったような気になるだけだ。しかしそのことこそニュース番組にできることだ」という趣旨の話題だ。

本当にそうだと思う。しかし、わかったような気になるというとなにか卑下した感じがしてしまう。そのことは、もっとずっと価値があるんじゃないだろうか。

先に書いたように、会社でよくプレゼンなどをする。プレゼン内容が100%伝わるなんてありえない。それどころか、せいぜい3個おみやげを持って帰ってもらう、両手が塞がるから2個かもしれない、そんなくらいでも受け取ってくれたら大成功だ。

となると、プレゼンだって「わかったような気になってもらう」くらいの事しかできないケースがほとんどだ。感覚的には、1つの話題についてじっくりと、まあ1時間もかけてプレゼンすれば、オーディエンスの中になんらかの構造を構築することはできるかもしれない。しかしそれだって、オーディエンスみずからがアウトプットしなかったらあっというまに短期記憶から揮発してしまうのだ。記憶はアウトプットで定着するのだから。

それって、どうなのだろう。人に伝えることは容易ではないのだけれど、それで頑張ってもそんなものだろうか。何かに学習意欲が高い人ならそれを超えることはできる。悟空とクリリンが亀仙人から学んだのはそういうことだ。でもそうでない、他のことに忙しい人にそれ以外の何かを、なるべくブレないくらい安定した形で、手渡すにはどうしたらいいのか。

そこでさっきの歌詞が頭をよぎる。

わからないことに慎重になるのは人間の本能による部分があると思われる。一歳の娘はことさら慎重で、ちょっとした段差も手すりがないと乗り越えないような状態だが、それを見ているとなおさら思う。

しかしその恐怖は、正しく知ることで変形し、多くの場合は大幅に縮小する。いや、過小評価だって困ることは困るが、山より大きいイノシシが出ても困るのだ。

だから最近私は、プレゼン中によく言う。こわくないです、楽しいですよと。大抵の人はそこでフッと笑う。そうだとありがたい。

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