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ウィル・ワイルズ『時間のないホテル』-MICEビジネスと時空SFの不意の出会い-

2-3年くらい前、日本の今後のインバウンド・アウトバウンド政策に関する経済産業省の有識者委員会で、日本はもっとMICEビジネスに注力すべき、という提言がなされていた。MICEとはMeeting(会議・研修・セミナー)、 Incentive tour(報酬・招待旅行)、 Convention/Conference,(大会・国際会議)、Exhibiton(展示会)の頭文字を取った造語で、世界を飛び回るビジネス客は母数も消費額も大きいため(経費なので)、インバウンド振興策としてMICEの誘致に積極的な国は多い。日本はこれまで余暇を楽しむ観光客を主なターゲットとしてインバウンド市場を拡大してきたが、さらなるブレイクスルーを目指すためには、MICEの取り組みが必要不可欠、というわけだ(カジノ誘致なんかもその側面がある)。

本作『時間のないホテル』は知り合いに勧められて特に内容も調べず出たとこ勝負で購入した作品だったが、実はMICEのために作られた、洗練された没個性ホテルを舞台とした、展示会の代行参加サービスを生業に世界中の展示会を渡り歩く主人公の冒険譚だった。

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本作の主人公は、展示会から展示会へと世界中を飛び回り、ほとんど家に帰らず世界中のビジネスパーソン向けハイエンドホテルを泊まり回る生活をしている。彼にとって日々の生活は、世界中どこでも画一的に統率されたホテルとその周辺というグローバルだが極度に限定的な空間内で完結しており、ほぼ使っていないとされる「ロンドンの自宅」は、彼の生い立ちや両親との関係に関わる重要なアイテムでありながら、見て見ぬふりをされている。この物語は、確かなアイデンティティを持たずにビジネスに身をどっぷり浸している主人公「ニール・ダブル」(作中でも言及されるが、あまりにそのままな名前だ)が、Way Innというこれまたそのままな名前のホテルを通じて自らのの内面・過去へとWay Innし、無事にホテルからの脱出と帰省を果たすまでの物語だ。

本作の前半は、ホテル生活を愛する主人公と展示会イベントを舞台にした薄っぺらい人間模様を皮肉っぽく描いたビジネス小説だ。僕も出張や旅行の度に宿泊先としては全国チェーンのビジネスホテルを優先して選ぶタイプだし、幕張メッセや東京ビッグサイトで開催される〇〇EXPOのような展示会に参加したこともあるので、ホテル暮らしの感覚や展示会の雰囲気などはわりとリアリティを持ってイメージできる。確かに展示会はパンフレット(展示会終了後に見返すことはない)と名刺(これも展示会終了後、何かに繋がることはほとんどない)を効率的に収集・配布することが主眼とされるイベントであり、講演会場で開催されるプレゼンテーションやパネルディスカッションは正直そこまで面白くない(デスクリサーチで十分収集できるレベルの情報しか得られないことが多い)。CESのような世界的に注目されるイベントクラスになれば違うのかもしれないが、僕はかなり展示会が好きではないし、展示会参加のために出張し、参加者同士の親睦を深めることを目的としたパーティー的なものまで用意されているとなると、かなりぞっとしてしまう。ホテル暮らしの生活についても、ニール・ダブル君はかなり気に入っているようだが、僕はどうしても自宅以外の場合は水回りが気になってしまうので、結局落ち着かない(可能な限り大浴場完備のルートインに宿泊するようにしているのはそのためだ。夜食にラーメン食えるし)。

とはいえ、どことなく村上春樹の主人公と同じ雰囲気を感じるニール・ダブルを通してみるホテルの漂白された世界観と、非日常なイベント、酒、性の空気のせめぎあいはドライな文体ながら読みごたえがある。

そして物語は次第に、無限に続くホテルを舞台に主人公と謎めいた女がホテルの幹部と対峙するSF小説へと舵を取っていくが、このホラーテイストな筆致はとても良くて、一気に読み進んでしまった。ホテルという空間自体が極めてシンプルなためか、文字で読んでいても映像として小説世界がイメージができる。そして、イメージができる分、だれかに映画化してほしいなあ、と思いながら読み進めていた。やはりホテルの映画といえばキューブリックの『シャイニング』だが、『時間のないホテル』におけるどこまでもつづく廊下やホテルとの対話のシーンは、『シャイニング』における三輪車でホテルを走り回るシーンや、主人公が幻覚の中で過去のホテルと対話したりするシーンに重なる部分があり、ぜひとも実力のある監督に映画化してもらいたい。

この小説きっかけでJ・G・バラードの『ハイライズ』も買ったので、それも近いうちに読みたいと思っている。

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